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2018年10月 8日 (月)

三千二百九十七:地球環境を美しくするための呼びかけ

こんばんわ。

時々、ボランティアで、海岸清掃をもしている私です。
よく巷でも、「海を汚さないように」と言われています。

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ですので、多くの人は、「海岸にゴミを放棄しなければ良いだろう」と思いがちでしょう。
現実に、海岸に放棄されているゴミの1割か、それ未満の割合のゴミは、海岸に訪れた人が放棄したゴミかもしれません。

しかし、海岸に打ち上げられているゴミの9割以上が、実は、内陸部で出されたゴミなのです。
なぜ、内陸部に出された、それらのゴミが、海岸に集まるかということをご説明します。

雨の日になると、雨によって、内陸部に放棄されたゴミが、集められ、主に河川に流されます。
そして、その河川の流れは最終的に、海に到達します。
よって、河川を通じて、内陸部のゴミが海に到達するので、海岸のゴミの9割以上が、内陸部で放棄されたゴミということになるのです。

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私が以前から不思議に思っていたことは、「雨の日の後に、海岸のゴミの量が異常に多くなる」ということでした。
その不思議をたどると、内陸部のゴミが雨によって、主に河川に流れ込み、その増水した河川のちからによって、海にまで、内陸部のゴミが流されている、ということがわかりました。

確かに、海岸にやって来て、ゴミを投棄することもいけないことです。

しかし、上にご説明したように、もし、海のゴミを増やしたくなければ、内陸部のゴミの放棄をも避けなければなりません。

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ですので、「海を綺麗にしたい」と願われる方ならば、都市部や居住区等でのゴミの投棄をも、無くすよう、呼びかけなければいけないことになります。

みなさん、どうか、都市部や居住区等でのゴミの投棄をも、なさらぬようにしてください。
御協力のほど、どうか、よろしくお願いいたします。


 

                                       坂本 誠

2018年9月22日 (土)

三千二百九十四:ルール作りを考えてみて(追伸)

こんばんわ。
今日は、二つ目の記事です。

三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.1』の追伸記事です。

前段では、「憲法とか法律とかのルールそのものが、それほど重要なのか」という疑問の下にエッセイを書いてみました。

書き終えた後で、さらに続きを考えていたのですが、前段中の記事について新たに思いついたことがありました。

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大日本帝国憲法でも良いし、日本国憲法でも良いのですが、それらの憲法が制定された後に、なぜかわかりませんが、国を挙げての祝賀会が開かれているのに気が付きます。

小学校の教科書だったか、中学校の教科書だったかは忘れたのですが、憲法が制定された後、「それを祝う」という視点からか、どこかの数人の日本国民が万歳三唱をしている写真が掲載されていました。

学校の教科書でなくとも、どこかのテレビの歴史番組での戦後を語ったものの中で、何人かの日本国民が万歳三唱をしているシーンを、このブログの読者の方々も見た記憶があるかと思います。

無ければ、大日本帝国憲法の制定時のものでもかまいません。

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それらの写真や、シーンを見て以下の疑問を得たのですが、

  「万歳三唱を実行している何人かの日本人は心底から、それらの憲法制定を祝っているのだろうか?」

という疑問です。

その当時の役所の役人か、その当時の新聞社の社員達から呼びかけられて、彼等は万歳三唱を実行していたように、今現在の私には感じられるのです。

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なんとならば、かなりうまい組み合わせの元に、写真が撮影されているようです。
また、白黒フィルムの8ミリ動画で、あたかも、その場に居合わせた、万歳三唱を実行している、何人かの日本人が撮影されているように感じられるのです。

ちょうど、その場に、その当時の役所の役人か、その当時の新聞社の社員達が存在していて、うまいタイミングの下で、何人かの日本人の万歳三唱が撮影されているわけです。

憲法制定の祝賀会が開かれて、その祝賀会に、何人かの日本人が呼ばれた後、その当時の役所の役人が、その、何人かの日本人に以下のように呼びかけたのではないでしょうか。

  「やれ、我が国の憲法が制定されたので、今日は、めでたい日だ。あなたがたは日本人だ。だから無条件で、この憲法制定を祝った方が良いでしょう。従って、私が、あなたがたの万歳三唱を実行している光景を撮影して、その写真や動画を末永く、後世の日本に残したい。だから、あなたがたはカメラの前で、万歳三唱を実行して頂けないでしょうか?」

のような、役人の呼びかけがあったかもしれません。

この呼びかけによって、何人かの日本人も、

  「そうか。憲法が制定されて、私達は、それが、どのように私達に恩恵をもたらすかのシステムの構成を理解できないが、とにかく、考えるよりも先に、私達は、この憲法制定を祝った方が良いのではないだろうか。目の前にいる役所の職人の勧めのように」

という感じで、深くじっくりと考えた上での同意があって、つまり、何人かの日本人の心底なる祝いと幸福の気持ちによって、憲法制定時の万歳三唱を実行したようには、私には、あまり見受けないように感じるのですが、、、

この私の疑問を解消できるような新資料が出てくれば良いな、と感じています。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.1』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/09/_no1-824d.html


                                       坂本 誠

2018年9月21日 (金)

三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.1

こんばんわ。

昨今、巷で話題を耳にする憲法とかルールの事を書いてみたいと思います。

「憲法」というのも、ルールの一種であることは言うまでもありません。
ですから、基本的には、私達の身近に見られる例を題材に挙げて考えることが出来ます。

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例えば、現在でも、小学校のホームルームの時間で、そのクラス内の決まり事を決めることがあるでしょうか。

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その「決まり事」もルールだと言えます。

そのホームルームの時間に誰かが、「私達のクラス内だと、私がこれから述べる何々のルールが必要になるかと思います」と発言して、クラス内でのルール作成を行おうとしていると仮定しましょう。

すると、そのクラス内の小学生の間で議論が交わされるでしょう。
例えば、ある生徒ならば、

  「私達は、そんなルールを必要だと思いません

というような反論も起こるでしょう。

しかし、そのルールを作成したい生徒としては、彼(あるいは彼女)が必要だからこそ、そのルールをクラス全員に認めてもらいたいことがわかります。

そして、ホームルームの時間内で、生徒達の会議の結果、「そのようなルールが私達のクラスに必要だとは思いません」という生徒が多数となれば、そのルールは却下されることになります。

さらに、「これそれのことをルールとしたい」として議題に挙げられたので、そのルールを作成したい側の生徒としては、

  「このルール作りの会議に長時間を取るわけにはいかないだろうから、これそれまでの時間に、多数決を取りたい」

と言ってくるかもしれません。

しかし、そのようなルールを欲しない生徒の側としては、

  「私達としては、そのようなルールを必要とは思わないので、時間を区切ってまで、早々と決める必要も無いと思います。ですから、このクラス内の全ての人が納得するまで、無期限で、議論を続けても良いのではないでしょうか?

という意見も出せるか思います。

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ですが、上の例をそのまま続けて、そのルールを作成したいために発案した、生徒の側からすれば、

  「ルール作りというものは非常に大事なものだから、時間を区切って(どこかの会議で見られるような強行採決のように)、私達はキチンと決めるべきなのです」

と言ってくるかもしれません。

ここで、私達は上に挙げた例え話から離れてみましょう。

そして、ここで一旦深呼吸して冷静になって、次の疑問を考えてみましょう。

  「私達はルールというものが非常に大事だと生まれた時から言われ続けてきたが、『ルールは非常に大事だ』という根拠は、どこから発生したのだろうか?

と。

(『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.2』に続く)


三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.2

(『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.1』の続き)

ここから、私達の現実に起こったことを、おさらいしてみましょう。
わかりやすく例として日本のことを挙げてみましょう。

現在の『日本国憲法』の前身である『大日本帝国憲法』は、多くの人が知るように、明治時代になって発布されました。

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それ以前の江戸時代以前には、憲法に相当するルールが、日本の人々に適用されていませんでした。

もちろん、飛鳥時代に聖徳太子が定めた『17条の憲法』ならば、ありましたが、この飛鳥時代というのは、この原稿を書いている現在(2018年)からみて、約1500年も前の時代のものでした。
その、約1500年もの時代の間、この『17条の憲法』は、人々の間で忘れられていたので、この『17条の憲法』の効力というのは、実は、有って無きが如しのようなものでした。
だからこそ、日本の戦国時代とか、武家政権が成り立っていたわけです。

ところが、明治政府が立って以来、その政府が欧米諸国のような政治スタイルを模倣することに決めた結果、欧米諸国のようなルール作りのシステムも模倣することになりました。

『憲法』という単語の英単語は『CONSTITUTION』と言います。
この『CONSTITUTION』という英単語は、「政体、機構、憲法、国憲」とされています(研究社、『新英和中辞典 三訂版』からの引用)。

明治時代が明けて、すぐの頃は、様々な外来語を日本語に当てる作業の時代も続きました。
ですから、明治時代初頭の頃の語学者達(福沢諭吉など)は、様々に見知らぬ英単語を、日本語に置き換えていきました。

その内の一つで、「『CONSTITUTION』という英単語をどう訳すか?」という問題も発生して来たと思います。

『law』という英単語も『法律』というものに定着させたことでしょう。
しかし、この『CONSTITUTION』という英単語を理解するのは、ちょっと難しかったと思います。

なぜならば、『CONSTITUTION』という英単語を、じっくりと調べると、「多くの法律の上位の存在」だとわかります。
ですから、『CONSTITUTION』という英単語を、『法律』という日本単語に置き換えるわけにはいきません。

ですから、「法律の上に存在する決まり事」という手合のルールを意味する日本の単語を持って来ないといけません。

なので、この手合いのルールを、日本史上から丹念に探し出してみると、「日本の飛鳥時代の政治家が提唱した『17条の憲法』等が、これに相当するのではないか?」となるでしょう。

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ですから、明治時代初頭の頃の語学者達は、『CONSTITUTION』という英単語を『憲法』という単語に当てたのではないかと、私は考えています。

そして、明治時代初頭の頃には、多くの日本人に忘れられており、適用も効力もなされていなかった、『17条の憲法』ですが、都合の良いことに、明治時代初頭の頃に、

  「憲法というルールを復活させよう」

という動きに、かなり有利に利用できることがわかるでしょう。

なぜならば、かなり昔の日本の政治家が提唱したルールである『17条の憲法』ですが、さらに都合の良いことに、それを提唱した聖徳太子は皇族の一人であった事実も有利に使用できるからです。
王政復古の号令をかけた明治政府としては。

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確かに、聖徳太子は、かなり人望の厚い政治家としても知られておりますので、彼の提唱した「『17条の憲法』が悪いものだ」とは言いません。

しかし、時の明治政府の役人達とすれば、約1500年もの間、忘れられていた「憲法というルールを復活させよう」と言うのだから、当時の多くの日本人達に、かなり強い説得力のある根拠を見せる必要があります。

「『17条の憲法』が悪いものだ」とは言いませんが、約1500年もの間、忘れられていた制度を復活させるには、このような、

  「約1500年も昔の人望の厚い政治家が提唱したルールだ。かつ、彼は皇族の一人であった」

と、当時の多くの日本人に説得混じりの発言を続ければ、それなりに多くの日本人達が、当時の『大日本帝国憲法』を受け入れたかもしれません。

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実際には、この手の「ルール」というものは、冒頭に挙げた小学校の例でもわかるように、「ルールというものは、全ての人が認めるからこそ、そのルールは効力を発揮できる」と私達にわかるわけです。

なので、『大日本帝国憲法』を制定した側の明治政府の役人達から見ると、

  「日本人全員が、この大日本帝国憲法に熱烈な支持をして、かつ、認めたのだ」

と、いかにも、大声で言う必要があります。

実際には、当時の大日本帝国憲法の制定に反対していた日本人も多いかもしれません。

例えば、義務教育であるところの小学校教育が始まったのですが、それらの小学校の生徒達は、「学校なんかに行くのは嫌だ」と叫んでいた児童達もいたかもしれません。

これは、現在の小学校でも同じだとわかります。
現在の小学校の生徒達の内でも、「私達は学校なんかに行くのは嫌だ」と叫んでいる児童達がいることが知られているからです。

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しかし、明治時代の当時の為政者達からすれば、何としてでも、「この大日本帝国憲法に、全ての日本人の熱烈なまでの支持と認可あり」と声高に言う必要があるので、何としてでも、それなりのものを、大いに多くの人々に見せる必要があります。

その結果が、例えば、当時の、大日本帝国憲法の制定による、国を挙げての祝い事とかセレモニーとか、あるいは、現在の憲法記念日と同じような、祝日の制定とかになるでしょうか。

憲法記念日を祝日として制定すると、それなりの多くの日本人は、

  「あ~、今日は休日だから、有難い。だからこそ、憲法記念日は大事なものであり、更には、その奥に位置している憲法とは非常に素晴らしいものだ」

という認識が、多くの日本人の心に植え付けられると思います。

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ですから、いかにも「憲法制定は、これは国を挙げての一大イベント(祝い事)だ」とか「だからこそ、国民の休日に位置づけされるぐらいの祝い事なのだ」と、全役所を挙げて、祝い事を見せていれば、かなり多くの人々が「憲法というルールは非常に大事なものなのだ」という認識を植え付けられることになります。

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また、それに合わせて、歴史の教科書とかに以下のような文章を載せるわけです。
「大日本帝国憲法が定められて、多くの日本人は幸福に思った」とか「大日本帝国憲法が定められた直後に、日本の各地で様々なイベントが行われて、多くの日本人は、それを祝った」とか。

こうしておくと、後世の日本人は、その教科書を読みますので、いかにも、その教科書を読んだ後世の日本人は「憲法というものは非常に大事なのだ」という認識を植え付けられることになります。

先に書いたことを再び書くのですが、義務教育であるところの小学校教育が始まったのですが、実際には、それらの小学校の生徒達は「学校なんかに行くのは嫌だ」と叫んでいた児童達もいたことでしょう。

こうなりますと、単に「大日本帝国憲法の制定に反対していた多くの日本人がいたのだ」となってくるでしょう。

ですから、私が思いますに、この点において、明治時代当初の為政者達の心理操作は、多くの日本人に対して、かなり成功を納めたのではないかと思います。

(『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.3』に続く)


三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.3

(『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.2』の続き)

ですから、冒頭の小学校の例で書いたように、そのルールが適用される筈の側の一人一人の人間が、「私は、そのルールを重要なものとは思いませんよ」と述べただけで、もはや、そのルールが、そのグループの中で適用されることは、ほぼ不可能なことがわかります。

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ですから、冒頭の小学校の例で挙げた「私は、このルールを作成したい」と言ってきた小学生の人が、「ルールというものは、非常に大事なものなので、これそれまでの時間までに、時間厳守で、このルール作りに対する採決を取りたい」と言って来ても、そのルールを重要なものとは思わない人が、

  「私は、そのルールを必要とは思わないので、これそれまでの時間までに、時間厳守で、そのルールを制定しなくても良いと思いますよ。それこそ、無期限に至る時間を使ってまで、全てのクラス内の生徒達の納得のいくような決定をしても良いと思います」

と言えるでしょう。

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また、私が上に書いたように、以下のような疑問を自らの胸中にある心に問い続けるのも良いかと思います。

  「そのルールは、本当に大事なものだろうか?

