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2018年12月13日 (木)

三千三百十三:『小さな疑問_No.8』の続き

こんばんわ。

三千三百十二:小さな疑問_No.8』の続きとなりました。

前回の続き記事ですから、冒頭に、前回の疑問を抱くことになった経緯を書いておきます。

「なぜ順天堂大学が入試不正を行ったのか」という理由が報道されていました。
引用資料中で、私が気になった部分には、アンダーラインを引いたり、太字にさせてもらっています。

(以下、『朝日新聞デジタル』、2018/12/11(火)記事より引用)
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●「女子はコミュ力高い」根拠ある?性差重視の順大に批判
https://www.asahi.com/articles/ASLDC4FCWLDCUTIL01N.html?iref=comtop_favorite_02

「女子の方がコミュニケーション能力が高く、男子を救う必要がある」。
医学部入試で女子に不利な扱いをしたことについて、順天堂大がした説明に、批判が起きている。
そもそも「女子の方がコミュニケーション能力は高い」という説に、根拠はあるのか。

順大入試、女子を一律に減点「コミュ力が高いため補正」
「5人なら合格させてくれても」再び不合格の浪人生

「18歳の時は女性が高くても、20歳で一緒なら、数年後に高くなる男子学生を救うため」「客観的データに基づいており、差異を補正するものと考えていた」。
10日、順天堂大で開かれた記者会見で、新井一学長と代田浩之医学部長は女子受験生を不利に扱った理由をこう語った。

同大の入試は主に、1次で筆記、2次で小論文や面接などが課され、その合算で合否を判定する。
少なくとも2008年度から、女子の2次試験(満点は5・40~5・65点)の合格ラインを男子より0・5点高く設定していた。
第三者委員会の報告書によると、医学部の多数の教職員が男女間の発達傾向の差を理由に「面接評価の補正を行う必要がある」と答えていたためだという。
その旨の医学的検証を記載した資料として、米大学教授の1991年の論文を第三者委に提出した。

実際、この論文にはそうした記載はあるのか。

朝日新聞が論文を確認したところ、面接時のコミュニケーション能力について論じた部分は見当たらなかった。
第三者委員会は「面接試験では受験者個人の資質や特性に伴う差異こそが性差よりも重視されるべきだ。性別を理由とした合格基準の相違には合理性がない」と非難。
新井学長は、「当時は妥当と判断したが、今後はなくす」と謝罪した。

過去に2度、同大を受験した筑…
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(引用終わり)

前回の疑問が生じた後でも、更なる疑問が湧きました。

「10代後半か20代前半ぐらいの女子学生のコミュ能力が高い」と当大学で、断定されていたことがわかります。
そして、その断定した理由としては、その手の研究の結果として、「客観的データに基づいており」と大学側が説明しています。

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前回の記事で出した疑問は3つありましたので、続きの疑問となりますから、4番目の項目として疑問点を書いていきます。

■④:客観的データはどこにあるのか

「10代後半か20代前半ぐらいの女子学生のコミュ能力が高い」と判断できる独自研究を、当大学が実行していたことがわかります。
あるいは、どこかの機関が、「10代後半か20代前半ぐらいの女子学生のコミュ能力は同年代の男子学生のそれよりも高い」と正確に判断・断定できる、論文や文献を使用して、過去、当大学が、その判断を実行していたことがわかります。
そして、その独自研究の調査・研究から得られたデータや文献は、どこにあるのでしょうか?
しかも、大学側の説明として「20歳で一緒なら、数年後に高くなる男子学生」とあります。
これだと、10代後半か20代前半ぐらいならば、男子学生と比較して、女子学生のコミュ能力が高いのですが、数年後には、男子学生のコミュ能力の方が高くなるのでしょう。
それを、「客観的データに基づいており」と大学側が説明できる程なのですが、それほど正確な判断ができる正確なデータは、どこにあるのでしょうか。

■⑤:この調査・研究は妥当か

大学というのは、世の人に対して、それなりの知識や学問を提供する機関でもあります。
しかし、大学というのは、もう一つ重要な機関を兼ねています。
それは、何らかの世の事象に対しての研究・調査機関の役割です。
そして、上記の新聞記事でわかったことですが、当大学では、「10代後半か20代前半ぐらいの女子学生のコミュ能力が高いかどうかを調査・研究したい」という願望の下に、その調査・研究を実施していたと言えるでしょう。
大学の行う調査・研究というのは、広くあまねく世の人々に貢献するために実行されるものです。
ですから、上記の新聞記事で初めてわかったのですが、これだと「秘密研究」を実行していたと世の人々に理解されるでしょう。
大学の調査・研究は公(おおやけ)のものとなるのですから、「秘密研究」というものは認められないものです。
ですから、「秘密研究を実行していると問題ではないだろうか?」と世の人々は疑問を抱くと思います。

■⑥:この調査・研究の意義は妥当か(その1)

何歩か譲って、この手の研究、つまり「10代後半か20代前半ぐらいの女子学生のコミュ能力は同年代の男子学生のそれよりも高いかどうか」の研究が実施が当大学内で認められていたとしましょう。
すると、この調査・研究を開始する前に、その調査・研究の意義を判断する会議などが、当人達の間で話し合われる筈です。
「この調査・研究の意義が、過去、学内で認められたのだろうか」という疑問が世の人々の間で出ることでしょう。
実際に、大学側の説明によると、上記新聞記事内の終わりの方に書かれていますが、「新井学長は、『当時は妥当と判断した」と断定できる程の調査・研究結果が、、、
世の人々としては、開いた口がふさがらない人も出てくるかもしれませんが、「このような調査・研究の意義を認めて良いのだろうか?」という疑問が出ることでしょう。

■⑦:この調査・研究の意義は妥当か(その2)

また、このような学術機関に対しては国とか地方自治体から助成金が交付されることもあります。
もちろん、そのような助成金が交付されるには、幾つかの条件をクリアしないといけないのですが、例えば、「何々の調査・研究結果が世の多くの人々に対して利益の高いものであったため、助成金を交付する」とか、例えば、「これそれ大学が、これから実施・実行する予定の調査・研究には、非常に意義が高いものと認められるため、助成金を交付する」とか、その他にもあるかもしれません。
ですから、「秘密研究」というものには、助成金というものは与えられなくなります。
「秘密研究」ですから、その調査・研究の内容・意義が世の人にわからないため、助成金などを交付することができなくなるのです。
また、仮に、この調査・研究自体の結果が、「女子の方がコミュニケーション能力が高く、男子を救う必要がある」という結果が得られた、というに当たっては、、、
「男女差別のような行動が実行できる結果が得られるような、調査・研究に対しては、世の人々が認めるだろうか?」という疑問が、世の人々の間に生じてくるかと思います。
これだと、、、こういう学校の正門には、たいていの場合、学校名を記した看板や額縁が埋め込まれており、たいていの場合、「学校法人」という名称も打たれておるかと思うのですが、この名前を保つのも難しくなってくるぐらいではないでしょうか。

■⑧:点数調整を実行できる程の正確なデータはどこにあるのか

また、大学の説明としては、「新井学長は、『当時は妥当と判断した」と断定できる程の正確なデータや文献があった筈ですが、このような学術機関が、受験生達の点数調整を実行できるほどの、データや文献が存在していたということになります。
これがですね。
喫茶店などに訪れている人々の間での、紅茶を飲みながらの笑い話とか冗談話の時に出てくるような、10代後半の女子高生が冗談半分で笑いながら語るような「10代後半か20代前半ぐらいの女子学生のコミュ能力って、同年代の男子学生のそれよりもずっと高いのよ(笑)」みたいなジョーク話だと問題は無いわけです。
しかし、今、この記事で話題となっている上記新聞記事に出ている話題は、これは、受験生達の大学受験という、笑い話やジョーク話ではありません。
受験生達の大学受験という真剣な場を取り扱う際の話題です。
ですから、大学受験の際に、女子学生と男子学生の間で、点数調整を実行できる程の、参考データとして、10代後半の女子高生が冗談半分で笑いながら語るような「10代後半か20代前半ぐらいの女子学生のコミュ能力って、同年代の男子学生のそれよりもずっと高いのよ(笑)」という、参考データを元に、大学側が、大学の説明として、「新井学長は、『当時は妥当と判断した」と断定していた、とあるならば、世の人々としては、「これは大きな疑問とならないでしょうか?」という疑問が湧くと思います。

■⑨:もしこれまでの説明が全てひっくり返っても

仮に、「大学の説明としては、受験の際に受験生達に対する点数調整を実行できる程の正確なデータや正確な文献を使用し、『新井学長は、「当時は妥当と判断した』と断定していた、という根拠を築ける程の、全てのデータは存在していなかった」、と全ての話を、ひっくり返して、「そのような正確な根拠を築ける程の正確なデータは存在しておらず、ただ、世間一般での笑い話とか冗談話などの際に出てくる、『10代後半か20代前半ぐらいの女子学生のコミュ能力って、同年代の男子学生のそれよりもずっと高いのよ(笑)』のような笑い話や冗談話を根拠にして、大学受験の際の女子学生と男子学生の間で、点数調整を実行していました」と、もし、当大学が新たな説明するのならば、、、
これはもう、、、これだと、、、こういう学校の正門には、たいていの場合、学校名を記した看板や額縁が埋め込まれており、、、(、、、以下、同上)

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前回に続いて、世の人々が疑問を生じるであろうかと思われる幾つかの疑問を追加しておきました。


                                       坂本 誠

2018年12月12日 (水)

三千三百十二:小さな疑問_No.8

こんばんわ。

『三千三百九:小さな疑問_No.7』の続きです。

私達の社会では、数多くのニュースが流れています。

先日の順天堂大学の入試不正問題の話題を聞いて疑問を抱く機会がありました。

「なぜ順天堂大学が入試不正を行ったのか」という理由が報道されていました。
以下に引用する記事が、その報道ですね。

引用資料中で、私が気になった部分には、アンダーラインを引いたり、太字にさせてもらっています。

(以下、『朝日新聞デジタル』、2018/12/11(火)記事より引用)
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●「女子はコミュ力高い」根拠ある?性差重視の順大に批判
https://www.asahi.com/articles/ASLDC4FCWLDCUTIL01N.html?iref=comtop_favorite_02