等です。

ひょっとしたら、あなたの周囲の人とか、『巷で権威を持っている』とされている人が、やたらめったら、あなたに以下のことを行ってきたのではないでしょうか。

  「皆さん、このルールは私達にとって非常に大事なものなのです」

という発言等です。

Img7d9392d02664

 

私達は、ひょっとしたら、そのような人の発言に誘導されていないでしょうか。
私が上に書いた事も踏まえつつ、次のような疑問が、あなたの頭中に浮かんでこないでしょうか。

  「あなた自身(そのルールを作ろうとしている人)は、そのルール内容を必要とするかもしれないけれど、私達は、そのルールを必要とは思いません」

という疑問です。
この疑問が胸中に湧いて来たら、私が上に書いた事を踏まえつつも、そのルールの内容を自ら、御自身の手による熱心な調査と何回にもわたる熟慮によって、御自身の手による審査をすることを、私はお奨めしたくあります。

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このように、憲法というルールでさえも、別の視点から見ることが出来たと思います。
普段、私達は「憲法」というと「金科玉条のように、ひたすら、崇められるべきものである」という視点があるかもしれません。

しかし、ある別の視点から見ると「憲法そのものの存在自体が、疑問視すべきであり、あるいは、危ういものではないだろうか?」という疑問の視点を得ることが出来たと思います。

(『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.4』に続く)


三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.4

(『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.3』の続き)

話は変わりますが、誰でもが認めている暗黙のルールとでも呼ぶべきものもあります。
それは、例えば、「人を殴ってはいけない」というものでしょうか。
なぜならば、誰でもそうですが、自分の顔を殴られたら、どのような感情や苦痛が発生するかが、誰でもわかるからです。

つまり、このような手合いのルールというものは、私達の身体や基本的な構造に与えられているものだからです。
ですから、このような手合いのルールというものは、大自然や神が、あらかじめ定めたルールとも言えるようなものです。

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なぜならば、全ての人が、殴られた後、発生する感情や苦痛は同一のものなので、全ての人が納得できるのです。
「全ての人が納得できる」となると、その手の「人を殴ってはいけない」というルール自体も「全ての人が納得できる」となりますので、このような、あらかじめに、大自然や神のような存在が、定めたルールとも言えるようなものも存在する、ということもわかります。

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このように、大自然や神のような存在が、定めたルールというものは、全ての人が認めるからこそ、真のルールだと言えるでしょう。

しかし、私達の日常生活を見ていても気づくように、むやみやたらとルール作りが行われているのを見かけるでしょうが、そのルールに対して、洋の東西を問わず、時には自国の国会議事堂の前で、反対のデモ活動を行っている人々を、私達はしばしば見かけるわけです。

結局、それらのデモを行う人々からすれば、そのようなルールに反対しているわけですから、結局、「そのようなルールに反対していた人々がいた」ということだから、結局、そのルールが制定された後でも、「そのルールは無効であろう」と私達は言えるでしょう。
なんとなれば、上から書いているように、「ルールというものは、そのグループ内の全ての人が認めるからこそ、ルールとして適用・使用される」のですから。

にも関わらず、何らかのルールが制定された後、そのルールを作成したかった人が、「このルールは、全ての国民が認めているところの憲法に従って、制定された。だから、このルールは、結局は、全ての国民が一致団結して認めた、全ての国民の同意のあるルールなのだ」と、言っていることになるわけです。

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ある例え話を書いてみます。

ある米国の国民の一人が、次のように公言したと仮定しましょう。

  「私は、今後、アメリカ合衆国憲法を一切受け入れません」

と。

すると、米国内の全ての法律というのは、全て、アメリカ合衆国憲法の下に作られていますので(派生とも言います)、それを公言した、その米国の一人の国民には、全く、全てのアメリカ合衆国の法律が適用されないことになります。
彼には、米国に存在する全ての罰則が適用されませんが、それと同時に、アメリカ合衆国憲法の下に彼を保護しているところのルールをも適用されないことになります。

しかし、それにも関わらず、彼(あるいは彼女)が、上記のような公言を行ったと仮定しましょう。

すると、米国内の、ある官憲の人が、彼(あるいは彼女)の元に訪れて、少々重い表情をしながらも、低い声音で、以下のように言うかもしれません。

  「わかりました。あなたは今後、アメリカ人ではありません。しかし、現在のあなたは、国籍不明の不法滞在者となって、今現在の、あなたが私の目の前にいると言うことになります。ですので、国籍不明の不法滞在者の扱い自体が、様々な国で定められているので、それを使って、今から、私達は、あなたを保護しようと思います」

という感じで、話が進んでいくかと想定できます。

ですから、このような例え話を、あなたの頭に入れつつも、あなたの周囲の状況を、よく見まわして、様々な点において思慮深くなり、とりわけ大事な点としては、周囲の人々との調和と平和と愛の内に生活することを目指しつつも、熟慮と落ち着きがあり、調和ある行動を取ることも大事なこととなってくるのではないかと思います。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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三千百:私達の本来の政治システムである「直接民主制」について
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2017/03/post-6474.html

三千五十七:民主主義と代議士の関係を考えて
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2017/01/post-714a.html


 

                                       坂本 誠

2018年9月13日 (木)

三千二百九十一:お知らせ

こんばんわ。

現在、所用をこなしておりますので、しばらくの間、お休みさせて頂きます。

何卒、ご了承ください。



                                       坂本 誠

2018年9月 5日 (水)

三千二百八十八:私達の間のルールを考えて

こんばんわ。

今日は短いブログ記事となりました。

昨今、教育システム関係と社会システム関係の話題を続けています。

社会システムの側のルールによって、「あなた達は学校に行かねばならない」とされています。
そして、それらのルールは、「日本国民の総意に基づき」とあります。

ここに大きな問題があることに、人は気が付いてくると思います。
一緒によく考えてみましょう。

現代でも、子供達の中で、「私は勉強や学校が嫌いだから、学校に行きたくない」と主張する子供達がいるのに気が付きます。
しかし、私達の間での根本的なルールとされている、そのルールの方では、「あなた達は学校に行かねばならない」と書かれているわけです。
つまり、何らかの理由によって「学校に行きたくない」という、子供達が複数以上いるわけです。
ですから、そのルール内で定めている条文自体が、既に「日本国民の総意に基づ』いていない」という事実に人は気が付くでしょう。

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にも関わらず、そのルールが定められようとしている頃に、ある特定の人物等が、「私個人には、このような意向があり、それを、日本全ての人々に適用させたい、という意志がある」ということがあったことに気が付くでしょう。

さて、そして、そのルールを定めた際に、そのルール内に「日本国民の総意に基づき」という文面まで彫り込んでいるわけです。

別に、日本国憲法でなくても、それ以前の、大日本帝国憲法でも話は同じだとわかるでしょう。
明治時代になってすぐの日本の全ての小学生達が「『私達は学校に行かねばならない』という、総意があったわけではない」と誰でも気が付くでしょうから。

上記のような特定の人物達の意向が、彼等以外の全ての日本人に適用されるルールを作成するにあたって、「このルールは日本国民の総意に基づき」という文章まで、彫り込んでいたのだから、この事実に気が付いた人は、

  「こりゃー、大問題が寝とったぞ」

と心中でつぶやいたかと思います。

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わかりやすく書くのならば、小学校のホームルームの時間内での、そのクラス内の決まりごとを決める際の会議でしょう。

ある特定の、ガキ大将的な存在の小学生が、彼(あるいは彼女)の発案しているルール案を語り始めて、

  「このルールは、このクラス内に絶対に必要であり(正確には彼(あるいは彼女)しか欲していないのだけど)、かつ、このルールは、このクラス全員の小学生達の総意に基づいて、決定せられた」

と言っているのと同じ事ですから。

後は、そのクラスの中で、どのような騒ぎ事が起きるのか、という点に関しては、あなたがご自由に想像してください。

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最近、教育関係の話題が続いていましたので、例として教育関係の決まり事とされているものを挙げてみました。
あとは、このような視点で、私達の間で共通ルールとされている内容を詳細に、読者の方々が見ていけば、色々な事を発見できると思います。
もとより、これは日本国憲法に限らず、世界各国の憲法の中を探しても、同様のことは、かなり見つかると思います。

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今日は、短いブログ記事となりましたが、かえって、このような話題は短文で伝えた方が効果があるとも言われていますね。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『三千二百八十七:現在の教育システムと社会システムの絡みを考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/09/post-42ca.html

『三千二百八十二:現在の教育制度を考えて_その1(独白)』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/08/_-15d5.html

『三千二百七十七:私達の仕事とお金というものを考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/07/post-779b.html


                                       坂本 誠

2018年9月 3日 (月)

三千二百八十七:現在の教育システムと社会システムの絡みを考えて

こんばんわ。

三千二百八十二:現在の教育制度を考えて_その1(独白)』の続きのような記事です。
前回は、独白調で書いたのですが、今度は「です・ます調」で書いてみます。

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余談ですが、日本語には、このような文体のスタイルにも違いがあります。
その文体の違いによって、受ける雰囲気も違ってきます。
この「文体の違い」というのは、日本語独特のものではないでしょうか。
当の日本人だと、この文体の違いを趣深く味わうかもしれません。
しかし、日本語を習得中の外国人にとっては、よく日本人の聞く「なんて日本語は難しいんだ」の発言を促す原因の一つかも知れません。

これを考えていたら、長い記事となりますので、段を改めて書くかもしれません。

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本題に返ります。

8月から9月にかけての移り変わりの季節は、子供達にとって受難の季節であると、報道されていました。
子供達が夏休みの宿題を抱えて、学校に帰らないといけないからでしょうか。

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三千二百八十二:現在の教育制度を考えて_その1(独白)』でも書いたように、宿題というのは断ることが出来ます。
それより以前に、学校の先生達が生徒達に対して宿題を出す方が奇妙なことだと気が付いた人もいることでしょう。
なんとならば、『三千二百八十二:現在の教育制度を考えて_その1(独白)』でも書いたように、学校の先生達には、生徒達の放課後の時間を拘束できる権利を、当然ながら、持っていません。
ですので、生徒達の放課後の時間を拘束してしまう「宿題を与える」ということが、「してはいけないことではないのか」と気付き始めた人々もいることでしょう。

また、ここで、上の流れから新たなことに気が付いた人もいるでしょう。
というのも、現在、教壇に立っている、そのほとんどの人々が戦後生まれです。
ですので、戦前に生まれた人にも宿題を与えられた人々がいたかもしれませんが、現在、教壇に立たれている、そのほとんどの教師達も、子供時代に、学校の宿題を与えられたと思います。

ですから、現在、教壇に立たれている、そのほとんどの先生達も、「なぜ、その当時に、宿題を与えられるということを不思議に思ったり、疑問を感じなかったのか?」という、ちょっと大きめの疑問が湧いた人もいるかと思います。

この、新たな疑問について、この記事を進めていきたいと思います。

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私が思うことには、子供達が大人達から馬鹿にされていると思うのです。

例えば、子供は、生まれてから生活上の知識がありませんので、周囲の人から多くのことを学ぶことになります。
ですから、子供の頃は、学業などの吸収スピードは早いものです。

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ですが、大人達の作成した教育システムに、子供達の疑問を生じさせぬよう、やたらめったら、スピードを上げて知識を詰め込まさせているように感じます。

例えば、私が子供の頃だと、小学校と中学校の2つの教育システムで、その社会科の時間に、「日本国憲法」の骨子を学ばされたでしょうか。
現在の、教育システムだと、どうなっているかわかりませんが。

私が子供の頃の社会科の時間に習った「日本国憲法」の時間に、例えば、

  「このルール『日本国憲法』に対して、疑問に思ったり、不備があるかと思われる点について、今から自由にディスカッション(議論)してみなさい」

というような、疑問提起等を誘われることはありませんでした。
現在の教育システム下でもそうではないでしょうか。

ですから、今現在、そのルールに対して、疑問に思ったり、不備があるかと思われる点について、ディスカッションに出されるかと想定される、疑問提起なりを以下に列挙してみることにします。

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  「そのルール中には、日本の子供達に対して、義務教育を行うとあります。『義務教育』とは聞こえが良いですが、『強制教育』と言い換えることは出来ないでしょうか?」

  「そのルール中の『義務教育』の発生理由とは何でしょうか? なぜ、『義務教育』という制度が必要とされたのでしょうか?」

  「そのルールの中に『このルールは、生まれてくる全ての日本人に与えられる』とあります。しかし、そのルールに反対となり、そのルールを捨てたい時には、どうしたら良いのでしょうか? 外国に行くとなると、それなりの費用が発生するので、外国に移住せずに、そのルールを捨てたいのですが、どうしたら良いのでしょうか?」

  「そのルールがセットされたのは、私が生まれる前です。私は、そのルール設定に際して、何の意見も言っていません。ですから、私の意見が全く反映されていないことも明らかです。それなのに、なぜ、そのルールが、強制的な感じで、生まれ来る全ての日本人に対して適用されるのでしょうか?」

  「仕方なくも、そのルールが、私達の間で『共通ルール』として採用されているようです。百歩譲って、それが私達の間での『共通ルール』だと妥協して受け入れたと仮定します。その上で、私達に出され続けている宿題について考えてみました。すると、学校の先生達が私達の放課後の時間を拘束できる権利が無いことに私達は気が付きました。それなのに、学校の先生達は、私達の放課後の時間を拘束してしまう宿題を出していることに気が付きます。これだと、世の多くの学校の先生(公務員)達は、憲法違反を実行していることになりはしないでしょうか?」

  「そのルールの中に書かれていることには『このルールは日本国民の総意に基づき適用される』というような文面があります。私が生まれてくる時に、そのルール設定がされていなかったのですが(それも問題の一つかと思いますが)、そのルール設定がなされた時代でも、日本には多くの日本人がいたことでしょう。そのルール設定の頃には、そのルールに対して反対の人々もいたことでしょう。それなのに、当時の反対者の人々に対して、最近しばしば見受けられるような国会での強行採決のように、そのルールが無理矢理セットされたと思います。その状態ですと、『日本国民の総意に基づき』という文面には、嘘があることになりはしないでしょうか?」

  「上の疑問の並びと同じなのですが、現代でも、そのルールに対して、反対の人々がいるのではないでしょうか? それでしたら、そのルール中の『日本国民の総意に基づき』という文面事体が、看板割れを現していることになりはしないでしょうか?」

、、、(以下、等々)

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まだ、学校の子供達が出してくると想定できるような疑問や、問題提起の文章を想定できるかと思いますが、ひとまず、ここで区切りを置いておきます。

要は、子供達がターゲットにされていると感じます。

20100808132708


「ターゲット」ですから、上の言葉を言い換えると、「子供達は狙われている」と言えるでしょうか。

子供達は、無批判で与えられるものを受け取ることが多いと思います。
その状態を逆用されていると思います。
ですから、義務教育システムの中で教えられる憲法内容の時間なども、怖そうな顔をした大きな体格を持った大人達である先生が、さらに厳しそうな目つきと恐持ての声を出しながら

  「今から教える、この憲法内容に、一切、疑問を持ったり、問題提起をしてはならない」

という感じで伝えられたら、子供達の心は大いに怯えてしまい、上記のような心の中で生じた疑問や問題事項を、一切、周囲の人に伝えることが出来なくなるのではないでしょうか。

暗黙の内に、多くの子供達に沈黙を強要されているように感じはしないでしょうか。

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また、「子供達がターゲットにされている」という言葉で思い出したのですが、これの一例が教育ビジネスだとわかると思います。

教育ビジネス側だと、子供達に、より多くの教材を買ってもらうようにしなくてはいけません。

ですから、そのためには、

  「子供達よ。あなたがたは無批判で勉強しなさい。学校の先生達も君達の親達も、皆、口をそろえて言うことには、『勉強すれば、その勉強がお前達の未来を救う』という、美辞麗句で、あなたがたに勉強を奨めているだろう。だから、あなたがたは無批判で勉強しなさい。そのためには、私が数多く作成している、これらの教材を大量に買いなさい(もっとも、あなたが今行っている勉強が、本当に、あなたの未来を救うかどうかは私は知らないが)。」

等のような学問の奨めを行いつつ、教材の売り込みをしているかもしれません。
あるいは、

20100808132657

 

  「あなたが今行っている勉強は、あなたを幸せにしないかもしれないけれど、その勉強に見合った分だけの、お金を得られるかもしれないよ」

等のような奨めを行いつつ、教材の売り込みをしているかもしれません。

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上で想定している、教育ビジネス側だと、更に次のようなセリフを言うかもしれません。

  「私だって稼がないといけないからね。金が無いと生きていけないんだから。」

ここまで来ましたら、私の以前に書いた記事中の文章を再掲載して、つないだ方が良いと思いますので、再掲載します。

再掲載するブログ・サブタイトルは、『三千二百七十七:私達の仕事とお金というものを考えて』です。

(以下、『三千二百七十七:私達の仕事とお金というものを考えて』、2018/07/30(月)記事より抜粋して再掲載)
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そして、ちなみに、地球社会全体を支配したがっている人々からしたら、「地球上の全ての人間を、お金を使って、強制労働させることが出来る」と、彼等は気が付いていることでしょう。

なぜならば、生活資金を手に入れるためには、なんとしてでも、社会一般の職種に就かないといけないのですが、ある人が生活資金に困れば、その人は、その人がどんなに嫌いな仕事にでも就かないと、そのお金を手に入れられなくなるからです。

ですから、地球社会全体を支配したがっている人々ならば、「お金を使って、地球人を強制労働させ、つまり、我々の奴隷として、全地球人を使用することが出来る。なぜならば、我々は、全地球人に対し、『お金が無ければ生きていくことは出来ない』という恐怖感を与えることに成功したので、地球人は、そのお金を手に入れるためには、どんな嫌な仕事でも引き受けるに違いないのだから」と考えていることでしょう。

この、今、私が書いた「私達は、お金というツールを使用され、強制労働させられているのではないのだろうか?」という疑問は、読者の方々も、幼い頃に、幼子のようなまなざしを使って世間を見ていた頃、感じたことのある疑問ではないかと思います。

しかし、あなたの感じた、その素朴な疑問を口に出すには、あなたの周囲の人々を見回すと、お金を愛している人々がとても多いし、「お金に対する疑問を持つことは、タブーだ」という風潮や常識の前に、あなたの疑問は、あなたの口から出る前に、あなたの胸の中で消してしまったのではないでしょうか。

なぜならば、あなたが、その疑問を口に出すやいなや、周囲の人々が、あなたを冷たい目で見て、あなたを嫌いになるかもしれない、という、恐怖感が、あなたの心中に沸くと、その疑問を胸の中に引っ込めてしまいやすくなるからです。
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(抜粋引用終わり)

結局、総合的に考えてみますと、現代社会システムと、お金を使った経済システムが、人間の神性やら美徳を汚して、職業倫理をも堕落せしめ、結果、子供達の知識吸収の際にしても、強制教育とか、お金で汚れた教育システムが蔓延する結果になってしまったと、私見では見ています。

(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『三千二百八十二:現在の教育制度を考えて_その1(独白)』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/08/_-15d5.html

『三千二百七十七:私達の仕事とお金というものを考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/07/post-779b.html


                                       坂本 誠

2018年8月29日 (水)

三千二百八十六:自らの願望達成を遂げようとしている人を見て(独白)

こんばんわ。

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ある人を見ていて気付くことがある。

その人は、自分の願望達成のためには、その人以外の人間が関係する必要がある。
だから、その人の願望達成が行われるためには、彼(あるいは彼女)は自分以外の人間を動かす必要がある。

P9080147


そして、彼の願望つまりはその人の幸福達成のため、彼以外の人間が動かされた後で、さらに、彼は自分以外の人間の同意や称賛を必要とする。

つまり、彼の願望や幸福を達成するためには、常に彼以外の周囲の人間が関係する必要がある。

その状態だと、彼(あるいは彼女)の願望と、彼以外の周囲の人間との合意も、幾つかのケースは存在するかもしれない。
だから、幾つかのケースで彼の幸福達成は行われるかもしれない。
しかしながら、私達も知るように、自分以外の人間の意向や考えは互いに違っていることの方が圧倒的に多い。

だから、彼の願望達成のため、彼が周囲の人を動かす際に、彼の願望から生じるお願い事を、彼の周囲の人間が快く承諾するというケースは、ほとんど無いことに気が付く。

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わかりやすく書くと、彼は周囲の人に向かって、頻繁に「私のために、あれをして欲しい。これをして欲しい」と、お願い事ばかりを叫んでいる。
しかし、上に書いた文章の流れからわかるように、ほとんどの場合は、彼の願望の方向と彼の周囲の人々の願望の方向は違っているのだから、彼(あるいは彼女)のお願い事というのは、実は、お願い事ではなく、彼の命令であることに私達は気が付いてくる。

また、上の話をじっくりと見てみると、お願い事をしていると思われる彼の願望や幸福というのは、彼以外の周囲の人々の存在無しでは確立できないことがわかる。
つまり、彼(あるいは彼女)は非常に依存精神の強い人だとわかる。

なぜならば、彼の周囲の人がいなければ、彼は全く自分の願望や幸福を作れないのだから、その願望や幸福を作るためには、非常に熱心なまでに、彼の幸福作成のために、周囲の人が頻繁に手を差し出さなければならないからだ。

要するに、彼の幸福作成のためには、周囲の人々の助力を大いに必要とする状態にある。

つまり、彼は自分の手で自分の幸福を作ろうとしない。

P8290144

 

だから、彼以外の周囲の人々に向かって、

  「あなたは(お前は)私の言うこと(命令)を聞け」

とか

  「私があなた方にお願いして(命じて)、お互いの共通目的となった私達の願望を互いに達成したのだから、お前達は、もっと私を賞賛しなさい(崇めなさい)」

等々のような命令とか本人に対する賞賛を彼が求める言動が多発するようになる。
(もちろん、私が上記のように想定したセリフ中の括弧(カッコ)の中の、単語の方が、彼の本音だと読者は理解するだろう。)

このように彼(あるいは彼女)の称賛欲求も著しく激しいことが私達にわかる。

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結局、このような彼を見てわかることには、これは支配というものであることがわかる。

支配というものは愛情から生じる欲求や行動では無い。
支配というものは愛情の枯渇状態から生じる、逆のベクトルを持ったマイナスの愛情行為と言える。

なんとならば、彼以外の周囲の人々からすれば、彼のお願い事を承諾したくないにも関わらず、彼は周囲の人々の気持ちも踏みにじり、ただひたすら、彼自身の願望を達成すべく、無理矢理周囲の人を動かすのだから。

つまり彼自身は「お願い事だ」とは言うものの、その実態は命令であり、つまりは周囲の人々に対する支配である。

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この状態で多くの人々は以下のことに気付くだろう。
つまり、彼のお願い事が、周囲の人々の苦痛を生じさせている。
だから、彼は自分の願望を達成させようとしていることが、周囲の人々の不幸感覚を発生させているのである。
だから、たいていの人は、

  「自分の幸福状態は達成されるかも知れないけれど、それによって、周囲の人々が不幸になるので、つまりは、自分自身も永遠に幸福とはならない。なぜならば、自分以外の周囲の人々には不快感がたまるのみであり、その多量の不快感が私に向かってやってくるからだ。だから、つまりは私の願望を達成させる、ということは、他ならぬ、私自身を不幸にする原因となるのだ」

と気が付き、周囲の人々を動かすことを止めるようになるかもしれない。

P7080146


しかし、ある人ならば、その気付きを得ることも無いかもしれない。

つまり、周囲の人々の意に反してまでも、自らの願望・幸福を遂げようとする行為は、周囲の人々との和の内に、願望や幸福が築かれない。

だから、その状態というのは、「願望達成状態」とか「幸福達成状態」と呼べるものでは無く、「不幸・苦痛の体現状態達成」と呼べるものだろう。

しかし、もちろん、気付きにくい人にとっては、自身の得られている環境が「不幸・苦痛の体現状態達成」と気付くことは無く、天真爛漫(てんしんらんまん)にも、「この状態は自らの願望達成状態だ」と自負・自画自賛しているかもしれない。

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上で見たように、依存的な精神徴候のある人というのは、結局、自分で自分の幸福を作ろうとしていない。

自分の幸福状態を作成するために、彼は、絶えず、彼の周囲の多くの人々の助力を、無理矢理、得ようとする。

この結果、彼(あるいは彼女)が、自身では「これはお願い事だ」と称している、そのお願い内容を語る際には、鋭い語調を持った命令口調の「お願い事」となっている。
つまりは、その「お願い事」というのは命令となっている。

だから、彼(あるいは彼女)の周囲の人々は、彼の命令に屈服している状態であり、彼の周囲の多くの人々は苦痛の精神状態を得ていることになる。

これが更に進むと、依存精神の強い彼(あるいは彼女)は、周囲の人々の気持ちを全く無視することが可能となり、それでも、彼は周囲の人々を彼の口のみで動かし続けていることになる。
そして、彼が言うことには、

  「私は多くの人々を命令(支配)によって動かすことが出来る」

だろう。

他の心理学の本なんかにも、「独裁者達や王様達の心理状態は、これである」と伝えていたものがあった。

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上の喩え話から私達の得られるであろう教訓を列挙してみよう。

まず、私達は依存(甘え)傾向の強まる方向に流れない方が良いだろう。
「依存傾向の強い人」というのは、つまり、自分の手で自分の幸福を作ろうとしていない。
絶えず、他人のちからを自らの方向へと流用して、彼(あるいは彼女)の幸福を作成しようとしているのだから、つまりは甘えている。

P7080144

 

だから、得られる教訓の一つとしては、「自分の幸福は自分の手で作ろう」というような当然のことである。

また、上の話の流れから、依存傾向が強まると、周囲の人々に対して支配的になることがわかる。
だから、「依存傾向を強める方向」というのは、「愛情から離れていく方向」だということがわかる。
当然ことながら、「依存傾向を強める方向」というのは、「支配に向かってののベクトル」だということがわかる。

上に挙げた心理学の本にも、「独裁者達や王様達の心理状態は幼稚なものであり、これが依存傾向や支配欲求を生じている」のようなことも書いてあった。

だから、「幼稚な方向に向かおう」というのも、止めた方が良いと思う。

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私のブログに、時々、イルミナティさん達やレプティリアンさん達が出てくる。
イルミさん達やレプさん達は、彼等を除く地球上の全人類を奴隷化したいと言っている。

だから、上の流れからわかるように、彼等の支配欲求よりも前に、彼等の巨大な依存傾向や、甚大なまでの愛情精神欠落状態が存在していることが私達にわかる。

私が上に挙げた喩え話とか、実例であるところのイルミさんやレプさんを見て考えるに、私達は出来るだけ依存傾向を避け、「出来るだけ自分の幸福は自分の手で作ろう」等のような教訓を得た方が良いと思う。

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「甘えの精神」というのは、言い換えると、周囲の人々の愛情を吸収していく精神状態のことであることがわかる。

これと反対に、「愛情の精神」というのは、言い換えると、周囲の人々の向かって自らの内臓せる愛情を放出・放散していく精神状態のことであることがわかる。

わかりやすい比喩を書くと、「甘えの精神」が中心の人々は宇宙の中の物質を無制限に吸い込み続けるブラック・ホールに似ている。
「愛情の精神」が中心の人々は自らの内から宇宙に向かってエネルギーを無限に供給し続ける太陽に似ている。

イルミさんやレプさんは、時折、「闇の者」と言われることがあることからも、彼等をして、「ブラック・ホールに似ている」という人も出てくると思う。

だから、私達が得られる教訓の一つとしては、「太陽のような人になろう」という言葉を、日々にお互いに、挨拶言葉のように交わし合うことかとも思ってしまう。


                                       坂本 誠

2018年8月28日 (火)

三千二百八十五: 追悼文

こんばんわ。

先日、平成三十年八月二十七日に、私のブログ記事『三千二百八十四:マクロス・デルタを見て』を掲載した後、夜半過ぎに、漫画家さくらももこさんの訃報を知りました。

なんとなく心に感じるものあり、今回の追悼の文を書きます。

現代日本に暮らす多くの日本人が漫画世代とアニメ世代と言われている通り、私も漫画世代とアニメ世代の一人です。
さくらももこさんのアニメがテレビのブラウン管を飾るようになった当時、私も日本の僻地で、さくらさんの単行本を購入したり、彼女原作のテレビ番組を鑑賞したものでした。

日本各地に笑顔を届け、そして、昨今では、全世界に向けて、笑顔を届ける、という作品を継続して生み出すに至っては、それなりの性向が無ければ、なかなか難しいものかとも思いを巡らしたりもします。

さくらさんの明るい性格が、日本の多くのお茶の間に届き、それが多くの人々の幸福へと昇華されていった、ということを思い出すに当たり、それ自体が、さくらさんの更なる喜びと明るさの一つになったかと思います。

さくらももこさんの天界旅立ちの報を知るに当たり、今、彼女の安らかなる御昇天・御冥福を祈らせて頂きます。


           平成三十年八月二十八日

                                       坂本 誠

2018年8月23日 (木)

三千二百八十三: 苦労や困難を自ら望む人々を見て(独白)

以前のブログ記事では、独白調で書くことも多かった。
最近までは、「です・ます調」である丁寧表現で書くことが多かったのだけど、筆の走り具合から見て、独白調も良いように思えるので、これから独白調も増えるかもしれない。

世には、受難礼賛とか苦難礼賛と言われる行動がある。

私個人としては、受難礼賛とか苦難礼賛と呼ばれる行動を理解できないし、勧めることは出来ない。
この受難礼賛とか苦難礼賛の現れとして、副次的に「忍耐は素晴らしい」とか「苦労は買ってでもせよ」という風潮が生み出されているのに気が付く。

先に書いておくけど、確かに、受難礼賛とか苦難礼賛を望む人々がいるので、私はそれらの人々を止めるつもりは無い。
どんな人にも自由があるのだから、自分の信じたことを追求すれば良いと思う。
自分の信じたことを追求したら、納得できる何かが掴めるのだから。

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ただ、受難礼賛とか苦難礼賛の行動を行う人々や、「忍耐は素晴らしい」とか「苦労は買ってでもせよ」という人々の方針や心理を、申し訳ないけど、あまり理解することが出来ない。

P4220152

 

というのも、「忍耐とか苦労を所有しよう」という考えは、つまりは「不幸を所有しよう」という考えとほぼ同じ事だと言えるからだ。

「忍耐」とか「苦労」というのは、苦痛の一種である。
苦痛であるから、つまり、その「苦痛を所有する」ということになる。
よって、「苦痛を所有する」ということは、他ならぬ、「不幸を所有する」ということになるからである。

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私が間違っているかもしれないのだけど、多くの人間というのは、幸福を目指して生活していると思う。
ひょっとしたら、私が間違っていて、現実的には、「多くの人間は不幸を目指して生活している」という状況なのかもしれない。

ただ、私見では、多くの人間は幸福を目指して生活していると思う。

だが、上記の人々、つまり、受難礼賛とか苦難礼賛の人々や、「忍耐は素晴らしい」とか「苦労は買ってでもせよ」という人々は、自らの内部に、苦痛や抵抗を所有し続けるのだから、不幸を目指していると思う。

だから、その手の人々は、当然のことながら、不幸な人々になると思う。

私個人の正直な気持ちから言うと、私は幸福になりたい。

だから、基本的には、彼等を責めるわけではないのだけど、受難礼賛とか苦難礼賛の人々を理解できない。

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そこで、私なりに受難礼賛とか苦難礼賛の人々の、その苦痛を求める動機を考えてみた。

P4220155

 

「忍耐」とか「苦労」というのは、生きていて、何らかの我慢を求める何かが発生している状態である。
障害物競走のように、人生行路の上で、何かの障害に当たっている状態だろう。

そして、その障害を乗り越える際に、障害物競走で考えると、ジャンプ力が高まると思われる。
実際に、障害物競走をしていない人と、障害物競走を毎日行う人だと、後者の方が、はるかに高いジャンプ力を所有すると思われる。

なので、その障害物競走のランナーは、「自分は、人よりも高いジャンプ力を所有したい」という願いがあるとわかる。
その結果、自分の人生に、その障害を自ら与えるのだ。
その結果、ずっと、障害物競走を行えば、人よりも高いジャンプ力を所有できるかもしれない。

私見では、受難礼賛とか苦難礼賛の人々の、その苦痛を求める動機はここにあると思える。
自分自身に、「苦労」を与えれば、その苦労を乗り越える際に、何らかのちからを所有できるかもしれない。
「忍耐」というものにしても、全く同じ事が言えると思う。