「女子の方がコミュニケーション能力が高く、男子を救う必要がある」。
医学部入試で女子に不利な扱いをしたことについて、順天堂大がした説明に、批判が起きている。
そもそも「女子の方がコミュニケーション能力は高い」という説に、根拠はあるのか。

順大入試、女子を一律に減点「コミュ力が高いため補正」
「5人なら合格させてくれても」再び不合格の浪人生

「18歳の時は女性が高くても、20歳で一緒なら、数年後に高くなる男子学生を救うため」「客観的データに基づいており、差異を補正するものと考えていた」。
10日、順天堂大で開かれた記者会見で、新井一学長と代田浩之医学部長は女子受験生を不利に扱った理由をこう語った。

同大の入試は主に、1次で筆記、2次で小論文や面接などが課され、その合算で合否を判定する。
少なくとも2008年度から、女子の2次試験(満点は5・40~5・65点)の合格ラインを男子より0・5点高く設定していた。
第三者委員会の報告書によると、医学部の多数の教職員が男女間の発達傾向の差を理由に「面接評価の補正を行う必要がある」と答えていたためだという。
その旨の医学的検証を記載した資料として、米大学教授の1991年の論文を第三者委に提出した。

実際、この論文にはそうした記載はあるのか。

朝日新聞が論文を確認したところ、面接時のコミュニケーション能力について論じた部分は見当たらなかった。
第三者委員会は「面接試験では受験者個人の資質や特性に伴う差異こそが性差よりも重視されるべきだ。性別を理由とした合格基準の相違には合理性がない」と非難。
新井学長は、「当時は妥当と判断したが、今後はなくす」と謝罪した。

過去に2度、同大を受験した筑…
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(引用終わり)

その点数調整を行った理由としては「女子のコミュ能力が高いので、その分、男子を救済するために、女子側の点数を下げた」という感じの説明を、大学側が説明していました。

上記の大学側の説明に、理路整然としたスジの流れを感じない人々も世に多いようです。
私も、そのように感じます。

以下の2点の疑問を感じました。

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■①:
女子のコミュ能力が高いと仮定したとして、その件をもって、どうして受験者の女子側と男子側の間で点数調整をしないといけないのでしょうか?
もう一度繰り返すのですが、仮に、その年代の女性のコミュ能力が同年齢の男性のコミュ能力よりも高いとしても、それをもって、女学生側のテストの点数を、男性側のテストの点数を下げる理由となるのでしょうか?

■②:
「■①」に現れる「女子のコミュ能力」というものですが、かの大学では、「女性の方のコミュ能力の方が高い」と断定していることが、世の人にわかります。
ということは、かの大学では、どこかの時点で、その年代の女性の会話能力を点数化したものを、同年代の男性側の会話能力と、どこかで比較し、かつ、断定的に、「女性の方のコミュ能力の方が高い」と判断した上で(それが妥当かどうかも私にはわかりませんが)、「男子学生側にハンデを付けていた」ということになります。
「この話自体も妥当かどうか」という疑問が湧きました。

■③:
「■②」に現れる、「女子のコミュ能力の高下の判断」ですが、「それを、かの大学が独断的に実施しているのだろうか」という大きめの疑問も生じますが、そのような「女子のコミュ能力の高下の判断」を大学側が行うというのならば、どのような判断基準をもって、それを行っているのでしょうか?

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上記3点の疑問を再び考えてみると、わからないことばかりです。
ですから、私や、世の他の人々も「このように理路整然さに欠けている」という点と、「行っていることに正当性を感じにくい」と感じているようです。
ですから「その大学が、世の医道の下に、深く広がっていると言われている大量の医療知識を、理路整然と教え伝えることが出来るのだろうか?」という新たな疑問を感じたりもしました。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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(引用資料中で、私が気になった部分には、アンダーラインを引いたり、太字にさせてもらっています。)

『三千三百九:小さな疑問_No.7』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/11/_no7-e607.html
(上記記事より抜粋)
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「あれほど、日産関係の情報(※注:日産前会長カルロス・ゴーン氏逮捕のこと)は公開されているのに、森友問題とか加計問題と言われている方の、情報が、ほとんど公開されないのは、なぜだろうか」
という、素朴な疑問が私の方で生じました。
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『二千三百十:小さな疑問』(2014年11月23日記事)
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2014/11/post-a1bd.html
(上記記事より抜粋)
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小さな疑問を持つ機会がありました。

つい、先ほど、NHKの『海外ネット』を見ていたら、以下のサブタイトルに沿った海外情報が流れていました。

「『イスラム国』の横暴、人身売買された少女は」

テレビを眺めていたら、イスラム国の兵士に奴隷として人身売買された少女達は、ドル札で売買されたそうです。
ここで、疑問を抱きました。

イスラム国の兵士達がどうして、人身売買のためのお金としてドル札を持っているのでしょうか?
また、人身売買にもドル札が使用されるぐらいだから、当然、イスラム国の兵士達の日常生活でドル札が使用されているのでしょう。
イスラム国の兵士達の軍資金である、そのドル札はどこから、もたらされているのでしょうか?

小さな疑問を書かせていただきました。

(以下、新ブログ『光と輝き』からのイスラム国に関する過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『二千二百三十一:News_No.526』
●ISIS(イスラム国)テロ集団の指揮官は・・・元米陸軍大将
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2014/10/news_no526-143e.html
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51940247.html
http://the-tap.blogspot.jp/2014/10/senior-commander-of-isis-is-retired-us.html

(以下、上記記事より抜粋して引用)
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_1

(↑ ポール・E・バレー氏)

ベテランズ・トゥデーのゴードン・ダフ氏によると:
ISISの指揮官は、元米陸軍大将のポール・E・バレー氏(Paul E. Vallely)であることが分かり(、、、以下、省略)
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(引用終わり)

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(引用終わり)

『二千百十:私の見かけたニュース_No.60』
●ベテランズトゥデーのインタビューで重要な情報が伝えられました。
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2014/07/_no60-ccd4.html
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51933323.html
http://beforeitsnews.com/alternative/2014/07/edward-snowden-reveals-isis-leader-abu-bakr-al-baghdadi-trained-by-israeli-mossad-video-2993768.html
http://beforeitsnews.com/alternative/2014/07/plan-to-overthrow-us-government-exposed-by-us-intel-2993594.html

(上記記事より抜粋して引用)
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Photo


7月16日付け:
最近、スノーデンが暴露した情報によると。。。
テロリストグループのISISは英・米諜報機関とイスラエルのモサドが作り上げた組織だと言っています。
英・米・イスラエルは世界中のイスラム過激派を1箇所に集めることです。

その理由は、シオニスト集団を守るためであり、そのために宗教やイスラムのスローガンを作り出したのです。
ユダヤ国家を守る唯一の方法は、国境周辺に敵国を創ることだそうです。
ISISのリーダーや指導者は話術を教わり、1年間の集中的な軍事訓練を受けました。
この情報はイランが3週間前に伝えた情報と同じです。


主要メディアやオルターナティブメディアの多くがシオニストから脅迫されており、情報が監視されている。


米当局は、9.11のテロ攻撃は核攻撃であったことを示す証拠がいくつも提出されたにもかかわらず、それを認めようとはしない。
米連邦議会も真実を知っていながら全て隠蔽している。
CNNもデータを受け取り、真実を報道しようとしたが、のちにそれを破棄してしまった。


イルミナティの13評議委員会は毎年、夏至と冬至に子供を1人ずつ殺害している。
ベテランズトゥデーはこのことをビデオで暴露したが、アレックス・ジョーンズやグレン・ベックなどの監視員によって常に情報が検閲されている。


ISISはイスラエルの組織であるため、イスラエルの敵にのみ攻撃している。
ガザの戦争では、イスラエルの諜報機関が、3人の10代の少年を拉致し殺害した。
そのうちの1人は逃げだし警察に通報したが、警察は全てを隠蔽した。
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(引用終わり)


                                       坂本 誠

2018年11月29日 (木)

三千三百九:小さな疑問_No.7

こんばんわ。

私の方で小さな疑問を生じる機会がありました。

現在、日産の元会長カルロス・ゴーン氏の逮捕について、毎日のように、新聞記事やニュース報道されているのを、多くの人々は見ていることと思います。
なぜならば、毎日のように、特捜本部と言われる検察局からの情報が公開されて、その公開された情報を入手したマスメディア関係の方々が、メディアで報道するからです。

自然と言えば自然な話ですが、このような状態を見て、私が小さな疑問を感じる機会が出来ました。

というのも、日産の元会長カルロス・ゴーン氏関係の情報は大量に公開されているのに、森友問題とか加計(かけ)問題とか言われている事件の方は、ほとんど情報公開がなされていないのに、疑問を感じたのです。

「あれほど、日産関係の情報は公開されているのに、森友問題とか加計問題と言われている方の、情報が、ほとんど公開されないのは、なぜだろうか」
という、素朴な疑問が私の方で生じました。

メモ程度に、書き残しておきたいと思います。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
***************************************
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(引用資料中で、私が気になった部分には、アンダーラインを引いたり、太字にさせてもらっています。)

二千三百十:小さな疑問』(2014年11月23日記事)
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2014/11/post-a1bd.html
(上記記事より抜粋)
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小さな疑問を持つ機会がありました。

つい、先ほど、NHKの『海外ネット』を見ていたら、以下のサブタイトルに沿った海外情報が流れていました。

「『イスラム国』の横暴、人身売買された少女は」

テレビを眺めていたら、イスラム国の兵士に奴隷として人身売買された少女達は、ドル札で売買されたそうです。
ここで、疑問を抱きました。

イスラム国の兵士達がどうして、人身売買のためのお金としてドル札を持っているのでしょうか?
また、人身売買にもドル札が使用されるぐらいだから、当然、イスラム国の兵士達の日常生活でドル札が使用されているのでしょう。
イスラム国の兵士達の軍資金である、そのドル札はどこから、もたらされているのでしょうか?