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何らかの能力の向上が見込まれるのだけど、そのためには、永遠に自分に対する抵抗や苦痛を求め続けることにもなる。
結果、永遠の不幸を所有することにもなると思う。

それが更にエスカレートすれば、受難礼賛とか苦難礼賛を追求する人々になると思う。

受難礼賛とか苦難礼賛を追求する人になると、常に、自分自身に対して、自ら苦労する環境を与えたり、自らに困難事情を課せたりする。

有名な例で言うと、キリスト教の、中世などに見られる殉教者と言えようか。

映画や小説やドラマで見たところによると、その殉教者は以下のような行動を取るのだ。

  「主が十字架に架かって死んだぐらいだから、それにならって、私も十字架に架かろう」

というものだ。
そして、映画や小説やドラマ中の、殉教者は自分の願いが叶い、十字架にはりつけられて死んでしまう。

このような、受難礼賛とか苦難礼賛を求める人々というのを私が見て、、、残念だけど理解できない、、、。
しかし、私が上にも書いたように、どんな人にも自由があるので、そのような状況を追求しても良いとも言える。

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確かに、ある程度は、自分の能力向上のために、何らかの障害物や苦痛物を自らに与える時間とか機会を持っても良いかもしれない。
ただ、永遠に、その状況を求めるのはいかがなものかと思ってしまう。

「忍耐は素晴らしい」とか「苦労は買ってでもせよ」という考えの下に行動していると、やがてはエスカレートして受難礼賛とか苦難礼賛を追求するようになると思う。

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また、この手の「苦しみを求める」という人は、その何らかの苦しみや困難を乗り越える際に、身に付けるであろう能力獲得を目指す結果、上にも書いたように、常に自分自身に与えるための、困難状況を探し求めていることになる。

P4220157

 

その結果、常に常に、苦しみを所有していることにもなる。
それらの人々は、苦しみや困難を乗り越える際に、身に付けるであろう能力獲得を目指しているので、それらの人々は、その困難状況を得ていることになり、その状況をもって、「現在、私は幸福の状態にある」というかもしれない。

彼(あるいは彼女)の目指す目的の途中にあるからだ。

「苦しみや困難を得ている状態そのものが、私の幸福である」と言っていることになる。
つまり、「今現在、私は苦しみや困難を得ている」という状況を、彼(あるいは彼女)自身が知っていることが周囲の人々にはわかる。
つまり、その状態だと、彼は苦しみを得ている真っ最中なのだが、「それ自体が幸福でもある」とも言っていることになる。

読者である、あなたが彼の上の状態を見るに「これは矛盾している」と感じないだろうか。
「矛盾しているので、彼は永遠に幸福にならないだろう」と、あなたは感じないだろうか。

また、周囲にいる私達が、彼の姿を見て、「現在、彼(あるいは彼女)の状態は幸福なのか不幸なのか判別できない」と言わないだろうか。

しかし、何度も書いているように、人には自由があるので、彼がその状態を求める自由もあるのだから、周囲にいる私や、読者である、あなたが彼を止める権利は無いとも言える。

私や、あなたが言えるところでは「彼は永遠に幸福になれないだろう」とは言えるかもしれない。
少なくとも、彼(あるいは彼女)に対して、「苦しみを求めることは止めた方が良いのでは」と助言することは出来るかもしれない。

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冒頭にも書いているけれど、人間というのは、基本的には、幸福を求める存在だと思う。
もちろん、私がここで書いている幸福の状態とは、快楽主義とか享楽主義と呼ばれるものではない。

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また、今一つ言えるであろうことがある。
この手の「自ら困難を求める人」というのは、ある程度、人に騙されやすいと思う。

なぜならば、世に見かける幾つかの詐欺行為というのを思い浮かべながら、読んでほしいのだけど、何らかのことで、ある他人に騙されると、その騙された人というのは、ある程度の何らかの不幸状態を得ることになる。

しかし、その「自ら困難を求める人」というのは、元々、不幸環境を望んでいるのだから、騙されて何らかの不幸状況に陥ったとしても、彼にとっては、「私が求めるところの不幸環境を得ることが出来た」となるのだから、彼にとっては、その「騙された」という自体すら、彼(あるいは彼女)にとっては、幸福な出来事の一つとなってしまう。

外部にいる私が彼のその状況を見て、、、やはり、、、基本的には賛成したり、賛美することは、、、ちょっと出来ない、、、。

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「忍耐が肝心だ」とか「苦労は買ってでもせよ」という感じで、苦痛を美化するような美談の文章も多いけれど、この私のエッセイの視点から、今一度、それらの文章を見直しても良いのではないかと思う。

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この手の、受難礼賛とか苦難礼賛を求める人々に対して、何らかの形での、別のアプローチで、何らかの見解を出している人もいるかもしれない。

時間や機会があったら、その手の見解や文献や報告を読んで、別の見方が出来たり、より広い見方が出来るために、学習するかもしれない。

しかし、それをすることによって、受難礼賛とか苦難礼賛に対する私の視野や見解が広がったとしても、、、私が基本的に賛成すると言うことは、、、無いと思う。


                                       坂本 誠

2018年8月 9日 (木)

三千二百七十九: 無神論と法事を考えて

こんばんわ。

無神論と法事を考える機会がありました。
ここで言う無神論とは、「神様なんて、この世にいない」とか「あの世なんか無いから、霊なんていない」という考え方のことを言います。

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法事の多い季節となると、「ご先祖様を供養しましょう。ご先祖様をお祭りしますと、あなたの一家が繁栄します」という手合いの宣伝文句を聞く機会が多くなります。

しかし、この手の宣伝文句を冷静に、客観的に聴いてみて、更に世の中を見回してみると、矛盾が発生していることに気が付きます。

なぜならば、私達の世界だと、無神論が流行っているのに、多くの人は気が付くことでしょう。

例えば、上に書いたように、「あの世なんか無いから、霊なんていない」と多くの人々は語っているわけです。

しかし、こと、法事の多い、この季節となると、私が上に書いたように、「ご先祖様を供養しましょう。ご先祖様をお祭りしますと、あなたの一家が繁栄します」というセリフが多く流されているわけです。

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つまり、「あの世なんか無いから、霊なんていない」と多くの人々が語っているわけですから、その状況だと、「ご先祖様」というのは、全く消滅しているので、法事の際に、ご先祖様を供養しても、その存在は全く消滅しているわけですから、そのご先祖様を供養したところで、全く何の影響も与えられないことがわかります。

にも関わらず、法事の季節となりますと、あたかも、「ご先祖様は、どこかの世界に移動しただけであり、そのご先祖様は現存しますから、そのご先祖様に向かって、供養しましょう」という風潮の、儀式が行われているわけです。

これだと、「最初から、年中、無神論を捨てていた方が良いでしょう」と言えるでしょう。

にも関わらず、法事の季節が終了すると、多くの人々は、「あの世なんか無いから、霊なんていない」と語るわけです。

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つまり、これらの人々を傍から見て、冷静に考えてみると、「慣習に左右されているだけである」とわかります。

つまり、法事の季節や法事の機会がある時だけ、いきなり、信心深い人に変身するのですが、法事の季節や法事の機会が終了すれば、無神論者に変身するわけです。

そして、私達のこの世界自体も、非常に多くの慣習が実行されていると言えるでしょう。

ですから、「法事というのも、慣習として実行されている」とわかります。

「死者を敬う」というのが、法事の目的ですが、その死者となった人を供養しても、「何かが起きた」と言うことは無いわけです。

なので、単純に、日本で、高価な墓石や高価な仏壇があったりしますが、これは死者のために購入しているのではなく、生きている人の方が、「このような高価な墓石や高価な仏壇や、高価な仏具を備えていれば、死者が喜ぶかも知れない」と思いこんで購入しているのですが、実は、彼自身(あるいは彼女自身)が自分自身を喜ばせるために、それらの高価な仏具を購入していることがわかります。

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ここで、無神論の反対の状態である「あの世があって、その、あの世に、私の御先祖様が幽霊のような形で生活している」と信じてみて、次のことを考えてみましょう。

そのような幽霊となった、ご先祖様ですが、それらの高価な墓石や仏壇や仏具を所有することが出来ません。

なぜならば、手も透けているので、それらの仏具を手にすることも出来ません。
その状況だと、手に取って、眺めまわすことも出来ないので、その死者である、御先祖様は「それらの仏具を所有していない」と言えるでしょう。

ですから、何らかの高価な仏具を購入した人は、「私の御先祖様は、これらの仏具を見て、きっと幸福になるに違いない」と、当て推量で、信じ込んだ上で、彼自身(あるいは彼女自身)が、生きている自分自身を喜ばせるために、それらの高価な仏具を購入していることがわかります。

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しかし、人には自由がありますから、当然、それらの高価な仏具を購入しても良いわけです。

しかし、上の流れを見ても理解出来るように、それらの高価な仏具を購入する人は、一種の芸術作品とか美術作品を購入するような雰囲気で購入していることがわかります。

幾つもの芸術作品や美術作品を大量に手元に、そろえている人もいますので。

ですが、「死者を供養するために高価な仏具を購入している」とは言わなくなるので、そのような意思のある人は、仏具以外の芸術作品や美術作品を購入しても良いのではないかと思います。

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逆に、無神論の反対の状態を信じてみて、つまり、「あの世があって、故人がそこで暮らしている」と仮定して、感じたことを書いてみます。

その故人からしてみたら、上に書いたように、高価な仏具を所有していないわけです。
ですから、高価な仏具というのは、自分の子供達とか孫達が、「この高価な仏具や高価な葬式を挙げたことにより、さぞかし、死んだ故人が嬉しがっているに違いない」と、自分自身に納得させて、要するに、自己満足させていることがわかります。

ですから、心の優しかった故人ならば、あの世と言われる世界で、以下のような言葉を、残された遺族達に語っているのではないでしょうか。

  「私は死んだので、そんな仏具を与えてくれても嬉しくは無いよ。所有も出来ないし。また、そんな高価な仏具を買うような余裕があるのならば、私のための高価な仏具にお金を出すのではなく、お前達の生活のために使っておくれ。また、もし、私が、そんな現世の仏具に未練があるとしたのならば、私は成仏できていない地縛霊と言われても仕方なくなるのだから」

と。

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結局、こう考えてみたら、私達が時折、目にする、高価な葬式とか、豪華な墓石とか、高価な仏具とか、あるいは、死んだ故人に対して名づける、高価な戒名代金(しかも、「戒名」というのはランク付けがあって、死んだ故人に与える戒名代金の高下によって、その人の人生全体に対するテストの点数付けのように見える)等に、私達は深い疑問を抱くようになると思います。


                                       坂本 誠

2018年8月 1日 (水)

三千二百七十八: 自分のしたいこと(独白)

自分自身に静かに語りかけたい時には、「です・ます調」ではなく、自然な感じの独白調で書いた方がうまく書けるような気がする。

私自身が今現在に本当に心底からしてみたいことを書いてみるのも一興かと思い、したためてみることにした。
そんなことを書くのも、時と場合によっては意義のあることかも知れない。

全く誰からの指示や願いも無く、もちろん、神とも呼べるような存在の要求も無く、また、自分の暮らしている社会のルールなり慣習なりを全て捨て去って、心底から自分のしてみたいことを静かに感じてみると、その感じたこととは、次のようなものであった。

P8110150

 

単純に、「自分を理解してくれる理解者を見い出して、そのパートナーと呼べるような人と、地球では無い他の星で静かに生活してみたい」というものだった。

これが、掛け値なしに、腹の底から感じる自分の本当にしてみたいことだった。
本音というものだろう。

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自分のようなブログ・ネタを書いていると、自分の視点から見て、私のような人を理解してくれるような人は少数派のように思えてしまう。

だから、「私を理解してくれるような理解者が欲しい」というのは自然な願いだと思う。

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心底からなる自分の願いを実現するために、その下に派生的に生じて位置づけられている二番目の目標とか、さらにその下の三番目の目標を実行していたら、つまり、それが今の自分の人生行路となっているような気がする。

どんな人でも、そうではないだろうか。

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時折、このような、自分の心底からなる願いを自分で把握することは大事なことかと思うけど、それを、口に出して、他の人には、あまり言わない方が良いと思う。

なぜならば、完全に自分の周囲の世界の慣習やルールをも外して、さらに、全く誰のお願い事も聞かずに生じている願い事なのだから、周囲の世界と合わない場合も多々あることだろう。

だから、そのような願いを口に出して言えば、周囲の世界と摩擦を起こす可能性も多いと予想できるので、あまり言わない方が得策かもしれない。

だから、普段は自分のそのような願い事を他の人に言わない方が良いと思われる。

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ただ、折に触れて、何らかの機会の際に、そのような願いを口にしてみるのも、ケース・バイ・ケースで有意義なことがあるかもしれない。

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また、自分の意思を強く表示しないといけない時もあるかもしれないから、その願いを語る機会も、その人次第で訪れるかと思われる。

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この手の願いごとというのは、おそらく、その本人にとっての最強の行動理由だと思われる。
そして、誰にも左右されることは無い。

なぜならば、全く、その人の周囲のことをも考慮せず、いかなる他人の願いごとにも全く影響されず、その人がそのような願いを保持し続けているのだから、このような願いごとというのは、その本人にとっての、最大最強の存在理由と行動理由と言えるかもしれない。

何重ものオブラート用紙あるいは何枚ものセロハン用紙を重ねて、物体を見ると、その物体の輪郭(りんかく)は歪み、色ボケて見える。
それと同じように、誰の心の奥底にも存在している、その真の動機が、心の階層を何重にも、くぐり抜けると、真の目的からは大分外れたように見える仮の目的となって、つまり何階層か分にずれた目的となった、日常生活での行動目的と変化していると思われる。

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また、この手の目的というのは、「あなたの真の目的とは何ですか?」と、どこかの誰かに聞かれた際に、一瞬の時間をも置かずに、その質問の直後に返答されている解答となっているものである。

その質問をされて、何秒か経って、もごもごと恐る恐る、「ああ、私の目的は、そうですね、、、よく考えてみると、、、実際は、、、」等のように、10秒以上も経過してから出される返答は、真の目的では無いことがわかる。

なんとならば、その10秒以上もの間に、その人は、自分の頭の中で、様々な他の条件を考慮した結果、尾ひれ羽ひれの付け足した目的、あるいは周到に変更等を追加した上で語っている目的であることがわかるからだ。

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しかし、この手の願いごとが、人の心の中で形成されるためには、それなりの試行錯誤や熟慮も必要とされると思う。

何らかの物事や出来事を見て、瞬間的に人は判断することもあるけれど、その物事や出来事を多角的に見たり、あるいは経過を見たり、しっかりとした熟慮や何重もの考慮を重ねて、つまり、心では無く、頭を使って、何らかの物事や出来事を総合的に判断することも大事だからだ。

私達が日頃の生活の中で、何らかの仕事上のプロジェクトの成り行きも、瞬間的に判断するのではなく、経過をしっかりと観察し、深く洞察・熟慮を繰り返しながら、そのプロジェクトの成否を判断するのと同じだ。

だから、何らかの物事や出来事を右脳の方で瞬間的に判断することも大事だけど、左脳的に頭を使ったり、経験則をも使って、物事や出来事を総合的に、しっかり見ることも非常に大事なことだと思う。

また、右脳的な瞬間的な判断というのは、その判断理由自体を、その人が上手に他人に説明することが出来ないことが多い。

それに引き替え、左脳的に判断した内容というのは、言語を使って記述できるから、その言語に落とされた判断内容を人に語れば、相手が言語を使って理解できるので、語る相手にとって、その判断理由を理解しやすいだろう、という利点がある。

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そういうわけで、私が現時点で、少なくとも、私の願いが成立した理由というのものを、左脳的な説明をしてみることにする。

私の当ブログ中のどこかの過去記事に書いた事だけど、世にイルミナティレプティリアンという種族がおって、彼等が極秘の内に全地球人を奴隷として使用したいらしい。

これを書いただけでも、「私は、ぜひ、地球とは違う星の上で暮らしたい」と、瞬時の返答を胸の中で出している人もいるのではないだろうか。

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しかし、地球上に造物主というのがおり、「彼等をぜひ更生してやって欲しい」という願いがあるのならば、その願いが実現可能かどうか、あるいは、幾らかでも達成されるのならば、その達成された具合を、私達は注意深く、検討しないといけなくもなるだろう。

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どこかの過去記事にも書いたけど、イルミナティやレプティリアンという種族が、「全地球人を暗黙の内に奴隷化したい」という願いがあるのならば、「彼等は他の人々の自由意思を剥奪(はくだつ)したい」という自由意思を持っていることになる。
そして、彼等は日々に、その願いを達成すべく、努力していることになる。

これ自体が既に矛盾している。

なぜならば、彼等にも私達にも自由意思がある。
しかし、彼等の自由意思というのは、彼等以外の他の全ての人々の自由意思を奪いたいのだから、いわゆる神と言われる存在が全ての存在に平等に与えたとされる自由意思の濫用と逆用をしていることがわかる。

だから、彼等にしても、彼等以外の他の存在から、彼等なりの自由意思である「他の人々の自由意思を剥奪したい」という自由意思を剥奪されたら、それこそ、イルミナティやレプティリアン達は「我々の自由意思を侵害するな」と言うだろう。
しかし、イルミナティやレプティリアンの自由意思というのは、彼等以外の人々の自由意思を剥奪しようとしているので、ここには、一種の矛盾が生じていることがわかる。

つまり、彼等は矛盾した存在であることも私達は理解できる。

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「矛盾」というのは本来、存在することが出来ないのだから、造物主としては、「彼等を更生してやって欲しい」という願いがあると思われる。

なんとならば、「彼等を受け入れて、生活を共にする」となると、それは彼等の更生事業を意味しているからである。
「矛盾した存在」だから、いわゆる「失敗した人種」とも言える。
そして、彼等を私達の生活に受け入れて、ただ、彼等の言いなりとなって、彼等流儀のライフ・スタイルとなってしまえば、その人も、いわゆる、失敗した人となってしまう。

だから、「彼等を受け入れる」という行動自体には、「彼等の更生事業を行う」という課題が含まれていることになる。

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しかし、今現在、この地上に生まれている人で、「私は、イルミナティやレプティリアンを更生すべく生を受けた、更生事業専門スタッフです」と、宣言する人は少ないと思われる。

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俗に言われるように、たとえ、生まれる前に、そのような使命があったとしても、それも人によっては思い出せたり、あるいは、思い出せなかったりで、これでは、説得力に欠けた話題を私がしていることになる。

また、そのような事を考えずとも、たった今現在に、イルミナティやレプティリアンの情報を聞いた人が、「私は、今現在、かような人々と付き合いたいとは思いません」と言えば、それで全てとなるからだ。

もし、仮に生前の記憶というのがあって、その生前の記憶の中に、「私は、イルミナティやレプティリアンを更生すべく生を受けた、更生事業専門スタッフです」という記憶が残存していたと仮定しても、その人が、今現在のイルミナティやレプティリアンを見て、考えや意向が変わり、「私は、過去、そのような願いや目的があったかもしれませんが、今では変化しており、今現在、かような人々と付き合いたいとは思いません」と言えば、それで全てとなるからだ。

過去の願いや目的や誓約も、変わることも多い。

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また、イルミナティやレプティリアンの更生事業が展開されていたとしても、その達成の具合、つまり、達成率も、私見では、かなり低いように見える。

それどころか、「イルミナティやレプティリアンのライフ・スタイルや流儀が素晴らしい」と考える人々が、この地上社会にそれだけ、彼等の世界を広めつつあったので、やはり、彼等の更生事業の達成の具合も低かったと私見では見ている。

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また、このような文章を読んでいて、さらに以下のような矛盾点に気付く人も出てくるかもしれない。

というのも、造物主の願い自体が、「イルミナティやレプティリアンを更生してやって欲しい」という願いがあるのならば、この文章自体に、隠れた矛盾があるのに読者は気付くだろう。

なんとならば、イルミナティやレプティリアンは「他の人々の自由意思を剥奪したい」という自由意思を持っている。
そして、彼等なりに、その自由意思を実現しようとしている。
だから、もし、造物主が、「彼等の更生を願っている」というのならば、それこそ、「造物主がイルミナティやレプティリアンに与えられた自由意思を剥奪しようとしている」という風に、人は感じることも出来るだろう。

この状況になると、「造物主自身が、多くの存在に与えたとされる、自由意思を、自ら、多くの存在から剥奪してしまう」ということになり、大きな矛盾が生じてくる。

だから、造物主からしてみたら、「自由意思の剥奪」ではなく、「思考の改変」を試みることだろう。
「考えが変わる」ということは、誰にでもあることだから、これだと、相手の自由意思を奪ったとか無理矢理変化させたことにはならない。

しかし、これでも、イルミナティやレプティリアンからすれば、「俺達(イルミナティやレプティリアン)の自由意思を奪うな」と言ってくるかもしれない。
しかし、その、イルミナティやレプティリアンの自由意思や、その行いというのは、「彼等以外の全ての存在の自由意思を奪おう」という自由意思なのだから、私がこの手の話をしていること自体、何かの矛盾が生じているのかもしれない。

早い話が、あまりにも難しい話なので、「彼等を説得して、改心せしめよう」という希望や目的を抱く人は、私見では、かなり少ないと感じている。

(※追記:このようなことを書いていたら、人は次のような質問を彼等にしてみたい、と願うかもしれない。その質問とは「イルミナティやレプティリアンさん。あなたは、あなたがた以外の『多くの人々の自由意思を奪いたい』という、あなたの自由意思があると伺いました。それでしたら、まず先だって、あなた(イルミナティやレプティリアンさん)の自由意思が剥奪されるという体験を実感してみるのはいかかでしょうか?」というものである。「彼等から、どのような返答が返ってくるだろうか?」と、多くの人々は聞いてみたいと願うのではないだろうか。)

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しかし、世には更生事業者とか、その手の医者やスタッフ達が居るので、それと似たような人も世にはいるかと思われる。

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そのような人達の行動ぶりが、時々、テレビのドキュメンタリー番組として流されている。

そのような人達ならば、イルミナティやレプティリアンを説得して、彼等を改心させた時に、お互いに涙する、という光景があるかもしれない。

そのような人達がいるならば、もちろん、私は止めない。
そのような人達が、そのような行動を起こして、それなりの結果が得られれば、お互いの魂の喜びとなるのだろう。

だが、繰り返しになるのだけど、私が世を見回すに、「自分は更生業者の専門スタッフです」とか「自分は、これそれ病院の専門スタッフなので、そのような人達を改心させることが、私にとっての心底なる魂の喜びなのです」と宣言する人は、私達の社会の中ではかなりの少数派と思われる。

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私達の社会に見られるような標本を見るに、結局、イルミナティやレプティリアンという人達は、星レベルとでも言える、一個の巨大病院の中で、更生事業者の専門スタッフ達に囲まれてでの、長期治療が現実路線であると考えてしまう。

しかし、そのような巨大病院の中で彼等がそれなりの治療とでも言えるものを与えられ続けても、私達には次の2点の、更なる疑問が湧くと思う。

■1:
「彼等が改心する」と仮定するならば、それは、どれ程の期間を必要とするのか。

■2:
そのような巨大病院の中で長く治療を受け続けても、もし、改心しなかったら、その時は、どうなるのか。

どんな人でも、個性の差があるので、それぞれの人が病気になっても、治るまでの期間もそれぞれである。
だから、「改心」とも言えるような行為に時間がかかっても、それが起きるのならば、まだ良いのだけど、「■2」のように、「いつまで経っても治らない(改心しない)」というパターンも、充分に、想定できる。

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これ以降は、今現在、私達は考えない方が良いかもしれない。
ただ、上の点を書いた理由は、「より広い視点で、自分達の計画を立てることが出来る」ということで書いてみた。

つまり、相当の長期間を考慮することにより、たった今現在の私達の人生目標とか、それなりの計画を立案する際に、それらの計画に、上記の情報と、それらを考慮した情報やデータを組み込むことも可能となるからだ。

それ自体は、一つの利点と言えるかもしれない。

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長く書いてしまったのだけど、要点を書いてしまうと、あまりにも難しいと思われるものには、ついて行かない方が良いと思う。


                                       坂本 誠

2018年7月26日 (木)

三千二百七十六: お知らせ

こんばんわ。

最近、ちょっと、忙しくて、ブログ更新が滞っています。
何卒、ご了承ください。



                                       坂本 誠

2018年7月11日 (水)

三千二百七十一: イルミナティとレプティリアンと地球造物主のことを考えて(独白)

時々、私はイルミナティレプティリアンのことを書いている。

イルミナティやレプティリアンと私達との関わり合いを書いているのだけど、さらに、地球の造物主と、イルミナティやレプティリアンとの関わり合いも、実は頻繁に考えている。

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もし、地球の造物主という存在がいると仮定したのならば、彼(あるいは彼女)は、かなり、イルミナティやレプティリアンを見くびった上で、彼等の居住を許可したと思う。

比較的に、私が引用している以下の文献を再引用したい。

(以下、『あなたはどの星から来たのか?』(ファルス著 ヒカルランド)から引用)
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そのひずみの間にスーッと入り込んだのが、非ヒューマノイド型の生命体(レプティリアン種、通称レプ種)の浸食です。

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そうしてあなたがたは、徐々に能力を制限されていくようになり、やがて囚われと制限のある世界の住人となることを選んでしまいました。
それは主に電磁波によるコントロールシステムを使って行われました。

時を同じくして、幾度目かの大がかりな宇宙戦争もありました。
大別するとヒューマノイド型と、別宇宙(アナザーユニバース)から転生してきた非ヒューマノイド型との侵略戦争です。
この戦争においてはヒューマノイド型はとても不利でした。
というのは、もともとヒューマノイド型は、非侵害、不可侵という思考システムで活動していたため、所有という概念もなく、ましてや戦闘や防御といった体制も持っていなかったのです。
      :
    (中略)
      :
現時空から見た計時測によると、今から31万2000年前に、あなたがたの遺伝子組み換えが行われたのです。
地球人による科学ではそれをミッシング・リンク(失われた輪)と呼んでいます。

その部位は脳幹にあります。

Rコンプレックスといわれる爬虫類脳の部分に、彼らの遺伝子コードが組み込まれていくことで、あなたたちは恐怖や不安、縄張り意識、支配と隷属、競争、嫉妬といった遺伝子コードが活性化されたのでした。

それはいわば電磁波的な壁のようなもので、私たちはその壁をネットコントロール(網支配)と呼んでいます。
それはまるで漁師が目の細かい網で、そこにいる魚をすべてすくい取る網のように見えたからです。
      :
    (中略)
      :
というわけで、あなたがたの中にあるRコンプレックス部分の周波数を、まるごと認め、愛し、手放すことによって、その特性であった恐怖や混乱、支配、競争といった周波数帯と同調しなくなり、さらに高い周波数域である、愛と創造性に基づいた、高次のシステムと共振していくことが可能になることでしょう。
このことはいくら強調してもいいほどです。
      :
    (中略)
      :
今まで、あなたたちが創り出したと思っている社会や思考システムのほとんどは、彼らによる至高の雛形が具現化したものです。
それは大変な影響力を持ちました。
まるで、家に屈強な父親が一人いて家族を管理しているかのようです。

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(引用終わり)

要するに、宇宙人による地球への侵略が起きていたことになる。
それを、今まで、受け入れていた地球の造物主というのも、私は理解し難い。

仮に、多くの生物を受け入れる目的があって、地球が創造されたとしても、イルミナティやレプティリアンの計略だと、

  「ここには多くの人種が入っているから、数多くの摩擦が発生するだろう。その摩擦を起こして、地球上を群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の状態にすれば、混乱が起こるので、その隙間に入って我々が地球支配をしやすくなるだろう」

という感じで、容易に、地球上に混乱を起こす事になる。

多様な人種のいる場所では、摩擦が起きやすいので、その欠点自体も、容易に彼等に逆用されたわけだ。

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イルミナティやレプティリアンというのは、言ってみれば、失敗した人々とも言ってよいだろう。

ある人から見れば、「失敗した人々をも受け入れてやってほしい」という願いもあるかもしれない。

しかし、「失敗した人々をも受け入れ」た後は、私達には何の課題があるだろう?

その「失敗した人々をも受け入れ」て、彼等の流儀や彼等の影響を受けるだけで良いのだろうか?

そうなると、つまり、失敗した人々を受け入れた側の人間達も、いわゆる失敗した人間となってしまう。

だから、もし「失敗した人々をも受け入れてやってほしい」という願いを持った人がいるのならば、受け入れた側の人間達に対して、「失敗した人々を更生してやって欲しい」という願いが潜んでいることがわかる。

そうしなければ、受け入れた側の人々も、なすがままに、失敗した人々となってしまうからだ。

だから、どこでもそうだろうけれど、「失敗した人々を受け入れる」という環境があるのならば、さらなる目的として、「その失敗した人々を更生する必要がある」という目的を持たないといけないことになる。

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ところが、現実には何が起こったのかというと、地球全体に、イルミナティやレプティリアンの流儀が広げられ、彼等の思想に汚染された人々が多く現れた。

「彼等の思想」というのは、競争、比較、支配、隷属、自慢、怒り等々、、、

だから、地球の造物主というのは、かなり、イルミナティやレプティリアンを見くびって、地球に受け入れたと思われる。

現実には、イルミナティやレプティリアンは、恐怖や脅しや暴力等を、ためらいも無く使用して、「地球人類を支配してやろう」という輩(やから)達だったのだから、この記事の読者の方でも、「今現在、イルミナティやレプティリアンを私達の社会に受け入れるべきか、どうか」という議題が発生したら、相当に、激しい議論が巻き起こるかもしれない。

「イルミナティやレプティリアンに対する側として、既存の地球人類は彼等を更生する力量があるに違いない」という、地球造物主の側の、地球人類に対する、あまりにも過大な期待がかけられていたと私個人は思う。

この、過大な期待を頼りにして、「31万2000年前から、今に至るまで、秘密の更生事業が行われていた」ということになるのだけど、私から見たら、非常に甘い見込みによって、彼等に対する秘密の更生事業が実行されていたと感じる。

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結局、ほぼ出来なかったのだから、これだけでも、かなり大きな失敗だと思う。

私達は、今では「外部の視点」によって、この一連の騒動を見ることが出来る。

「外部の視点」というのは、以下のようなものになるだろう。

31万2000年前にレプティリアンが地球に到来したというのならば、例えば、読者である、あなたが当時に、宇宙人であって、宇宙船に乗り込んで、その一部始終を見ていたとするのならば、「地球の造物主よ。あなたは、レプティリアンを地球に居れない方が良いでしょう」と、かなりの心配混じりの声で、地球の造物主に進言していたかもしれない。

これが私が上述している「外部の視点」である。

また、次のような「外部の視点」も考えられるだろう。

上の例で使った、宇宙船の中で一部始終を見ている宇宙人のあなたは、次のように、地球の造物主に進言するかもしれない。

  「地球の造物主よ。レプティリアンが地球に入り込んで、彼等なりの流儀を地球にばらまいていっています。いますぐ、レプティリアンを地球の外に追いやった方が良いでしょう」

等々。

しかし、私達に想定できる、その進言に対する地球の造物主の返答としては、

  「いや、既存の地球人類ならば、きっと、レプティリアンの誤りに気付いて、彼等を更生するだけの一大事業を成し遂げてくれるでしょう」

等々。

しかし、上記に紹介した本のように、31万2000年間の長きにわたって、レプティリアンの流儀を地球にばらまかれ、彼等の流儀こそが、私達の社会の常識だ、となったにいたっては、やはり、地球造物主の非常に甘い見通しによって、地球の歴史が編まれてきた、と感じるのは、私一人だけであろうか。

人によっては、「31万2000年間」という時間を短く感じる人もいる。
あるいは、長く感じる人もいる。
だから、一概には時間の長短のことを言えないものの、私にとっては、その期間というのは、長すぎる時間に感じる。