小さな疑問を書かせていただきました。

(以下、新ブログ『光と輝き』からのイスラム国に関する過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『二千二百三十一:News_No.526』
●ISIS(イスラム国)テロ集団の指揮官は・・・元米陸軍大将
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2014/10/news_no526-143e.html
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51940247.html
http://the-tap.blogspot.jp/2014/10/senior-commander-of-isis-is-retired-us.html

(以下、上記記事より抜粋して引用)
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_1

(↑ ポール・E・バレー氏)

ベテランズ・トゥデーのゴードン・ダフ氏によると:
ISISの指揮官は、元米陸軍大将のポール・E・バレー氏(Paul E. Vallely)であることが分かり(、、、以下、省略)
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(引用終わり)

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(引用終わり)

『二千百十:私の見かけたニュース_No.60』
●ベテランズトゥデーのインタビューで重要な情報が伝えられました。
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2014/07/_no60-ccd4.html
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51933323.html
http://beforeitsnews.com/alternative/2014/07/edward-snowden-reveals-isis-leader-abu-bakr-al-baghdadi-trained-by-israeli-mossad-video-2993768.html
http://beforeitsnews.com/alternative/2014/07/plan-to-overthrow-us-government-exposed-by-us-intel-2993594.html

(上記記事より抜粋して引用)
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Photo_2


7月16日付け:
最近、スノーデンが暴露した情報によると。。。
テロリストグループのISISは英・米諜報機関とイスラエルのモサドが作り上げた組織だと言っています。
英・米・イスラエルは世界中のイスラム過激派を1箇所に集めることです。

その理由は、シオニスト集団を守るためであり、そのために宗教やイスラムのスローガンを作り出したのです。
ユダヤ国家を守る唯一の方法は、国境周辺に敵国を創ることだそうです。
ISISのリーダーや指導者は話術を教わり、1年間の集中的な軍事訓練を受けました。
この情報はイランが3週間前に伝えた情報と同じです。


主要メディアやオルターナティブメディアの多くがシオニストから脅迫されており、情報が監視されている。


米当局は、9.11のテロ攻撃は核攻撃であったことを示す証拠がいくつも提出されたにもかかわらず、それを認めようとはしない。
米連邦議会も真実を知っていながら全て隠蔽している。
CNNもデータを受け取り、真実を報道しようとしたが、のちにそれを破棄してしまった。


イルミナティの13評議委員会は毎年、夏至と冬至に子供を1人ずつ殺害している。
ベテランズトゥデーはこのことをビデオで暴露したが、アレックス・ジョーンズやグレン・ベックなどの監視員によって常に情報が検閲されている。


ISISはイスラエルの組織であるため、イスラエルの敵にのみ攻撃している。
ガザの戦争では、イスラエルの諜報機関が、3人の10代の少年を拉致し殺害した。
そのうちの1人は逃げだし警察に通報したが、警察は全てを隠蔽した。
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(引用終わり)

『二千八百七十五:小さな疑問_No.2』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/03/_no2-fa7f.html

『二千九百七十七:小さな疑問_No.3』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/08/_no3-b677.html

『二千九百八十五:小さな疑問_No.4』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/09/_no4-6df6.html

(上記記事より抜粋)
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そもそも、日本の役所の一つとして、『財務省』というものがあります。
これはれっきとした日本の役所です。

しかし、『二千九百八十三:貨幣経済システムとマトリックスを考えて』で書いたことですが、「日本銀行は国の役所とか省庁ではありません」。
日本銀行は、一つの法人あつかいです。

ですから、私達の生活を見ると、まるで、財務省と日本銀行の2系統で、日本経済のやりくりが行われているように見えるでしょう。

ですから、「2系統あったら冗長ですから、中央銀行である日本銀行の方を廃して、財務省の1系統で、日本の経済システムを行っても良いのでは?」という、意見めいた疑問を持った人も出てくるかと思います。
まあ、上記の事が私に思い浮かんだ疑問です。
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(抜粋終わり)

『二千九百八十八:小さな疑問_No.5』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/09/_no5-7f82.html

『三千二百八:小さな疑問_No.6』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/01/_no6-25cf.html


                                       坂本 誠

2018年11月17日 (土)

三千三百六:短文掲載

こんばんわ。

現在、ちょっとバタバタしていますので、ブログ更新が遅れています。
ですので、今日は、以下のような短文を掲載します。

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「差別用語を撤廃しよう」という文章を見かける時があります。

この理由としては「差別というのは世の悪だから、その差別と思われる単語を含む文章を世から撤廃しよう」というものでしょうか。

しかし、ここでちょっとおかしなことに気が付いてしまいます。

それは「差別用語を撤廃しよう」という文章自体に、「世の何らかの単語に対して、それらの単語は差別的だ」という差別的なレッテルを貼っていることでしょう。

そのような視点から見ると、冒頭に掲げた文章自体に、少しばかり奇妙なものを感じてしまいます。


                                       坂本 誠

2018年11月 2日 (金)

三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その1)

翻訳に携わる方ならば、結構知っていることだけど、例えば英語ならば、ほぼ全ての英文法を覚え、ほぼ全ての熟語や構文も記憶し、かなり多くの英単語を覚えて、翻訳作業に慣れてくると、英訳・和訳の作業は一種のコピー作業であるとわかってくる。

確かに、その言語に関する多くの単語等を記憶し、慣れるまでには手間がかかったりするのだけど、一旦、慣れてしまえば、英訳・和訳の作業が単純作業になりやすい。
だからこそ、最近では多くの翻訳ソフトが出回るようになり、かなりの精度でコンピューターが翻訳してくれるようになった。
「コンピューターが翻訳してくれる」ということは、ある意味、英訳・和訳の作業は定型業務であり、つまり、それらの作業は、ある程度、単純作業だとわかる。

また、「外国語を習得した」と言っても、その外国語を、例えば、英語ならば、その英語を英語圏の人ならば、自分の国の母国語として、何不自由なく使用していることに気が付く。

だから、長く英語やその他の外国語を学び、習得してきた人ならば、翻訳作業が単なる筆写作業のように感じられる時も出てくる。

だからと言って、それほど大量に積み上げてきた自分の労力を軽んじるべきではないと思う。

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上記のように、長く翻訳作業に携わっていると、その作業中に退屈を感じたりする時も多いと思われる。
しかし、翻訳作業に関して、「とても楽しい」と感じる瞬間が、翻訳者達の間で感じる時があると思う。

それは、名文とか名句とか称されている文章を翻訳する時である。

一般に、この名文とか名句とか称されている文章を、AI翻訳ソフトで翻訳すると、非常に、テクニックの無い翻訳文になることが多いことが知られている。

それは、なぜかと言うと、これらの名文とか名句とか称されている文章自体、その文章の発言者達自身が、推敲を重ねて、それらの文章を研ぎ澄まさせていることが多いからだ。

もっと具体的に書けば、それらの名文とか名句とか称されている文章中には、対語を上手に並べていたり、語呂合わせをしていたり、音韻を豊かに踏ませていたりするので、それらの文章に触れる読者の方が、うっとりとしてしまう効果がある。
だから、ある意味、それらの名文や名句を作成する作者は詩人と言える。

そのような名文とか名句とされている原文の方では、その言語で使用されている対語や語呂、音韻があるので、原文でそれらの文章を読めば味わい深いものを読者は感じる。

しかし、それらの文章をコンピューターの翻訳ソフトで翻訳してしまうと、その原文を一字一句字義通りに訳そうとするので、原文に見られる香り豊かな味わいを、訳された後の言語からは感じることが出来なくなる場合が多い。

つまり、それらの名文とか名句とか称されている文章は、その文章の作者がその人なりの美学の下に、それらの文章を書きおろしていることがわかる。

「美しさ」という側面を、コンピューターが理解出来ないことも明らかだけど、だからこそ、なるほど、AI翻訳ソフトがそのような文章上の美学を使ってでの翻訳をすることは出来ないことがわかる。

(『三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その2)』に続く)


 

                                       坂本 誠

三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その2)

(『三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その1)』からの続き)

だから、現在でも、何らかの言語を翻訳する際に、一般に名文とか名句とか称されている文章を翻訳者が翻訳する際には、翻訳者自身が、しっかりと考えて、それらを翻訳していることがわかる。

なぜならば、上記にも書いているように、それらの特殊な文章をAI翻訳ソフトが翻訳すれば、原作者の意図とは違った文章が作成され、その文章が非常に味わいの浅いものとなってしまうからだ。

翻訳者も、そのような文章を真剣になって、自分の頭を使って、しっかりと翻訳するので、ある意味、この手の翻訳作業は単純作業では無い。

また、翻訳者が、この手の文章を、真剣になって翻訳するので、つまり、名文とか名句の翻訳となるから、この翻訳は名訳と言われることがある。

当然ながら、世の翻訳者も、この時に自らに充実したものを感じるだろう。

以下、そのような翻訳文を紹介してみたい。

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「名訳」と言っても、ある翻訳文を人が読んで、それを名訳と感じるかどうかは、その人次第である。

だから、本来、「名訳」というものは存在しないかもしれないし、気が付いてみれば、私達は無数の名訳に取り囲まれて生活しているかもしれない。

(以下、Wikipediaより引用)
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●ハムレット
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88

この台詞は有名ではあるが、訳すのが非常に困難だとされている。「To be or not to be, that is the question.」という文は、この劇全体からすれば、「(復讐を)すべきかすべきでないか」というようにもとれる。しかし、近年の訳では「生きるべきか死ぬべきか」という訳が多い。初期の日本語訳の代表的なものには、坪内逍遥の「世にある、世にあらぬ、それが疑問ぢゃ」(1926年)などがある[1]。

最終更新 2018年10月24日 (水) 08:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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(引用終わり)

有名な一文である。

  To be or not to be, that is the question.