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色々な文献を読んでみると、この長きに渡ったレプティリアン流儀の競争・比較・支配・恐怖等々のネガティブな要素を持った、この文明は変化すると言われている。

巨大ピラミッド・システムとか、テストの点数付けとか、社会の中に多数存在している位階制度とかが、彼等の文明の遺産であると言われているが、「これらが変化する」とあるのならば、これまた、それが一種の失敗を認めることになると言えるだろう。

なぜならば、私達の社会に現存している、巨大ピラミッド・システムとか、位階制度とか、金銭などのよる身分の差別制等々が、「神の目から見ても、本当に素晴らしいものである」と、全ての存在が認めていれば、それらの数多くのシステムは温存される筈だから。

素晴らしい社会制度とか素晴らしい社会システムがあれば、それ自体が素晴らしいので、「いつまで経っても、残して置こう」とか、「いつまでも保存・温存しておこう」となるのだけど、そうではないとあるのならば、「それは素晴らしいものでは無かった」ということを証明しているからのだから。

だから、この点を考えても、「レプティリアンの様々なシステムから、新規のシステムへの変更がなされる」とあるのならば、「今まで、私達は数多くのレプティリアンの流儀を使用してきた」ということ自体が、「一つの失敗であった」と認めることになる。

当然ながら、「地球の造物主が自分の失敗を認めた」ということになる。

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また、私達に考えられることには、イルミナティやレプティリアンの私達の社会への受け入れ作業というのは、私達が悪というものを覚えるために、導入された、という一つの予想も得られるだろう。

しかし、今現在、私のこの記事を読む人ならば、「このような形で悪というものを覚えることは拒否する」と言う人も多いのではないだろうか。

もっと他の形で、イルミナティやレプティリアンの所業を学ぶことも出来たと思われる。

しかし、そうではなく、彼等の社会制度や社会システムが「当然の社会常識」となった上では、それらの社会制度や社会システムに入り込んでいる人々としては、「それが正しいか、それともそうでないか」ということを考えられなくなる。

だから、その地球社会での人々からしてみれば、「私達は、イルミナティやレプティリアンの所業を学んでいるのではなく、社会の善を学んで、それを実行しているだけです」という、本末転倒の状態も発生してくる。
だから、私達としては、イルミナティやレプティリアンの所業を見て、何らかの判断を出すどころでは無く、それどころか、社会の善を実行していることになるのだから、「悪行というものが、どんなものかを学ぶ」という目的すらも達成するのが難しく、それとは別に、この場合だと「イルミナティやレプティリアンの所業そのものが素晴らしいことだ」という実感すらも、私達は抱いてしまうことも多々発生してしまう。

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また、このような状況だと、「イルミナティやレプティリアンと遭遇することが、地球人にとっては必要と思われるから、遭遇させた」と、地球の造物主の側が、そのような老婆心のような心持ちで、私達に遭遇させたことになる。

これについては、現在の人々ならば、「私は、そのような経験を必要とは思いません」と言い出す人が出てくると思われる。

だから、地球の造物主の側が、「これそれの経験や出来事が、地球人には必要だから与えよう」という意志とは違いが発生してくることがわかる。
なんとならば、そのような経験や出来事を、その人が心底から欲しないにも関わらずに、与えられるというのだから。

地球造物主の側が「地上の人間には、これそれのことが必要だから与えよう」と考えても、地上の人間にしてみれば、「そのようなことは必要ありませんから、与えないで下さい」というケースと願うことだって、多々出てくると思われる。

このようなこともあるので、これだと、地球造物主側の失敗と言えるだろう。

この場合、何でもかんでもむやみに与えてもらったら、困るのは人間の側だということになる。

このような失敗なども考えられるので、はっきりと自分の意思を表明していた方が良いと思われる。

人によっては、「私はイルミナティやレプティリアンには遭遇したくないし、それに影響された人々とも付き合いたくない」というものだろう。

このような地球造物主側の失敗も考えられるので、自分の意思は、ハッキリと表明していた方が良いと思う。

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要は、人は、あまりの困難を感じるだろう。

だから、ある人ならば、私が上に書いたことや、私の過去記事の様々な、イルミナティやレプティリアンの所業を見て、

  「私は、今後、地球に居住することを拒否します」

という人が、多数現れても、何らの不思議ではない、と私には思われる。

なんとならば、もし仮に、イルミナティやレプティリアン主導の、この世界が変化したとしても、私が上に書いた事の顛末や、成り行きや原因を見て、今後の地球の方向性も信じられなくなる人も多数出てくると思われるからである。

たとえ「この手の失敗をこれ以上繰り返さない」と地球造物主が、今現在に言ってきたとしても、私が上に書いたことから、じっくりと考えても、「地球造物主よ。すいませんが、あなたを信頼することが難しい状況です」と発言する人が多くいても、不思議ではないと私は考える。

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もっとも、どんな人にも自由は許されているから、「私は、ぜひとも、地球と一蓮托生の関係でありたい」と願って、心中までもしたいような人が世にはいても良いのだから、私はそのような人を咎めない。

人間には秘されたことがあって、それを持って、イルミナティやレプティリアンを受け入れていたとあれば、まだ話は理解できる人もいるかもしれない。

だが、ここでは、人間だけでは無く、動物・植物、あるいは、鉱物までも考えられる人がいるならば、それらの世界の住人達のことまでも考えた方が良いだろう。

わかりやすく考えるのならば、動物の世界と、その住人達である。
イルミナティやレプティリアンの影響を受けた人々が多数出現した結果、それらの多くの人々が、動物や植物に与えた、莫大な影響も少しは考えてみた方が良いと思う。

一般には(イルミナティやレプティリアンに調教された結果)、人間は人間のことしか考えない自己中心的な存在でもあるのだから、人間は、動物・植物の事までも考えることが少ない。
だから、この機会に、ついでながら、世の多くの人間達が動物・植物に、「どのような影響を、どれ程多量に与えたか」という点について、それらを自分で調査してみたら良いと思う。

人間だけなら、まだしも、動物や植物(あるいは鉱物までも)にまで与えた影響を考えて、イルミナティやレプティリアンの地球受入れが、成功した事例か、失敗事例かを、考え直すのも、一つの良い機会だと思う。

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以前書いた事があるのだけど、イルミナティやレプティリアンの所業を見て、多くの人が自然に感じるのは次のことだろう。

  「イルミナティやレプティリアンに似たような人が、どこかの更生施設や精神病院等に入所して、長期治療等を受けているシーンをテレビや新聞等で見かけたことがあります。しかし、当のイルミナティやレプティリアンのような人々は、どうして、そのような処遇を受けていないのでしょうか?」

という疑問が湧くと思う。

というのも、私達が見聞きする、この地上社会だと、そのような人々が、どこかの更生施設で長期治療を受けているシーンが報道されており、それ以外のケースがあるかもしれないけれど、それには、あまりお目にかからないからだ。

どうして、彼等が、そのような更生施設にいないかというと、彼等の作るお金などを使って、彼等は、お金と権力の城を作り上げ、法の手をも伸びないようにしているから、「彼等は更生施設にいないのだ」とわかるだろう。

(もっとも、「法の手」と言っても、それらの法も、イルミナティやレプティリアンの都合の良いように作成されていたのだから、少なくとも、私達の居住している地上社会での「社会制度や社会システムは信用できない」ということになるので、誰もが「地球には居住したくない」と願うのではないだろうか、と考えるのは、はたして私一人だけだろうか?)

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上記のような事を感じるのは、私一人だけではないと思う。

なんとならば、地球上の多くの社会で、自殺者が多いことが知られている。
この、多くの自殺者の人々というのは、結局、言い換えてみると「私は、この地球上に存在したくないのだ」と、地球の造物主に向かって、強烈に叫んでいることと同じことだ。

つまり、自殺者というのは、通常、今まで地球で実行されてきたことに強く反対し、かつ、地球に対する信頼をも全く失っていることがわかる。

だから、事のいきさつを考慮しても、「地球は信頼できない」と公表する人々も多数出現し始めても良いのではないかと、私は思う。

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もっとも、私としても、他の人々としてもそうだろうけれど、地球が常日頃与えてくれている酸素とか日光とか、適当な気温とか、足を踏みしめる大地があるけれど、それらに対しても「感謝しない」と言っているわけではない。

上に挙げた以上の、その他の地球上の多くの自然現象があるからこそ、私達は日々に生きているのだから。
「それらの基礎的な条件に対しては、感謝するけれど、地球が今まで実行してきた、イルミナティやレプティリアンの受け入れ自体には、感謝することは出来ない」という人々も多いかと思う。

もし、「イルミナティやレプティリアンの受け入れ」を実行する必要があったというのならば、「地球は完全に、一個の巨大病院として使用する」という明確な目標が無ければならなかったと思われる。

地球の造物主ぐらいならば、イルミナティやレプティリアンの更生も容易だったのかもしれないけれど、彼(あるいは彼女)がそれを引き受けたのではなく、現実には、地球上の人類が、イルミナティやレプティリアンの更生をしなければならなかった、という点においては、かなり異論を口に出す人も多いかと予想してしまう。

(そして、現実には、そのような異論が受け入れられなかったことがわかる。)

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だから、今までの流れから総合的に書くと、もっと世には、「私は、これ以上、地球に居住したくありません」と願う人々が多数いても不思議ではないと思う。

しかし、パッと世を見渡しても、上の願いを世に語ったり、あるいは、御自身のブログ上とか、ネット上のコミュニティ・サイト上の日記等に、それらの願いを書き込む人が少ないように見える。

あるいは、それらの願いを書き込まれたHPが、検索できないようにされているのかもしれないけれど。

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私は、このようなことを書いているのだけど、そりゃあ、どんな人でも自由は許されているから、「私はイルミナティの人々やレプティリアンと、ぜひ、お付き合いしたのです」と願う人も、いても良いわけです。

ただ、、、そのような願いを持つ、その人自身が、かなり周囲の人々から、お付き合いを断られる方向に歩んでいくかとは予想出来ます。


                                       坂本 誠

2018年5月28日 (月)

三千二百五十九: 現代社会事情に関する想定ドラマを想像してみて

本題に入る前に、前段『三千二百五十八:ある医療統計データを考えて』に記載し忘れていたことを書きます。

前段『三千二百五十八:ある医療統計データを考えて』では、
(以下、『InDeep』様、2018/5/13記事より引用)
------------------------------------------
●抗ガン剤の起源が化学兵器マスタードガスだったことを思っているうちに、私たちが開いた「人類と他の生物の完全絶滅への道」が一瞬で見えたような
https://indeep.jp/going-extinction-now-with-anti-cancer-drugs/
------------------------------------------
(引用終わり)

で、抗ガン剤の起源は、第一次世界大戦で使用された毒ガスが起源であり、現在でも、がんそのもので死ぬよりも、抗がん剤使用によっての、死亡者数の方が多いのでは、という概略の記事でした。

書き忘れた内容というのは、私の知人に薬剤師がいて、上記の件について伺った事でした。
知人の薬剤師も、抗がん剤を使用している患者に接する看護婦達のことを知っていました。
もちろん、その患者に接する看護婦達は、患者が一人変わる毎に、手袋、マスク、あるいは、エプロンを、即座に廃棄するそうです。

つまり、それほど、抗がん剤の毒性は強いのを、看護婦達は知っているそうです。

ですから、逆を考えれば、「日本人の死因の第一はがんである」という、統計データも、間違っている可能性は高いと思います。

ここまでが追加記事であり、以降は、今日の記事です。
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こんばんわ。

三千二百五十:世の多くの手抜き事業を考えて』の続きのような記事です。

『三千二百五十:世の多くの手抜き事業を考えて』で書いたように、会社の監査役の方々は、「会社の違法を調べ、それがあれば阻止・是正するのが職務」である、というのが私達に理解できました。
そしてまた、会社の取締役の方々にも、「法令・定款違反行為に関する責任を負わされています」から、自社内での違法があれば、それを阻止・是正しなければいけないことがわかります。
何とならば、会社の「就業規則」というのを、全ての会社は、労働基準局に納めなければいけないことが労働基準法で定められているからです。
そして、全ての会社の「就業規則」というのは、労働基準法の配下に置かれているので、全ての会社の「就業規則」というのは、労働基準法を守ることが定められているからです。

ですから、全ての会社は、労働基準法を実行及び守らなくてはいけません。
その、労働基準法の中に、長時間労働を禁じる条項があるので、世の全ての取締役の人々は、自社内での、違法長時間労働が実施されないように、阻止や是正をしなければいけないことがわかります。

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堅い言葉で書いてしまったので、ちょっとわかりにくかったかもしれませんが、わかりやすく書けば、社内の監査役とか取締役の人は、自社内で、違法長時間労働が実施されないように働く事が、彼等の仕事の一部であることが私達にわかります。

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会社の取締役の方は、社長とか専務とかの人が多いです。
ですから、社内の社長とか専務の仕事は、その配下の従業員の業務でもあります。
なので、以下のように、想定できるシーンもあるのではないでしょうか。

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あるブラック企業内での、ある社員が、定時(※筆者注:この記事内での「定時」とは、夕方5時や夕方6時ぐらいを想定しています)で帰社しようとしています。
その光景を見た、そのブラック企業内での、その社員の上司が、その定時で帰社しようとしている社員を捕まえて、「なぜ、おまえは定時で帰社しようとしているのか?」と、尋ねたと仮定します。

すると、呼び止められた、定時で帰社しようとしている社員は、上司に以下のように答えるかもしれません。

  「うちの社の監査役や取締役(※筆者注:この記事内では『社長』を意味します)、つまり、社長の仕事として、社内の違法長時間労働を禁止・是正・阻止する業務内容が彼等にはあります。そして、私が社員だから、つまり、社長の業務は、私の仕事でもあります。ですから、社長業務の一環を、平社員である私は実行しないといけないでしょう。ですから、違法長時間労働をしてはいけないので、業務の一環として、定時で帰社しようとしているところです。」

ですから、世の定めとされていることを考慮すれば、上記のようなドラマ・シーンが実際の現実社会に展開されても、不思議は無いのではないでしょうか。

ですので、上記の想定したドラマ内での、そのブラック企業内での、その上司は、その定時で帰社しようとしている社員に、何も言えなくなるのではないでしょうか。

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しかし、上に書いた想定ドラマの続きを、読者の方々は、更に想像することが出来るでしょう。

それは、次のような、ドラマかもしれません。

定時で帰社しようとした平社員に何も言えなかった、そのブラック企業内での、その上司は、定時で帰社した社員のいない間に、他の社員達に、次のように言います。

  「定時で帰社した、あいつを、みんなでハブるんだ!」

と。

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この「ハブる」という単語ですが、これは、現代の若者の間で使用されている俗語の一つとされていて、この「ハブる」という単語の意味は、「仲間外れにする」という意味だそうです。

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ですから、この記事の読者の方々は、更なる、想定ドラマの続きを想像できることでしょう。

定時で帰社をするようになり始めた社員の、その後の日常を、彼(あるいは彼女)が感じることには、

  「私は、社のみんなから、ハブられている!」

と。

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読者の方々も、更に更に、この想定ドラマの続きを想像することが出来るかもしれません。
それは、上記の想定ドラマを、横から、つぶさに眺めている、そのブラック企業の監査役と取締役(※筆者注:この記事内では『社長』を想定しています)の心中です。

色々と、読者の方々も想像できないことはないでしょうが、何か、私の方で、記述するに値する想定ドラマが思い付けば、書き足すことにします。

読者の方も、ぜひ御自身で、上記の想定ドラマの続きを想像してみて下さい。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『三千二百五十:世の多くの手抜き事業を考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/05/post-5697.html
(Wikipediaより引用。太字にしたり、アンダーラインを引いたのは筆者)
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●監査役
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A3%E6%9F%BB%E5%BD%B9

Photo

会社経営の業務監査および会計監査によって、違法または著しく不当な職務執行行為がないかどうかを調べ、それがあれば阻止・是正するのが職務である。(、、、以下、省略)

最終更新 2018年3月5日 (月) 08:44 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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(引用終わり)

『三千二百五十一:『街道を行く 9』の再解釈_No.1』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/05/_no1-923a.html
(上記記事より再掲載分)
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この段落の記事とは違っているのですが、先に更新した『三千二百五十:世の多くの手抜き事業を考えて』の追加を、ここに書かせて下さい。

前段落から続いて、会社の監査役の簡単な手抜き行為として考えられる行為があります。
会社の監査役というのは、複数の会社を兼任することが出来ます。
ですので、ある監査役の方のセリフを想定するならば、

  「私、幾つかの会社を兼任しているという忙しい状態でありまして、件(くだん)の会社の社員の労働時間を、つぶさに監査する機会がありませんでした」

というものでしょう。

このような逃げとも思われるようなセリフが出たとしても、こちらの方から、

  「それでしたら、いつも、あなたが多目に出勤している会社があるでしょうから、その会社の従業員の労働時間状況は、どうでしたか?」

とか、

  「それは、もう、監査役が、自分の業務を実行しているとは言い難いのでは? 幾つもの会社を兼任していたとしても、それらを調べるのが、そちらの業務でしょうから、それこそ、部下を使うとか」

等のように、幾らでも手段はあることでしょう。

会社の取締役も同じようなものですし、この状況で、日本の数多くの企業が違法長時間労働をしているとあるならば、、、

ねえ、、、それこそ、、、
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(引用終わり)


                                       坂本 誠

2018年5月20日 (日)

三千二百五十七: 忍耐強さとか我慢強さと言われているものを考えてみて

こんばんわ。

「忍耐強さ」とか「我慢強さ」と言われているものについて、自分なりの見解を書いて見ることにします。

「忍耐強い」とか「我慢強い」と言われていることは、私から見ると、そんなに美徳には感じません。

ちょっとした会話文を想定して、話題を進めてみたいと思います。

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●ある大人:
「君って、我慢強いのねえ。忍耐力が付くよ」

■ある子供:
「うん。僕って我慢強い、強い子だよ」
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上のような会話があったとしましょう。
だいたい、上のような会話は、どこでも、ありふれて聞いたことがあるかもしれません。

しかし、「忍耐強い」とか「我慢強い」という精神状態を、一緒によく考えてみましょう。
「忍耐強い」とか「我慢強い」という精神状態が起こっている、という状況は、その人の何らかの環境や境遇の状態について、その人がぐっと耐えている、と言うことになります。

ですから、その人の心の奥底の状態というのは、「本来、私がいる環境は、ここでは無い」と言っていることになります。

何とならば、何らかの困難な状況や、苦痛の状況が、その人に訪れているからこそ、その人には、「忍耐強い」とか「我慢強い」という状態が発生しているからです。

ですから、この状態だと「現在、その人に困難な状況や、苦痛の状況が訪れている」ということで、「現在、その人は不幸な状態にある」と、私達に理解できます。

そして、全ての人にとってそうですが、

  「現在、私は不幸な状態にあるけれど、その環境から逃れられない(あるいは逃れる手段が無い、あるいは、逃げたいという志が無い)からこそ、私は、現在の、この不幸で苦痛の環境に対して、忍耐・我慢している」

ということになる筈です。

ですから、例えば、

  「私は、この環境に対して、非常に我慢強い・忍耐強い」

という言葉の裏を返せば、

  「私は、この環境を非常に嫌っています」

と言い直せることに私達は気が付きます。

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ですから、冒頭に挙げた会話文も、私が説明した視点から書き換えてみると、以下のようにも書き直せるでしょう。

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●ある大人:
「君って、今、非常に苦痛の状態や環境にいるのねえ。大丈夫?」

■ある子供:
「うん。今、僕は、非常に苦痛を感じる環境にいます。心身のバランスが保てるかどうかはわかりません」
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と。

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一般的に言えば、私達は幸福を求める存在です。

ですから、「忍耐強さとか我慢強さを欲する」というのならば、それだけで、苦痛の環境にいることになるのだから、その人は、不幸の状態にいることになります。

ですから、たいていの人が「あなたが不幸の状態になることをお薦めします」というのは、ほとんどが無い話であろうかと思います。

なので、「我慢強い人間に、おなりなさい」とか「忍耐強い人間に、おなりなさい」という人は、その言葉を語りかけている人に対して、「あなたは不幸に、おなりなさい」と言っているのと同じになります。

ですから、「忍耐強い人間に、おなりなさい」と言ってくる人に対しては、私達は注意深くなる必要があるのではないでしょうか。

なんとならば、その言葉を言ってくる人に、どこかしら、「あなたに苦痛の環境を持って来て、あげましょう」というニュアンスが感じられるので。

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確かに、私達も生きていて、何らかの我慢とか忍耐を強いられたことはあると思います。

しかし、意図的に、我慢強さや忍耐強さを求めるとなると、そのような状態は、例えば、滝に打たれる滝行とか、荒行・難行を心身に与える行為となってくると思います。

こうなってくると、周囲の人が見て、「その人は、自ら不幸の環境を望んでいる」となるでしょう。

また、そのような荒行・難行を求める人は、自身の忍耐強さと我慢強さを得ようとしているのでしょう。

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宗教者の間では、そのような受難礼賛(じゅなんらいさん)を尊ぶ環境があったと聞いています。

このような方々の心底には、「苦痛が自らを清めたり、高めたりするだろう。その苦痛に清められた結果、私は、より高尚(あるいは幸福)になるだろう」という思いがあるようです。

この記事の冒頭からの流れを含めれば、「苦痛を経験することによって、私は忍耐強さを手に入れることが出来るのだ」と言えるでしょうか。

色んな人がいて、どのような方向を目指して歩くのかは、それぞれ各人の自由ですから、そのような方向を歩んでも、良いとは言えるのでしょう。

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しかし、読者の中には、上記のような受難礼賛の精神の中に矛盾を見い出していると思います。

なぜならば、上に書いたような受難礼賛を尊ぶ人は、常に、その人にとっての不幸な環境を望んで、選択していることがわかります。

彼(あるいは彼女)自身は、それらの不幸環境を入手し続けることにより、彼自身に何らかの得を掴めると思って、その不幸環境を選択し続けているのですが、いつまで経っても、その人が、彼自身に満足する何かを得ることは無いことが、私達にわかります。

なぜならば、その人自体は、常に不幸環境や苦痛環境を選択・入手しているでしょう。
ですから、もし、彼自身が、彼にとって満足する何かを得られたとしたら、それ自体が、「彼は常に不幸環境や苦痛環境を選択・入手している」という状態では無くなります。
つまり、矛盾してくるからです。

もうちょっと、詳しく説明して、二度ばかりまで書いてみると、彼自身は苦痛・不幸環境を求め続けることによって、彼自身を満足させるであろう、何らかの得点ポイントや得点状況を、どこかしら、なにかしら、得られる筈です。
しかし、既に、その状態というのは、彼にとっては、一つの幸福状態となります。

しかし、彼自身としては、その、なにかしらの幸福を手に入れるためには、ずっと、彼の認識している不幸・苦痛状態を手に入れ続けないといけないので、つまり、彼は世の終わりまで不幸・苦痛状態が続くことになります。

そして、もし、仮に、彼が、彼の続けていた不幸・苦痛状態から、何らかの得点ポイントや得点状況を手に入れたとしたら、それは彼にとっての幸福状態となりますので、彼の目指している、「常に不幸・苦痛環境を得続けよう」という目的が失敗するわけです。

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上の状態の矛盾を解消するためには、次の考えが必要となって来るでしょう。
つまり、

  「その人にとっては、不幸・苦痛こそが、彼の幸福なのだ」

と。

しかし、私達は次のことがわかるでしょう。

  「彼自身は、彼なりの不幸・苦痛状況を得ようとしている。つまり、それは彼にとっては、相変わらずの不幸・苦痛状況であるから、彼は永遠に幸福を掴むことは出来ない」

と。

つまり、、、この手の矛盾を解消するのは、、、やっぱり、無理です。

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つまり、私としては、ここまで説明を書かせて頂いたのですが、要は、

  「我慢強さや忍耐強さを求める狙いや行動は、基本的には、人を幸福にしないだろう」

という主張です。

なんとならば、上に説明させて頂いたのですが、矛盾が起きてきますので。

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確かに、ある程度の我慢強さや忍耐強さが、生きている間には、運命の手によって、それを学ばされたりするかもしれません。
それ自体も「粘り強さ」というものを身に付けたことにもなるでしょう。

しかし、長期間に渡るまでの「我慢強さや忍耐強さの養成」というのは、道から離れてくると思います。
人によって、「長期間」という時間の長さは変わってきますが。

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また、他にも言えるであろうことがあります。
例えば、長期間に渡って、全く不幸や苦痛の無い環境ですごせば、今度は、そのような環境では退屈が発生するでしょう。

その退屈自体が、その人にとって不幸となるでしょう。

ですから、その不幸・苦痛環境から逃れ出るには、ある意味、厳しい環境に出てくれば、その忙しさや対応状況によって、退屈からは逃れられるでしょう。

そのような意味での、「不幸・苦痛環境の選択」、つまり、上の流れから行けば、「我慢強さや忍耐強さの養成」というもの選択が起きるかと思います。

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しかし、上に書いたように、積極的なまでの「我慢強さや忍耐強さの養成」を目指すとなると、その状態は、つまり、「不幸を愛する」という状態になるでしょう。

つまり、いったん、その状態に入ると、そのマイナス状況から抜け出すのは難しくなると思います。

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ですので、積極的なまでの、自身への「我慢強さや忍耐強さの養成」という目的は避けた方が良いと思います。

もっとも、どんな人にでも自由がありますので、上記の目的を積極的に選ぶという人もいても良いのだし、もちろん、そのような人に、強くは言えないのですが。

まあ、私個人としては、「自身の我慢強さや忍耐強さの養成を積極的に行う」とか「受難礼賛」という目的は、止めた方が良いかと思います。


                                       坂本 誠

2018年5月11日 (金)

三千二百五十四: 透明性のある政治・行政を考えて

こんばんわ。

私の見かけたニュースから紹介させて下さい。
私の気になった部分には、アンダーラインを引いたり、太字にさせてもらっています。

(以下、『朝日新聞』、2018/05/09記事より引用)
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●天声人語

P5100180

首相秘書官だった柳瀬唯夫氏の国会招致が決まった。
「私の記憶のある限りでは、今治市の方とお会いしたことはない」。
昨年来、国会審議の焦点だった面会をついに認めるのだろうか

この問題が浮上したのは昨年6月、加計学園の誘致をめぐる愛媛県今治市の行政文書の存在が明らかになってからだ。
住民が一昨年の暮れ、開示を求めて入手した。
残念ながら大部分は黒く塗られている。
だが、かろうじて読める部分をたどると、2015年4月2日付の市課長らの出張旅程に「15:00~16:30」「千代田区永田町 首相官邸」とあった

ところが、学園をめぐる疑惑が国会で取り上げられると、事態は一変する。
昨年暮れ、同じ住民らが出張報告書に絞って再度開示を求めると、今度は全面非開示となってしまった

いったん市民に明らかにされた情報が、翌年には隠される。
その経緯に驚く。
しかも愛媛県、文化省、農水省の調査で面会が否定できなくなった現在、面会相手を明かさない今治のかたくなさは際立つ

市長は先月、その理由を地元記者団にこう説明した。
「国や県は一緒に取り組んできた仲間だから迷惑はかけられない」。
では柳瀬氏が前言を翻したら今治はどう出るのか。
よもや「廃棄した」とは言うまいが

行政が不都合な文書を出し渋るのは今治に限った話ではない。
それでもこの国の公使の情報公開の姿勢には寒々しさを覚える。
山形県金山町が自治体として初めて情報公開条例を施行して、36年になる。
2018・5・9
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(引用終わり)

政治的な話題で、以前にも書いているのですが、再び書きます。

よく、政治や行政の現場から、「開かれた政治・行政を作っていこう」あるいは「透明性のある政治・行政をしていこう」というセリフが聞かれます。

この「開かれた政治・行政」とか「透明性のある政治・行政」というのは、わかりやすく書きなおせば、「国民の誰もが見ることの出来る政治・行政」を意味しています。
つまり、テレビ・新聞・ラジオ、その他の媒体によって、多くの人々が政治・行政のしていることを確認出来る状態のことが、「開かれた政治・行政」とか「透明性のある政治・行政」のことです。

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なぜ、その「開かれた政治・行政」とか「透明性のある政治・行政」でないといけないかというと、大きな理由があります。
それは、私達の社会システムが民主主義政治だからです。
「全ての国民が政治に参加している」というのが、私達の実行している民主主義政治です。

ところが、役所とか立法機関の人間が、自分達のやっていることを、多くの人々の目から隠そうとする政治システムを認めてしまうと、その状態だと、役所とか政府とか立法機関の人間達のみが、彼等だけに都合の良い政治・行政・何らかの法律を作ることが出来ます。

つまり、わかりやすく書くと、そのような政治システムは「独裁政治」となります。
なぜならば、大多数の人間のことを考えなくて、自分達だけに都合の良いことを決めて、実行することが出来るからです。
(あるいは、そのような政治システムのことを「寡頭(かとう)政治」と言います。「寡頭政治」というのは、極めて少数の人間で一国の政治を実行する政治システムのことです。この「寡頭政治」のことを、わかりやすく書きかえると「貴族政治」です。ですから、現代の「代表民主制」と言われる選挙で、代議士達を選出する政治システムは、ほとんど「寡頭政治」と言えるでしょう。)

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ですから、私達の実行している民主主義政治というのは、「全ての国民が政治に参加している」ので、代議士とか、公務員に委ねている公務とは、全ての国民のしていることなので、そのような、たった一部の人々に委ねている、それらの業務を、常に監視して、不正が起きていないかどうかを確認しないといけません。

なので、「開かれた政治・行政」とか「透明性のある政治・行政」というのは、「全ての国民が、それらの公務を見て、人々に納得の出来るような政治・行政をしましょう」と言っているわけです。

このように書けば、誰が見ても、「それはその通りでしょう。誰もが、そのような政治・行政状態を望むことでしょう。なぜならば、私達の社会システムは民主主義なので(決して王政や貴族政や独裁制ではないので)」と言うことでしょう。

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なので、逆を言えば、王政や貴族政や独裁制というのは、ほんの一部の人間が、国内の大多数の人間を無視して、法律を作ったり、あるいは、彼等だけに都合の良い、行政内容を実行することが出来ます。

なんとならば、そのような王政や貴族政や独裁制というのは、国内の大多数の人間達が、国王(あるいは女王)や貴族達や独裁者の実行しようとしている内容を見たり聞いたり、調べたりすることの出来ない一方的な社会を作ることが出来るからです。

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だから、私達の住んでいる社会でも、政治や行政の現場から、「黒塗りの文書ばかりが出て来て、多くの人々に隠そうとしている」となると、上に書いたことを思い出しながらも、ある人ならば、

  「公務内容なのに、どうして、あなたがたは、その内容を隠そうとするのですか?」

という、怪訝な顔をしながらの、疑問の言葉を口に出すことでしょう。

もちろん、その言葉の背後には、

  「隠そうとしている背後には、不正が隠されているのでは?」

の疑問が心中にあることでしょう。

元々、心や身辺に、何もやましいものを持っていないのならば、何を見せても恥ずかしい事は無いでしょう。

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また、個人情報というのと、公務情報というのは、これは違っています。

個人情報というのは、個人的な悩みだったり、あるいは、個人の資産だったりするので、言ってもいいし、知られたくなかったら、言わなくてもいいし、それらの情報を公開する自由は個人に委ねられています。

しかし、公務情報というのは、これは個人情報ではなく、公の財産つまり、「市民全員の所有する情報」とか「国民全員の所有する情報」となります。

この公務情報を扱っているのは、御存じのように役所だったり、政府だったり、何らかの行政機関です。

ですから、逆に言えば、「公務情報を市民や国民に見せることは出来ない」という状況は、かなり著しく変な話になっていることがわかります。

ですから、ある人ならば、役所等に対して、

  「公務情報を市民や国民に見せられない、理由とは何ですか?」

という質問が出ることでしょう。

もちろん、上のセリフを言う人の心中には、「役所や政府や行政機関が、多くの人々に見せられないものとは、何なのか? そこに不正が寝ていないか?」という、更なる疑問が湧いていることでしょう。