確かに、現在での邦訳では上記文を「生きるべきか死ぬべきか。それが問題だ」と訳すことが多いようである。

この翻訳文を知ったのは、中学生の時の英語の時間だっただろうか。

上記の資料中では、誰が上記原文を、そのように訳したかは載っていなかった。

ただ、普通、「be」と言う動詞は、「~である」とか「~に存在する」という意味で主に使用される。
だから、上記原文中の「be」と言う動詞を「生きる」という意味で訳するのは、珍しいと思われる。

おそらく原文中の上記文の前後も流れも捉えて、「生きるべきか死ぬべきか」と日本語への翻訳者は翻訳したかと思われる。
このような翻訳自体も、とても、AI翻訳ソフトでは表現できない部分である。

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あるいは、多くの人も聞いた事のあるセリフだと思うが、

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 人民の、人民による、人民のための政治を行う。
---------------------------------

というセリフがある。

このセリフ自体も著作権切れであるから、人類共有の財産であり、引用する際に必要な「誰がその言葉を語ったか」を記載する必要は本来無い。
しかし、あえて、「これは有名な人の語ったセリフです」と書いておけば、知らない人ならば、ネット検索したりすることによって、「誰が語ったか」を知ることになるだろう。

また、そのようにして、自分で調査することにより、より味わい深く、その言葉の意味や、その言葉の語られた背景や、その言葉を語った人の真意を追求していけるかもしれない。
だから、あえて、そのセリフを語った人の名前をここでは記載しない。

このような名文も、以下のように訳せると思う。
私が訳したのだけど、英語原文とは違っているかもしれないし、似通った翻訳文を案出できるだろう。

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 People's , by people , for people , we must execute the politics .
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(『三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その3)』に続く)


 

                                       坂本 誠

三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その3)

(『三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その2)』からの続き)

要は、翻訳に携わる人は、時々、名言や名句とされているものを翻訳した方が良いと思う。

単純作業でもないし、頭の体操にもなるし、本当の意味で、「今、私は翻訳している」という実感を得られると思う。

先日の私の記事『三千三百三:四国の思い出_その三(独白) 』中の『過去記事、関連記事、及び、参考文献』中に、出しておいた過去記事の中で、

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『三千三十三:『333 ノ テッペン カラ トビウツレ』を思い出しながら』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/12/333-0e22-1.html
(以下の写真は、『わたしは真悟』第3巻「空の階段」と『わたしは真悟』第4巻「光ふりて」から)

Pc080179

Pc080176

Pc080174

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  奇跡は誰にでも一度は起きる。
  だが誰も起きたことには気づかない

                『わたしは真悟』(楳図かずお 作)より引用

  Everybody has had a miracle once .
  But , nobody has realized the miracle at all .

                 quotation from "MY NAME IS SHINGO ."
                   Author:Umezu Kazuo
                   
      (日本語原文の英語翻訳者は筆者である坂本誠)
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の翻訳文を出しておいた。

現在でもご記憶している方々も多いと思うが、小学館の『ビッグコミックスピリッツ』に同作が連載されている時、同作の始まりを示す扉絵には、毎回、「奇跡は誰にでも一度は起きる。だが誰も起きたことには気づかない」という文章が、必ず彫り込まれていた。

さすがに、単行本化されたコミックスには、その文章は、毎回の扉絵には彫られていなかったものの、各巻の最初の扉絵のみに、そのセリフが刻まれていた。

私は、いや、私ならぬ、読者の方々でも、このセリフを読んで、「これは名文ではないのか?」と感じる人もいるだろう。

もっとも、名文というものも、ある人にとっては名文では無く、ある人にとっては名文では無くなる。
だから、世に名文というもの自体も存在しないのかもしれない。

だから、私としては、「これは良い文章だ」と感じ、何か翻訳してみたくなったので、もちろん、翻訳ソフト無しで、自分の頭のみを使って翻訳した。

上に書いたように、「世には名文というものは存在しない」とも言えるので、当然ながら、世に言う名訳というものも存在しないとも言える。

ただ、翻訳者にとっては、「翻訳したいものを翻訳し、また、その文章を翻訳したことによって何かしらの充実感を得た」というだけで良いとも言える。

この日本語原文を翻訳ソフトにかけても、あまり歯切れの良くない英語文として翻訳されてしまうと思う。

このような文章を私なりに翻訳する際に注意していることとしては、上に書いたように、対語、語呂、音韻を非常に考慮して私は翻訳している。
ただ、この翻訳文は、原文自体が私の気に入っていた文章であり、納得のいけたように翻訳出来たので嬉しかった。

(『三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その4)』に続く)


 

                                       坂本 誠

三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その4)

(『三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その3)』からの続き)

私事が絡むのだけど、最近、私の何十年か前に四国に居住したことに関する紀行文を書いている。

英語だけでは無く、幾つかのことを学ぶために、四国に行った。
むしろ、英語は補助的に学ぶものであった。

しかし、当時、私の英語の先生となってくれた方々は、よく私を褒めてくださった。
その理由と言うのも、私の翻訳文、特に英作文による日本語からの英語への翻訳に関して、非常に、私はお褒めを頂けたのだ。
アメリカから日本にやって来て、その学校で英語を教えている、アメリカ人の先生が私に言うことには、「おまえの英作文を読むのは、何かの英語の詩作文を読んでいるかのようだ」というものだった。

何十年かたった今でも、明るい記憶の一つとして私の胸中に残されている。

私は既に、高校時代から詩作をしていたので、英作文にもそのような影響がにじみ出ていたのかもしれない。

また、四国でのそのような、英語の先生達と出会う前に、既に出会っていた英語の先生達もいた。
ある英語の先生は、非常に英語が好きで、英語圏の人々と会話を交わすのが好きだった。
しかし、別の英語の先生は、試験のテストの点数を重視する先生だった。

前者の先生から学ぶことは多かった。
後者の先生から学ぶことは少なかった。

というのも、後者の先生の理屈だと、特に英語が好きでないことがわかる。
何らかの試験の点数さえ良ければ良いので、彼が専門とするのは、特に英語では無く、他の教科でも良いことに気が付くからだ。
だから、後者の先生の英作文は堅い感じのものが多かった。

前者の先生だと、英語が好きであり、日本の中にいても、外国人を見かければ、英語で話しかけるほどの英語好きだった。
つまり、前者の先生は、元々国際交流が好きなので、それに準じて英語が好きなのだ。
だから、英会話自体も好きであり、彼の口から出る英作文は非常に明解でわかりやすく、親しみの深い英文を語っていた。

しかし、後者の側の先生だと、試験のテストの点数重視だから、やたらと教科書でも見られるような、堅い構文を使用したものが多かった。
というのも、「教科書中によく見受けられる英語構文を多数使用していれば、採点者側が、その英作文に与えるであろう点数も、きっと高いだろう」というのが、彼の持論だった。

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また、ここからわかるのだけど、前者の先生が後者の先生の英作文を添削すると、かなりの量の赤ペンが入っていて点数が低い英作文となったと思う。
しかし、これとは逆に、後者の先生が前者の先生の英作文を添削すると、これまた同様に、かなりの量の赤ペンが入っていて点数が低い英作文となったと思う。

つまり、人柄や人格によって、私達も口から流れ出る文章にも堅い感じの文章を語ったり、あるいは、流麗な文章を語ったり、あるいは、俗語交じりで、屈託無く友人達と会話する時のような文章スタイルが幾つも、存在していることがわかる(その他、普通に私達が日本で生活していても、その場その時に応じて、かなりの量の、それぞれに違った文章スタイルを語っていることに誰でも気が付くだろう)。

この時、私は理解したのだが、要するに、学校などで習っている英語は、あまり意味の無いことに気が付いた。
なんとならば、上記で説明したような、2人のスタイルの違った英語の先生が、

  「ある一つの英作文があって、その英作文に与える点数が、2人の先生によって、それぞれ違っている」
  
と言うことに気が付いたのならば、学校教育で見られる「点数付けは無意味だ」とわかるからだ。

結局、日本の学校システムの中で「英語」という科目があるけれど、これに点数付けをすることは出来ないことがわかる。

なんとならば、例えば、英語圏の国々に行けば、その国の人々は何気なく英語を使っているけれど、日本内の英語の教官が、その英語圏の国に行って、その英語を語っているネイティブ・スピーカーと呼ばれる人々に対して、点数付けを出来ないのと同じだからだ。

(『三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その5)』に続く)


 

                                       坂本 誠

三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その5)

(『三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その4)』からの続き)

話が長くなっているのだけれど、以上のような理由から、また、翻訳の面白さを語るという初心に帰って、以下の文章を書きたい。

最近では、日本の漫画文化が世界を席巻するようになった。
そして、実際、それらの漫画を読んでも、大変味わい深いものもある。
そしてまた、多少なりとも、「翻訳してみたい」と思わされる程の決めセリフも、多々、見受けられるようになった。

そこで、以下の文章を出してみたい。

寺沢武一原作の有名な漫画として、週刊誌「少年ジャンプ」に掲載されていた『SPACE ADVENTURE コブラ』というものがある(以下に掲載した写真と文章は、同漫画からの引用)。

知らない方のために、ちょっとだけあらすじを紹介しておきたい。

Pb020178


未来の宇宙社会の中で、宇宙海賊コブラは不死身の男として、宇宙の中を冒険している。

この宇宙海賊コブラの中で『黒竜王』というシリーズがある。
ある日、コブラは、ジゴルと言う名の宇宙船である巨大捕鯨船に呑みこまれることになる。
この巨大捕鯨船ジゴルの内部には、そのジゴルに呑みこまれた多くの宇宙人達によって、一つの世界が形成されていた。
そして、その世界、スタマックスには、多くの宇宙人達を恐怖で統治する支配者がいた。
その支配者が『黒竜王』であり、コブラはジゴルの外部へと脱出すべく、『黒竜王』に会いに行こうとする。

コブラは、スタマックスの都エルラソに到着し、そこで、『黒竜王』の手下であったヨーコ・オブライエンを味方につけ、『黒竜王』の神殿へと向かう。
その途中、ヨーコ・オブライエンは黒竜王に恐怖を感じ始めるが、その場でコブラが彼女に語るセリフである。

Pb020181_3

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  どうした
  なにをおそれている
  
  死ぬのはたったの一度だぜ

  What ?
  What are you afraid of ?

  It's only 1 time
   that
    your death passes through you .

---------------------------------

あるいは、上記翻訳文の最後は以下のようになるだろう。

---------------------------------

  Your death takes only 1 time to pass through you .

---------------------------------

他にも、様々なパターンの英訳文が作成されると思う。

名文かどうかは、ともかく、自らの心に刻み残されている、何らかの思い出深い文章を翻訳することが、翻訳に携わる者にとっての真の喜びになると思う。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『二千七百八十一:映画、蒼き(あおき)衣の者(風の谷のナウシカ)を見て』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2015/12/post-730d.html

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    その者 蒼き衣を まといて
    金色の野に 降り立つべし。
    失われし 大地との絆(きずな)を結び、
    ついに 人々を蒼き清浄の地に導かん。

                          (映画『風の谷のナウシカ』より)

    The person in blue
      should fall down on the gold field.
    The person will bind the lost tie with our Earth,
      and will lead people to the blue and pure land , finally.

                 (quotation from "Nausicaä in the Valley of Wind")

      (日本語原文の英語翻訳者は筆者である坂本誠)
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        愛と光

    愛が光となり、光が愛となり、
    光と愛が結ばれ合い、
    羽毛のように 触れ合い、
    お互いの中で響き合う。

    光と愛が 織(お)り合わされる中、
    速くもあり 遅くもある
    一つの やわらかな音楽が流れ続ける。

    その音楽に のせて
    光と愛が
    私達の胸に やって来る。
    一組の男と女のように。

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        Love & Light

    Love becomes light, and light becomes love,
    Light & love are connecting each other,
    They are touching like feathers each other,
    They are echoing in themselves each other.

    While light & love have been weaved each other,
    One soft music is flowing
    slowly and speedy.

    Light & love are coming
    to our chests on the music.
    Like one man & one women .
    Like one couple .

        坂本 誠
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『三千三百三:四国の思い出_その三(独白) 』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/10/_-6984.html


 

                                       坂本 誠

2018年10月 8日 (月)

三千二百九十七:地球環境を美しくするための呼びかけ

こんばんわ。

時々、ボランティアで、海岸清掃をもしている私です。
よく巷でも、「海を汚さないように」と言われています。

P9130156

 

ですので、多くの人は、「海岸にゴミを放棄しなければ良いだろう」と思いがちでしょう。
現実に、海岸に放棄されているゴミの1割か、それ未満の割合のゴミは、海岸に訪れた人が放棄したゴミかもしれません。

しかし、海岸に打ち上げられているゴミの9割以上が、実は、内陸部で出されたゴミなのです。
なぜ、内陸部に出された、それらのゴミが、海岸に集まるかということをご説明します。

雨の日になると、雨によって、内陸部に放棄されたゴミが、集められ、主に河川に流されます。
そして、その河川の流れは最終的に、海に到達します。
よって、河川を通じて、内陸部のゴミが海に到達するので、海岸のゴミの9割以上が、内陸部で放棄されたゴミということになるのです。

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私が以前から不思議に思っていたことは、「雨の日の後に、海岸のゴミの量が異常に多くなる」ということでした。
その不思議をたどると、内陸部のゴミが雨によって、主に河川に流れ込み、その増水した河川のちからによって、海にまで、内陸部のゴミが流されている、ということがわかりました。

確かに、海岸にやって来て、ゴミを投棄することもいけないことです。

しかし、上にご説明したように、もし、海のゴミを増やしたくなければ、内陸部のゴミの放棄をも避けなければなりません。

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ですので、「海を綺麗にしたい」と願われる方ならば、都市部や居住区等でのゴミの投棄をも、無くすよう、呼びかけなければいけないことになります。

みなさん、どうか、都市部や居住区等でのゴミの投棄をも、なさらぬようにしてください。
御協力のほど、どうか、よろしくお願いいたします。


 

                                       坂本 誠

2018年9月22日 (土)

三千二百九十四:ルール作りを考えてみて(追伸)

こんばんわ。
今日は、二つ目の記事です。

三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.1』の追伸記事です。

前段では、「憲法とか法律とかのルールそのものが、それほど重要なのか」という疑問の下にエッセイを書いてみました。

書き終えた後で、さらに続きを考えていたのですが、前段中の記事について新たに思いついたことがありました。

P4220158

 

大日本帝国憲法でも良いし、日本国憲法でも良いのですが、それらの憲法が制定された後に、なぜかわかりませんが、国を挙げての祝賀会が開かれているのに気が付きます。

小学校の教科書だったか、中学校の教科書だったかは忘れたのですが、憲法が制定された後、「それを祝う」という視点からか、どこかの数人の日本国民が万歳三唱をしている写真が掲載されていました。

学校の教科書でなくとも、どこかのテレビの歴史番組での戦後を語ったものの中で、何人かの日本国民が万歳三唱をしているシーンを、このブログの読者の方々も見た記憶があるかと思います。

無ければ、大日本帝国憲法の制定時のものでもかまいません。

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それらの写真や、シーンを見て以下の疑問を得たのですが、

  「万歳三唱を実行している何人かの日本人は心底から、それらの憲法制定を祝っているのだろうか?」

という疑問です。

その当時の役所の役人か、その当時の新聞社の社員達から呼びかけられて、彼等は万歳三唱を実行していたように、今現在の私には感じられるのです。

P4220156


なんとならば、かなりうまい組み合わせの元に、写真が撮影されているようです。
また、白黒フィルムの8ミリ動画で、あたかも、その場に居合わせた、万歳三唱を実行している、何人かの日本人が撮影されているように感じられるのです。

ちょうど、その場に、その当時の役所の役人か、その当時の新聞社の社員達が存在していて、うまいタイミングの下で、何人かの日本人の万歳三唱が撮影されているわけです。

憲法制定の祝賀会が開かれて、その祝賀会に、何人かの日本人が呼ばれた後、その当時の役所の役人が、その、何人かの日本人に以下のように呼びかけたのではないでしょうか。

  「やれ、我が国の憲法が制定されたので、今日は、めでたい日だ。あなたがたは日本人だ。だから無条件で、この憲法制定を祝った方が良いでしょう。従って、私が、あなたがたの万歳三唱を実行している光景を撮影して、その写真や動画を末永く、後世の日本に残したい。だから、あなたがたはカメラの前で、万歳三唱を実行して頂けないでしょうか?」

のような、役人の呼びかけがあったかもしれません。

この呼びかけによって、何人かの日本人も、

  「そうか。憲法が制定されて、私達は、それが、どのように私達に恩恵をもたらすかのシステムの構成を理解できないが、とにかく、考えるよりも先に、私達は、この憲法制定を祝った方が良いのではないだろうか。目の前にいる役所の職人の勧めのように」

という感じで、深くじっくりと考えた上での同意があって、つまり、何人かの日本人の心底なる祝いと幸福の気持ちによって、憲法制定時の万歳三唱を実行したようには、私には、あまり見受けないように感じるのですが、、、

この私の疑問を解消できるような新資料が出てくれば良いな、と感じています。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.1』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/09/_no1-824d.html


                                       坂本 誠

2018年9月21日 (金)

三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.1

こんばんわ。

昨今、巷で話題を耳にする憲法とかルールの事を書いてみたいと思います。

「憲法」というのも、ルールの一種であることは言うまでもありません。
ですから、基本的には、私達の身近に見られる例を題材に挙げて考えることが出来ます。

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例えば、現在でも、小学校のホームルームの時間で、そのクラス内の決まり事を決めることがあるでしょうか。

Img7d939bd685c


その「決まり事」もルールだと言えます。

そのホームルームの時間に誰かが、「私達のクラス内だと、私がこれから述べる何々のルールが必要になるかと思います」と発言して、クラス内でのルール作成を行おうとしていると仮定しましょう。

すると、そのクラス内の小学生の間で議論が交わされるでしょう。
例えば、ある生徒ならば、

  「私達は、そんなルールを必要だと思いません

というような反論も起こるでしょう。

しかし、そのルールを作成したい生徒としては、彼(あるいは彼女)が必要だからこそ、そのルールをクラス全員に認めてもらいたいことがわかります。

そして、ホームルームの時間内で、生徒達の会議の結果、「そのようなルールが私達のクラスに必要だとは思いません」という生徒が多数となれば、そのルールは却下されることになります。

さらに、「これそれのことをルールとしたい」として議題に挙げられたので、そのルールを作成したい側の生徒としては、

  「このルール作りの会議に長時間を取るわけにはいかないだろうから、これそれまでの時間に、多数決を取りたい」

と言ってくるかもしれません。

しかし、そのようなルールを欲しない生徒の側としては、

  「私達としては、そのようなルールを必要とは思わないので、時間を区切ってまで、早々と決める必要も無いと思います。ですから、このクラス内の全ての人が納得するまで、無期限で、議論を続けても良いのではないでしょうか?