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ですから、民主主義システムの立場からでは、「色々な公務情報を隠蔽せず、開かれた政治・行政とか透明性のある政治・行政を目指しましょう」と、当然なるのです。

また、当然、ほんの一部の人間達に、政治システムという巨大組織を運営させず、上からの理由によって、それらの巨大組織である、役所とか、何らかの行政機関とか、政府の不正を起こさせないようにも、「開かれた政治・行政とか透明性のある政治・行政を目指しましょう」となっているわけです。

なので、逆を考えれば、それだけ、行政機関の方から、黒塗りの文書が、出されるようになると、「世の中が民主主義政治から離れて、独裁制や貴族政に逆戻りしようとしている」ということがわかるでしょう。

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「役得、役得、役得」という言葉があります。
これは良い意味では使用されません。
「役得」の言葉の意味を書くと、「自分の仕事の権利を使って、自分が得する方向に持っていく」というのが、その言葉の主旨だからです。

民主主義政治の日本で、良く流通しているルールブックがあります。
そのルールブックの著者とは、そのルールブックの前後をよく見ると、主語が「日本人全員」とありますから、つまり、私自身も、そのルールブックを書いた本人であると受け止められるので、「誰それの、何という文書からの引用です」という、引用時の決まり文句を使わないで良いとも考えられますが、そのルールブックには、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とされています。

つまり、「世の公務員というのは、自分一人に益があるような業務を行ってはならない」ことがわかります。

言い換えると、「世の公務員というのは、何らかの不正を行って、自分一人に益が入るようなことをしてはならない」というわけです。

ですから、この「役得」というのは、公務員には、あってはならない単語となるでしょう。

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当然ながら、以前、「秘密保護法」というのが制定されましたが、これなども、制定前から、激しく世間で言われていたように、上の流れからもわかるように、民主主義政治の根幹の一つである「開かれた政治・行政」あるいは「透明性のある政治・行政」からは、著しく、離れたものであるとわかるでしょう。

なので、世の公務員の人で、「私は多くの市民や、多くの国民に知られてはならない公務情報を持っている」という人ならば、それは最初から、そのような仕事には就かない方が賢明だと言えるでしょう。

また、民主主義政治の根幹から考えれば、「情報公開条例というものを制定する必要がある」となった時点で、「民主主義政治そのものが、既に差し迫った状態にあるのだ」と、人は気付くことでしょう。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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三千百:私達の本来の政治システムである「直接民主制」について
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2017/03/post-6474.html

三千二百:私の見かけたニュース_No.105
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2017/12/_no105-1504.html
(以下、『朝日新聞』、2017/11/27記事、4面より抜粋引用)
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●360°民意 直接住民からくみ取る

360_3

地方議員 なり手不足

地方議会は、町村議員のなり手が不足するなど、地盤沈下が進む。
議会に代わって、住民から直接、民意をくみ取ろうと模索する動きが出てきた。

ネットが議場 町民全員会議

人口約1万2千人の栃木県塩谷町。
インターネットを使って住民の意見を集約しようという試みが続いている。(、、、以下、省略)
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(引用終わり)


                                       坂本 誠

2018年5月 1日 (火)

三千二百四十八: 宇宙人誘拐説を考えて

こんばんわ。

時々、テレビのゴールデン・タイムでのスペシャル番組や、ネット上の、あるグループの間で、「宇宙人が地球人を誘拐しているかもしれない」というタイトルに沿った、報告や議論や感想等をまとめた番組が流されたり、HPが掲載される時があります。

これについて、私が感じる機会がありましたことを書いてみたいと思います。

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それらの番組やHPが伝えるところでは、「UFO、つまり、宇宙人の乗り物らしい物体が現れて、そこから、宇宙人のような存在が現れたりして、地上の人を誘拐しているらしい」と言っています。

以外にも、この宇宙人誘拐説が多く流れているのに気が付きます。
それらのものの中では、確かに、強制的に、宇宙人が地球人を誘拐しているかのようなものもあるようです。

ちょっと、息抜き程度に表現するならば、アニメ『うる星やつら』で出て来た、宇宙人ラムちゃんのUFOが、何かの科学的な光線を発して、諸星あたるを吸い上げているような光景を、私達は思い出すでしょうか。

これについて、何か、違った角度から再び考えられることが出来ないでしょうか。

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というのも、私の知り続けてきた情報を総合的に判断すると、「地球というのは、これは一種の強制収容所と言えるかもしれない」ということです。

そうですね、先に、息抜きをしたので、ちょっと、ネガティブな表現も使えると思うのですが、私達の住む、地球はアウシュビッツに似た強制収容所に似ているとも言えるわけです。

誰が、強制収容所の管理者かというと、この地球を支配しようとしているカバールやイルミナティと言えるでしょう。
なぜならば、彼等は、彼等以外の全地球人を奴隷にしようとしているからです。

当然、その奴隷達を強制労働させている現場ならば、その現場を強制収容所と表現できるでしょう。

私がネット上で見かけたビデオを資料とするならば、以下の(私が気になった部分には、アンダーラインを引いたり、太字にしています)、

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『七百八十六:ディスクロージャーについて_No.46』
●元カナダ防衛大臣によるUFOエイリアン情報開示
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2014/01/_no46-ffce.html
http://www.youtube.com/watch?v=dpWPRd56D-0



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(YouTube概要より引用)
ポール・ヘリヤー:ポール・ヘリヤーはカナダ議会の最年少議員になった人物であり、ル-イ・サンローラン政権下で最も若くして閣僚となった人物である。
彼は2005年9月25日に、「UFOは飛行機が上空を飛んでいるのと同じくらい現実的なものである」と公に発表し、国際的に大きく報じられた。
この事により、彼はG8国家の閣僚レベルでUFOの存在を認める発言をした最初の人物となった。
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(上記ビデオより抜粋引用)
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今から私の関心は完全なる情報開示です。
それから・・・私の唯一の注意点ですが、おそらく95から98%の完全な情報開示になります。

それは私達が様々な種類の生命で一杯の宇宙に住んでいるという事です。
それは存在し、私達の運命を支配する同じ既得権益により秘密にされているのです。
外交問題評議会、ビルダーバーグのメンバー、三極委員会、国際銀行カルテル、石油カルテル、様々な諜報組織のメンバーおよび軍事政権の選ばれたメンバー達です。
彼等は共にアメリカのみならず、欧米世界の多くの影の政府となっているのです。
ゲームの目的は世界政府であり、秘密結社のメンバーが含まれていて、誰からも選ばれていない人物であり、誰に対しても責任を持たない人物なのです。
そしてロックフェラー氏によると、計画は上手く進んでいるのです。

何故、私達の市民権が奪われているのかこれで理解するのに役立ったでしょうか?
"私達"と言いました。
何故ならカナダも壮大な計画に含まれているからです。
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(引用終わり)
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この上記のビデオ内容から、私達の生活環境は、一つの強制収容所であるとも、みなせるでしょう。

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そして、収容所の中で、どのような形で、強制労働がなされているのかと考慮すれば、これは、私が以前から書いているように、彼等の作っている「お金」を使って、私達を無理に労働させていると気が付きます。

あっさりと書かせて頂くのですが、今現在、「労働」と言うことに関して、「働くということは、つまり、お金を得ることなのだ」と思って、労働している人が圧倒的多数ではないでしょうか。

普段、私達が心の中で感じていることでも、あっさりと語ることに、躊躇される方も多いと思いますが、さらりと書いてしまえば、私達の労働というものに対して、「私達は、お金を得るために働いている」というのが、実際のところではないでしょうか。

ですから、かなり多めの人数が予想されますが、「私達は、お金を得るために、仕方なく、今の職場で働いているのであり、実際は、今の職場で働きたくない。苦痛だ」と感じている方々も多いのではないでしょうか。

「なぜ、そのような状況が多発しているのか」というと、これも、私のブログの方に過去から書いていますが、私達の社会全体に、お金というものがバラまかれ、「お金を使ってでしか、私達の生きる道が無いからだ」と、カバールやイルミナティやイルミノイド達に、社会をセットされ続けて来たからです。

私が、頻繁に引用する文献の一つとして、

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『三千十一:現代と中世の商業事情を考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/11/post-05f9.html
司馬遼太郎『街道を行く 9 信州佐久平みち、潟のみちほか』(朝日文芸文庫)より文章と写真を引用
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明治維新後、太政官の財政基礎は、徳川幕府と同様、米穀である。

維新で太政官は徳川家の直轄領を没収したから、ほぼ六百万石から八百万石ほどの所帯であったであろう。

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維新後、太政官の内部で、米が財政の基礎をなしていることに疑問をもつむきが多かった。


欧米は、国家が来期にやるべき仕事を、その前年において予算として組んでおく。
ところが日本ではそれができない。
というのは、旧幕同様、米が貨幣の代りになっているからである。
米というのは豊凶さまざまで、来年の穫れ高の予想ができないから、従って米を基礎にしていては予算が組み上がらない。
よろしく金を基礎とすべきであり、在来、百姓に米で租税を納めさせていたものを、金で納めさせるべきである

明治五年、三十歳足らずで地租改正局長になった陸奥宗光が、その職につく前、大意右のようなことを建白している(※筆者注:この私のエッセイ内では「右」ではなく、「上」となります)。
武士の俸給が米で支払われることに馴れていたひとびとにとっては、この程度の建白でも、驚天動地のことであったであろう。

が、金納制というのは、農民にとってたまったものではなかった。
農民の暮らしというのは、弥生式稲作が入って以来、商品経済とはあまりかかわりなくつづいてきて、現金要らずの自給自足のままやってきている。

『米もまた商品であり、農民は商品生産者である』というヨーロッパ風の考えを持ちこまれても、現実の農民は、上代以来、現金の顔などほとんど見ることなく暮らしてきたし、たいていの自作農は、米を金に換えうる力などもっていなかった。

どうすれば自作農たちが金納しうるかということについては、政府にその思想も施策も指導能力もなにもなく、ただ明治六年七月に「地租改正条例」がいきなりといっていい印象で施行されただけである。

これが高率であったこと、各地の実情にそぐわなかったことなどもふくめて、明治初年、各地に大規模な農民一揆が頻発するのだが、木崎村は、このときには一揆を起こしていない。
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(引用終わり)
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このように、世界中の国々をお金のみで充満させれば、その内部の人々は、「この世で生きていくためには、お金が、絶対に必要だ」という、強い思い込みを抱けば、お金を作っているカバールやイルミナティの側からすれば、あなたを思いのままに操れることが出来るのです。

例えば、カバールやイルミナティの側から、イルミノイド達に対して、増税を指示したり、あるいは、中央銀行の利上げ・利下げを行えば、世の多くのお金を操作できるので、その行為は、つまり、多くの人々の労働環境を左右させることになるのです。

あるいは、カバールやイルミナティ達が、人為的に、意図的に、株の大暴落等も起こせば、同様のことが起きます。
暴落の起こし方の一つとしては、以下のようなものでしょう。

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『七十六:News_No.238』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2013/06/news_no238-04de.html
(以下、『朝日新聞』朝刊、2013/6/15記事。6ページ目の経済欄に掲載の記事を引用します。)
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●5・23暴落「すべて想定通りだった」 米ヘッジファンド暗躍

日経平均株価の終値が13、14の両日に1万2千円台になり、日本銀行が4月に大規模緩和を始める前の水準に戻った。
一時は1万5600円を超えたが、5月23日に1143円暴落し、下落に転じた。
背後にいたのは、米国のヘッジファンドだった。

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米西海岸に拠点を置くヘッジファンドの首脳は実は、23日の1週間も前から大規模売りの準備に入っていた。
「日本株は急激に上がりすぎだ。逆回転があってもおかしくない」
社内のチームを呼び集め「日本株の急落に備えろ。勝負は数日以内」と指示。
割安だった時期から買ってきた大量の日本企業株式を売る計画をたてた。
下落の兆しを察知したら、売り始める権限を現場に与えた。

ファンドの重要顧客には「もう、日本株の投資はタイミングが遅い。あとは下落するだけ」と連絡した。
周到な根回しだった。

日本時間5月23日(西海岸時間の前日夕)。
日本の株式市場が大きな下落に転じた。
準備が整っていた社内には驚きはなかったという。
日経平均が映し出されたモニターをみながら、事前に打ち合わせた通り持ち株を粛々と売っていった。

■主戦場は日本

東京市場は大荒れになり、日経平均株価の下落幅は1千円を超えた。
しかし、このヘッジファンドの西海岸のオフィスは平穏そのものだったという。
首脳が混乱を避けるため、「電話は緊急時のみ。それ以外はメールなどで済ませろ」と指示していたからだ。
最後まで社内では電話が鳴らなかった。
首脳はこう語る。
「すべて想定通りだった。今の日本は投資には最高の場所。ヘッジファンドの主戦場だ。」

首脳は、日本株投資を10年以上続けていた。
日本でのマグロの消費量から、百貨店・三越の高級腕時計の売れ行きまで、日頃から細かくチェックしているという。
その中で、上げ幅を拡大していた東京株式市場は、実体経済との隔たりが限界にきている、とみた。

■手口明かさず

いくら儲けたのか、具体的にどの企業の株を、どんな手口で売ったのか---は明かさなかった。
ただ、日本株の上下で今後も儲けるつもりだという。
「数ヶ月たてば、日経平均は再び1万6、7000円をつけるだろう。それを見越して、割安な株式は買っている。また利益が得られると思う」

他のヘッジファンドも日本に注目している。
別の米ヘッジファンド幹部のアダム・グロスマン氏は「国の政治や経済の政策が変わるとき、株式や債券の市場は、振れ幅が大きくなりやすい。まさに日本はそれが起きた」。

米調査会社によると、米国を中心に世界のヘッジファンド業界の運用資産は、3月末時点で約2兆3700億ドル(約240兆円)。
1年前より1割以上増え、過去最高を更新した。
この巨額のお金はいま、日本の株式市場に流れこみ、海外投資家の買い越し額は約10兆円にふくらんだ。
そのお金がいま売りに転じて、相場を下落させている。

一方で、あるヘッジファンド幹部は「かなり著名なヘッジファンドが、日本株をさらに大量に売ろうとしていると聞いた。動きが気になる」。
ヘッジファンドどうしの綱引きは、日本株の乱高下を継続させるおそれもある。
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(引用終わり)
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ここまで、題意に沿って、「私達の住む星、地球は一つの収容所とみなせる」と言うために、資料を交えながら、書きました。

ここからは本題に返りましょう。

上記のような地球の状態だと、地球の外に待機していると思われる、宇宙人の方々ならば、次のように考えるのではないでしょうか。

  「数多くの地球人が、カバールやイルミナティ達によって、苦痛の檻の中に収容されている。私達(宇宙人)は、ぜひ、数多くの地球人を救済したい」

という願いから、地球人に対して、救済の手を差し伸べているのではないでしょうか。

その、「救済の手」というのが、冒頭に書いたように、地球人の側からは「誘拐」のように見えるけれど、それは、より広い視点から見れば、収容所惑星、地球からの「解放」ということになってはいないでしょうか。

私が上に書いた情報を、吸い上げられた宇宙船の中で、宇宙人から伝えられたら、宇宙船に吸い上げられた人は、今までの認識と常識がくつがえり、「宇宙人が私を救ってくれたのだ」とならないでしょうか。

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実際、カバールやイルミナティ達の仕打ちに、疲れている人々の、その数は多いと予想します。

ですから、色々な、世のしがらみが無くなっている人々ならば、宇宙人からの救済の手を願う人々も、後に出てくるのではないでしょうか。

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この段落では、「一般に、『宇宙人の地球人誘拐』と言われている現象を、別の角度から考えられないか」という視点で書いてみました。


                                       坂本 誠

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