という意見も出せるか思います。

Img7d939bd687b

 

ですが、上の例をそのまま続けて、そのルールを作成したいために発案した、生徒の側からすれば、

  「ルール作りというものは非常に大事なものだから、時間を区切って(どこかの会議で見られるような強行採決のように)、私達はキチンと決めるべきなのです」

と言ってくるかもしれません。

ここで、私達は上に挙げた例え話から離れてみましょう。

そして、ここで一旦深呼吸して冷静になって、次の疑問を考えてみましょう。

  「私達はルールというものが非常に大事だと生まれた時から言われ続けてきたが、『ルールは非常に大事だ』という根拠は、どこから発生したのだろうか?

と。

(『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.2』に続く)


三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.2

(『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.1』の続き)

ここから、私達の現実に起こったことを、おさらいしてみましょう。
わかりやすく例として日本のことを挙げてみましょう。

現在の『日本国憲法』の前身である『大日本帝国憲法』は、多くの人が知るように、明治時代になって発布されました。

Img7d9392d02693


それ以前の江戸時代以前には、憲法に相当するルールが、日本の人々に適用されていませんでした。

もちろん、飛鳥時代に聖徳太子が定めた『17条の憲法』ならば、ありましたが、この飛鳥時代というのは、この原稿を書いている現在(2018年)からみて、約1500年も前の時代のものでした。
その、約1500年もの時代の間、この『17条の憲法』は、人々の間で忘れられていたので、この『17条の憲法』の効力というのは、実は、有って無きが如しのようなものでした。
だからこそ、日本の戦国時代とか、武家政権が成り立っていたわけです。

ところが、明治政府が立って以来、その政府が欧米諸国のような政治スタイルを模倣することに決めた結果、欧米諸国のようなルール作りのシステムも模倣することになりました。

『憲法』という単語の英単語は『CONSTITUTION』と言います。
この『CONSTITUTION』という英単語は、「政体、機構、憲法、国憲」とされています(研究社、『新英和中辞典 三訂版』からの引用)。

明治時代が明けて、すぐの頃は、様々な外来語を日本語に当てる作業の時代も続きました。
ですから、明治時代初頭の頃の語学者達(福沢諭吉など)は、様々に見知らぬ英単語を、日本語に置き換えていきました。

その内の一つで、「『CONSTITUTION』という英単語をどう訳すか?」という問題も発生して来たと思います。

『law』という英単語も『法律』というものに定着させたことでしょう。
しかし、この『CONSTITUTION』という英単語を理解するのは、ちょっと難しかったと思います。

なぜならば、『CONSTITUTION』という英単語を、じっくりと調べると、「多くの法律の上位の存在」だとわかります。
ですから、『CONSTITUTION』という英単語を、『法律』という日本単語に置き換えるわけにはいきません。

ですから、「法律の上に存在する決まり事」という手合のルールを意味する日本の単語を持って来ないといけません。

なので、この手合いのルールを、日本史上から丹念に探し出してみると、「日本の飛鳥時代の政治家が提唱した『17条の憲法』等が、これに相当するのではないか?」となるでしょう。

Img7d9392d026a2

 

ですから、明治時代初頭の頃の語学者達は、『CONSTITUTION』という英単語を『憲法』という単語に当てたのではないかと、私は考えています。

そして、明治時代初頭の頃には、多くの日本人に忘れられており、適用も効力もなされていなかった、『17条の憲法』ですが、都合の良いことに、明治時代初頭の頃に、

  「憲法というルールを復活させよう」

という動きに、かなり有利に利用できることがわかるでしょう。

なぜならば、かなり昔の日本の政治家が提唱したルールである『17条の憲法』ですが、さらに都合の良いことに、それを提唱した聖徳太子は皇族の一人であった事実も有利に使用できるからです。
王政復古の号令をかけた明治政府としては。

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確かに、聖徳太子は、かなり人望の厚い政治家としても知られておりますので、彼の提唱した「『17条の憲法』が悪いものだ」とは言いません。

しかし、時の明治政府の役人達とすれば、約1500年もの間、忘れられていた「憲法というルールを復活させよう」と言うのだから、当時の多くの日本人達に、かなり強い説得力のある根拠を見せる必要があります。

「『17条の憲法』が悪いものだ」とは言いませんが、約1500年もの間、忘れられていた制度を復活させるには、このような、

  「約1500年も昔の人望の厚い政治家が提唱したルールだ。かつ、彼は皇族の一人であった」

と、当時の多くの日本人に説得混じりの発言を続ければ、それなりに多くの日本人達が、当時の『大日本帝国憲法』を受け入れたかもしれません。

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実際には、この手の「ルール」というものは、冒頭に挙げた小学校の例でもわかるように、「ルールというものは、全ての人が認めるからこそ、そのルールは効力を発揮できる」と私達にわかるわけです。

なので、『大日本帝国憲法』を制定した側の明治政府の役人達から見ると、

  「日本人全員が、この大日本帝国憲法に熱烈な支持をして、かつ、認めたのだ」

と、いかにも、大声で言う必要があります。

実際には、当時の大日本帝国憲法の制定に反対していた日本人も多いかもしれません。

例えば、義務教育であるところの小学校教育が始まったのですが、それらの小学校の生徒達は、「学校なんかに行くのは嫌だ」と叫んでいた児童達もいたかもしれません。

これは、現在の小学校でも同じだとわかります。
現在の小学校の生徒達の内でも、「私達は学校なんかに行くのは嫌だ」と叫んでいる児童達がいることが知られているからです。

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しかし、明治時代の当時の為政者達からすれば、何としてでも、「この大日本帝国憲法に、全ての日本人の熱烈なまでの支持と認可あり」と声高に言う必要があるので、何としてでも、それなりのものを、大いに多くの人々に見せる必要があります。

その結果が、例えば、当時の、大日本帝国憲法の制定による、国を挙げての祝い事とかセレモニーとか、あるいは、現在の憲法記念日と同じような、祝日の制定とかになるでしょうか。

憲法記念日を祝日として制定すると、それなりの多くの日本人は、

  「あ~、今日は休日だから、有難い。だからこそ、憲法記念日は大事なものであり、更には、その奥に位置している憲法とは非常に素晴らしいものだ」

という認識が、多くの日本人の心に植え付けられると思います。

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ですから、いかにも「憲法制定は、これは国を挙げての一大イベント(祝い事)だ」とか「だからこそ、国民の休日に位置づけされるぐらいの祝い事なのだ」と、全役所を挙げて、祝い事を見せていれば、かなり多くの人々が「憲法というルールは非常に大事なものなのだ」という認識を植え付けられることになります。

Img7d939bd680e

 

また、それに合わせて、歴史の教科書とかに以下のような文章を載せるわけです。
「大日本帝国憲法が定められて、多くの日本人は幸福に思った」とか「大日本帝国憲法が定められた直後に、日本の各地で様々なイベントが行われて、多くの日本人は、それを祝った」とか。

こうしておくと、後世の日本人は、その教科書を読みますので、いかにも、その教科書を読んだ後世の日本人は「憲法というものは非常に大事なのだ」という認識を植え付けられることになります。

先に書いたことを再び書くのですが、義務教育であるところの小学校教育が始まったのですが、実際には、それらの小学校の生徒達は「学校なんかに行くのは嫌だ」と叫んでいた児童達もいたことでしょう。

こうなりますと、単に「大日本帝国憲法の制定に反対していた多くの日本人がいたのだ」となってくるでしょう。

ですから、私が思いますに、この点において、明治時代当初の為政者達の心理操作は、多くの日本人に対して、かなり成功を納めたのではないかと思います。

(『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.3』に続く)


三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.3

(『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.2』の続き)

ですから、冒頭の小学校の例で書いたように、そのルールが適用される筈の側の一人一人の人間が、「私は、そのルールを重要なものとは思いませんよ」と述べただけで、もはや、そのルールが、そのグループの中で適用されることは、ほぼ不可能なことがわかります。

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ですから、冒頭の小学校の例で挙げた「私は、このルールを作成したい」と言ってきた小学生の人が、「ルールというものは、非常に大事なものなので、これそれまでの時間までに、時間厳守で、このルール作りに対する採決を取りたい」と言って来ても、そのルールを重要なものとは思わない人が、

  「私は、そのルールを必要とは思わないので、これそれまでの時間までに、時間厳守で、そのルールを制定しなくても良いと思いますよ。それこそ、無期限に至る時間を使ってまで、全てのクラス内の生徒達の納得のいくような決定をしても良いと思います」

と言えるでしょう。

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また、私が上に書いたように、以下のような疑問を自らの胸中にある心に問い続けるのも良いかと思います。

  「そのルールは、本当に大事なものだろうか?

等です。

ひょっとしたら、あなたの周囲の人とか、『巷で権威を持っている』とされている人が、やたらめったら、あなたに以下のことを行ってきたのではないでしょうか。

  「皆さん、このルールは私達にとって非常に大事なものなのです」

という発言等です。

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私達は、ひょっとしたら、そのような人の発言に誘導されていないでしょうか。
私が上に書いた事も踏まえつつ、次のような疑問が、あなたの頭中に浮かんでこないでしょうか。

  「あなた自身(そのルールを作ろうとしている人)は、そのルール内容を必要とするかもしれないけれど、私達は、そのルールを必要とは思いません」

という疑問です。
この疑問が胸中に湧いて来たら、私が上に書いた事を踏まえつつも、そのルールの内容を自ら、御自身の手による熱心な調査と何回にもわたる熟慮によって、御自身の手による審査をすることを、私はお奨めしたくあります。

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このように、憲法というルールでさえも、別の視点から見ることが出来たと思います。
普段、私達は「憲法」というと「金科玉条のように、ひたすら、崇められるべきものである」という視点があるかもしれません。

しかし、ある別の視点から見ると「憲法そのものの存在自体が、疑問視すべきであり、あるいは、危ういものではないだろうか?」という疑問の視点を得ることが出来たと思います。

(『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.4』に続く)


三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.4

(『三千二百九十二:ルール作りを考えてみて_No.3』の続き)

話は変わりますが、誰でもが認めている暗黙のルールとでも呼ぶべきものもあります。
それは、例えば、「人を殴ってはいけない」というものでしょうか。
なぜならば、誰でもそうですが、自分の顔を殴られたら、どのような感情や苦痛が発生するかが、誰でもわかるからです。

つまり、このような手合いのルールというものは、私達の身体や基本的な構造に与えられているものだからです。
ですから、このような手合いのルールというものは、大自然や神が、あらかじめ定めたルールとも言えるようなものです。

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なぜならば、全ての人が、殴られた後、発生する感情や苦痛は同一のものなので、全ての人が納得できるのです。
「全ての人が納得できる」となると、その手の「人を殴ってはいけない」というルール自体も「全ての人が納得できる」となりますので、このような、あらかじめに、大自然や神のような存在が、定めたルールとも言えるようなものも存在する、ということもわかります。

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このように、大自然や神のような存在が、定めたルールというものは、全ての人が認めるからこそ、真のルールだと言えるでしょう。

しかし、私達の日常生活を見ていても気づくように、むやみやたらとルール作りが行われているのを見かけるでしょうが、そのルールに対して、洋の東西を問わず、時には自国の国会議事堂の前で、反対のデモ活動を行っている人々を、私達はしばしば見かけるわけです。

結局、それらのデモを行う人々からすれば、そのようなルールに反対しているわけですから、結局、「そのようなルールに反対していた人々がいた」ということだから、結局、そのルールが制定された後でも、「そのルールは無効であろう」と私達は言えるでしょう。
なんとなれば、上から書いているように、「ルールというものは、そのグループ内の全ての人が認めるからこそ、ルールとして適用・使用される」のですから。

にも関わらず、何らかのルールが制定された後、そのルールを作成したかった人が、「このルールは、全ての国民が認めているところの憲法に従って、制定された。だから、このルールは、結局は、全ての国民が一致団結して認めた、全ての国民の同意のあるルールなのだ」と、言っていることになるわけです。

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ある例え話を書いてみます。

ある米国の国民の一人が、次のように公言したと仮定しましょう。

  「私は、今後、アメリカ合衆国憲法を一切受け入れません」

と。

すると、米国内の全ての法律というのは、全て、アメリカ合衆国憲法の下に作られていますので(派生とも言います)、それを公言した、その米国の一人の国民には、全く、全てのアメリカ合衆国の法律が適用されないことになります。
彼には、米国に存在する全ての罰則が適用されませんが、それと同時に、アメリカ合衆国憲法の下に彼を保護しているところのルールをも適用されないことになります。

しかし、それにも関わらず、彼(あるいは彼女)が、上記のような公言を行ったと仮定しましょう。

すると、米国内の、ある官憲の人が、彼(あるいは彼女)の元に訪れて、少々重い表情をしながらも、低い声音で、以下のように言うかもしれません。

  「わかりました。あなたは今後、アメリカ人ではありません。しかし、現在のあなたは、国籍不明の不法滞在者となって、今現在の、あなたが私の目の前にいると言うことになります。ですので、国籍不明の不法滞在者の扱い自体が、様々な国で定められているので、それを使って、今から、私達は、あなたを保護しようと思います」

という感じで、話が進んでいくかと想定できます。

ですから、このような例え話を、あなたの頭に入れつつも、あなたの周囲の状況を、よく見まわして、様々な点において思慮深くなり、とりわけ大事な点としては、周囲の人々との調和と平和と愛の内に生活することを目指しつつも、熟慮と落ち着きがあり、調和ある行動を取ることも大事なこととなってくるのではないかと思います。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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三千百:私達の本来の政治システムである「直接民主制」について
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2017/03/post-6474.html

三千五十七:民主主義と代議士の関係を考えて
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2017/01/post-714a.html


 

                                       坂本 誠

2018年9月13日 (木)

三千二百九十一:お知らせ

こんばんわ。

現在、所用をこなしておりますので、しばらくの間、お休みさせて頂きます。

何卒、ご了承ください。



                                       坂本 誠

2018年9月 5日 (水)

三千二百八十八:私達の間のルールを考えて

こんばんわ。

今日は短いブログ記事となりました。

昨今、教育システム関係と社会システム関係の話題を続けています。

社会システムの側のルールによって、「あなた達は学校に行かねばならない」とされています。
そして、それらのルールは、「日本国民の総意に基づき」とあります。

ここに大きな問題があることに、人は気が付いてくると思います。
一緒によく考えてみましょう。

現代でも、子供達の中で、「私は勉強や学校が嫌いだから、学校に行きたくない」と主張する子供達がいるのに気が付きます。
しかし、私達の間での根本的なルールとされている、そのルールの方では、「あなた達は学校に行かねばならない」と書かれているわけです。
つまり、何らかの理由によって「学校に行きたくない」という、子供達が複数以上いるわけです。
ですから、そのルール内で定めている条文自体が、既に「日本国民の総意に基づ』いていない」という事実に人は気が付くでしょう。

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にも関わらず、そのルールが定められようとしている頃に、ある特定の人物等が、「私個人には、このような意向があり、それを、日本全ての人々に適用させたい、という意志がある」ということがあったことに気が付くでしょう。

さて、そして、そのルールを定めた際に、そのルール内に「日本国民の総意に基づき」という文面まで彫り込んでいるわけです。

別に、日本国憲法でなくても、それ以前の、大日本帝国憲法でも話は同じだとわかるでしょう。
明治時代になってすぐの日本の全ての小学生達が「『私達は学校に行かねばならない』という、総意があったわけではない」と誰でも気が付くでしょうから。

上記のような特定の人物達の意向が、彼等以外の全ての日本人に適用されるルールを作成するにあたって、「このルールは日本国民の総意に基づき」という文章まで、彫り込んでいたのだから、この事実に気が付いた人は、

  「こりゃー、大問題が寝とったぞ」

と心中でつぶやいたかと思います。

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わかりやすく書くのならば、小学校のホームルームの時間内での、そのクラス内の決まりごとを決める際の会議でしょう。

ある特定の、ガキ大将的な存在の小学生が、彼(あるいは彼女)の発案しているルール案を語り始めて、

  「このルールは、このクラス内に絶対に必要であり(正確には彼(あるいは彼女)しか欲していないのだけど)、かつ、このルールは、このクラス全員の小学生達の総意に基づいて、決定せられた」

と言っているのと同じ事ですから。

後は、そのクラスの中で、どのような騒ぎ事が起きるのか、という点に関しては、あなたがご自由に想像してください。

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最近、教育関係の話題が続いていましたので、例として教育関係の決まり事とされているものを挙げてみました。
あとは、このような視点で、私達の間で共通ルールとされている内容を詳細に、読者の方々が見ていけば、色々な事を発見できると思います。
もとより、これは日本国憲法に限らず、世界各国の憲法の中を探しても、同様のことは、かなり見つかると思います。

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今日は、短いブログ記事となりましたが、かえって、このような話題は短文で伝えた方が効果があるとも言われていますね。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『三千二百八十七:現在の教育システムと社会システムの絡みを考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/09/post-42ca.html

『三千二百八十二:現在の教育制度を考えて_その1(独白)』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/08/_-15d5.html

『三千二百七十七:私達の仕事とお金というものを考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/07/post-779b.html


                                       坂本 誠

2018年9月 3日 (月)

三千二百八十七:現在の教育システムと社会システムの絡みを考えて

こんばんわ。

三千二百八十二:現在の教育制度を考えて_その1(独白)』の続きのような記事です。
前回は、独白調で書いたのですが、今度は「です・ます調」で書いてみます。

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余談ですが、日本語には、このような文体のスタイルにも違いがあります。
その文体の違いによって、受ける雰囲気も違ってきます。
この「文体の違い」というのは、日本語独特のものではないでしょうか。
当の日本人だと、この文体の違いを趣深く味わうかもしれません。
しかし、日本語を習得中の外国人にとっては、よく日本人の聞く「なんて日本語は難しいんだ」の発言を促す原因の一つかも知れません。

これを考えていたら、長い記事となりますので、段を改めて書くかもしれません。

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本題に返ります。

8月から9月にかけての移り変わりの季節は、子供達にとって受難の季節であると、報道されていました。
子供達が夏休みの宿題を抱えて、学校に帰らないといけないからでしょうか。

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三千二百八十二:現在の教育制度を考えて_その1(独白)』でも書いたように、宿題というのは断ることが出来ます。
それより以前に、学校の先生達が生徒達に対して宿題を出す方が奇妙なことだと気が付いた人もいることでしょう。
なんとならば、『三千二百八十二:現在の教育制度を考えて_その1(独白)』でも書いたように、学校の先生達には、生徒達の放課後の時間を拘束できる権利を、当然ながら、持っていません。
ですので、生徒達の放課後の時間を拘束してしまう「宿題を与える」ということが、「してはいけないことではないのか」と気付き始めた人々もいることでしょう。

また、ここで、上の流れから新たなことに気が付いた人もいるでしょう。
というのも、現在、教壇に立っている、そのほとんどの人々が戦後生まれです。
ですので、戦前に生まれた人にも宿題を与えられた人々がいたかもしれませんが、現在、教壇に立たれている、そのほとんどの教師達も、子供時代に、学校の宿題を与えられたと思います。

ですから、現在、教壇に立たれている、そのほとんどの先生達も、「なぜ、その当時に、宿題を与えられるということを不思議に思ったり、疑問を感じなかったのか?」という、ちょっと大きめの疑問が湧いた人もいるかと思います。

この、新たな疑問について、この記事を進めていきたいと思います。

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私が思うことには、子供達が大人達から馬鹿にされていると思うのです。

例えば、子供は、生まれてから生活上の知識がありませんので、周囲の人から多くのことを学ぶことになります。
ですから、子供の頃は、学業などの吸収スピードは早いものです。

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ですが、大人達の作成した教育システムに、子供達の疑問を生じさせぬよう、やたらめったら、スピードを上げて知識を詰め込まさせているように感じます。

例えば、私が子供の頃だと、小学校と中学校の2つの教育システムで、その社会科の時間に、「日本国憲法」の骨子を学ばされたでしょうか。
現在の、教育システムだと、どうなっているかわかりませんが。

私が子供の頃の社会科の時間に習った「日本国憲法」の時間に、例えば、

  「このルール『日本国憲法』に対して、疑問に思ったり、不備があるかと思われる点について、今から自由にディスカッション(議論)してみなさい」

というような、疑問提起等を誘われることはありませんでした。
現在の教育システム下でもそうではないでしょうか。

ですから、今現在、そのルールに対して、疑問に思ったり、不備があるかと思われる点について、ディスカッションに出されるかと想定される、疑問提起なりを以下に列挙してみることにします。

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  「そのルール中には、日本の子供達に対して、義務教育を行うとあります。『義務教育』とは聞こえが良いですが、『強制教育』と言い換えることは出来ないでしょうか?」

  「そのルール中の『義務教育』の発生理由とは何でしょうか? なぜ、『義務教育』という制度が必要とされたのでしょうか?」

  「そのルールの中に『このルールは、生まれてくる全ての日本人に与えられる』とあります。しかし、そのルールに反対となり、そのルールを捨てたい時には、どうしたら良いのでしょうか? 外国に行くとなると、それなりの費用が発生するので、外国に移住せずに、そのルールを捨てたいのですが、どうしたら良いのでしょうか?」

  「そのルールがセットされたのは、私が生まれる前です。私は、そのルール設定に際して、何の意見も言っていません。ですから、私の意見が全く反映されていないことも明らかです。それなのに、なぜ、そのルールが、強制的な感じで、生まれ来る全ての日本人に対して適用されるのでしょうか?」

  「仕方なくも、そのルールが、私達の間で『共通ルール』として採用されているようです。百歩譲って、それが私達の間での『共通ルール』だと妥協して受け入れたと仮定します。その上で、私達に出され続けている宿題について考えてみました。すると、学校の先生達が私達の放課後の時間を拘束できる権利が無いことに私達は気が付きました。それなのに、学校の先生達は、私達の放課後の時間を拘束してしまう宿題を出していることに気が付きます。これだと、世の多くの学校の先生(公務員)達は、憲法違反を実行していることになりはしないでしょうか?」

  「そのルールの中に書かれていることには『このルールは日本国民の総意に基づき適用される』というような文面があります。私が生まれてくる時に、そのルール設定がされていなかったのですが(それも問題の一つかと思いますが)、そのルール設定がなされた時代でも、日本には多くの日本人がいたことでしょう。そのルール設定の頃には、そのルールに対して反対の人々もいたことでしょう。それなのに、当時の反対者の人々に対して、最近しばしば見受けられるような国会での強行採決のように、そのルールが無理矢理セットされたと思います。その状態ですと、『日本国民の総意に基づき』という文面には、嘘があることになりはしないでしょうか?」

  「上の疑問の並びと同じなのですが、現代でも、そのルールに対して、反対の人々がいるのではないでしょうか? それでしたら、そのルール中の『日本国民の総意に基づき』という文面事体が、看板割れを現していることになりはしないでしょうか?」

、、、(以下、等々)

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まだ、学校の子供達が出してくると想定できるような疑問や、問題提起の文章を想定できるかと思いますが、ひとまず、ここで区切りを置いておきます。

要は、子供達がターゲットにされていると感じます。

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「ターゲット」ですから、上の言葉を言い換えると、「子供達は狙われている」と言えるでしょうか。

子供達は、無批判で与えられるものを受け取ることが多いと思います。
その状態を逆用されていると思います。
ですから、義務教育システムの中で教えられる憲法内容の時間なども、怖そうな顔をした大きな体格を持った大人達である先生が、さらに厳しそうな目つきと恐持ての声を出しながら

  「今から教える、この憲法内容に、一切、疑問を持ったり、問題提起をしてはならない」

という感じで伝えられたら、子供達の心は大いに怯えてしまい、上記のような心の中で生じた疑問や問題事項を、一切、周囲の人に伝えることが出来なくなるのではないでしょうか。

暗黙の内に、多くの子供達に沈黙を強要されているように感じはしないでしょうか。

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また、「子供達がターゲットにされている」という言葉で思い出したのですが、これの一例が教育ビジネスだとわかると思います。

教育ビジネス側だと、子供達に、より多くの教材を買ってもらうようにしなくてはいけません。

ですから、そのためには、

  「子供達よ。あなたがたは無批判で勉強しなさい。学校の先生達も君達の親達も、皆、口をそろえて言うことには、『勉強すれば、その勉強がお前達の未来を救う』という、美辞麗句で、あなたがたに勉強を奨めているだろう。だから、あなたがたは無批判で勉強しなさい。そのためには、私が数多く作成している、これらの教材を大量に買いなさい(もっとも、あなたが今行っている勉強が、本当に、あなたの未来を救うかどうかは私は知らないが)。」

等のような学問の奨めを行いつつ、教材の売り込みをしているかもしれません。
あるいは、

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  「あなたが今行っている勉強は、あなたを幸せにしないかもしれないけれど、その勉強に見合った分だけの、お金を得られるかもしれないよ」

等のような奨めを行いつつ、教材の売り込みをしているかもしれません。

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上で想定している、教育ビジネス側だと、更に次のようなセリフを言うかもしれません。

  「私だって稼がないといけないからね。金が無いと生きていけないんだから。」

ここまで来ましたら、私の以前に書いた記事中の文章を再掲載して、つないだ方が良いと思いますので、再掲載します。

再掲載するブログ・サブタイトルは、『三千二百七十七:私達の仕事とお金というものを考えて』です。

(以下、『三千二百七十七:私達の仕事とお金というものを考えて』、2018/07/30(月)記事より抜粋して再掲載)
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そして、ちなみに、地球社会全体を支配したがっている人々からしたら、「地球上の全ての人間を、お金を使って、強制労働させることが出来る」と、彼等は気が付いていることでしょう。

なぜならば、生活資金を手に入れるためには、なんとしてでも、社会一般の職種に就かないといけないのですが、ある人が生活資金に困れば、その人は、その人がどんなに嫌いな仕事にでも就かないと、そのお金を手に入れられなくなるからです。

ですから、地球社会全体を支配したがっている人々ならば、「お金を使って、地球人を強制労働させ、つまり、我々の奴隷として、全地球人を使用することが出来る。なぜならば、我々は、全地球人に対し、『お金が無ければ生きていくことは出来ない』という恐怖感を与えることに成功したので、地球人は、そのお金を手に入れるためには、どんな嫌な仕事でも引き受けるに違いないのだから」と考えていることでしょう。

この、今、私が書いた「私達は、お金というツールを使用され、強制労働させられているのではないのだろうか?」という疑問は、読者の方々も、幼い頃に、幼子のようなまなざしを使って世間を見ていた頃、感じたことのある疑問ではないかと思います。

しかし、あなたの感じた、その素朴な疑問を口に出すには、あなたの周囲の人々を見回すと、お金を愛している人々がとても多いし、「お金に対する疑問を持つことは、タブーだ」という風潮や常識の前に、あなたの疑問は、あなたの口から出る前に、あなたの胸の中で消してしまったのではないでしょうか。

なぜならば、あなたが、その疑問を口に出すやいなや、周囲の人々が、あなたを冷たい目で見て、あなたを嫌いになるかもしれない、という、恐怖感が、あなたの心中に沸くと、その疑問を胸の中に引っ込めてしまいやすくなるからです。
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(抜粋引用終わり)

結局、総合的に考えてみますと、現代社会システムと、お金を使った経済システムが、人間の神性やら美徳を汚して、職業倫理をも堕落せしめ、結果、子供達の知識吸収の際にしても、強制教育とか、お金で汚れた教育システムが蔓延する結果になってしまったと、私見では見ています。

(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『三千二百八十二:現在の教育制度を考えて_その1(独白)』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/08/_-15d5.html

『三千二百七十七:私達の仕事とお金というものを考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/07/post-779b.html


                                       坂本 誠

2018年8月29日 (水)

三千二百八十六:自らの願望達成を遂げようとしている人を見て(独白)

こんばんわ。

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ある人を見ていて気付くことがある。

その人は、自分の願望達成のためには、その人以外の人間が関係する必要がある。
だから、その人の願望達成が行われるためには、彼(あるいは彼女)は自分以外の人間を動かす必要がある。

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そして、彼の願望つまりはその人の幸福達成のため、彼以外の人間が動かされた後で、さらに、彼は自分以外の人間の同意や称賛を必要とする。

つまり、彼の願望や幸福を達成するためには、常に彼以外の周囲の人間が関係する必要がある。

その状態だと、彼(あるいは彼女)の願望と、彼以外の周囲の人間との合意も、幾つかのケースは存在するかもしれない。
だから、幾つかのケースで彼の幸福達成は行われるかもしれない。
しかしながら、私達も知るように、自分以外の人間の意向や考えは互いに違っていることの方が圧倒的に多い。

だから、彼の願望達成のため、彼が周囲の人を動かす際に、彼の願望から生じるお願い事を、彼の周囲の人間が快く承諾するというケースは、ほとんど無いことに気が付く。

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わかりやすく書くと、彼は周囲の人に向かって、頻繁に「私のために、あれをして欲しい。これをして欲しい」と、お願い事ばかりを叫んでいる。
しかし、上に書いた文章の流れからわかるように、ほとんどの場合は、彼の願望の方向と彼の周囲の人々の願望の方向は違っているのだから、彼(あるいは彼女)のお願い事というのは、実は、お願い事ではなく、彼の命令であることに私達は気が付いてくる。

また、上の話をじっくりと見てみると、お願い事をしていると思われる彼の願望や幸福というのは、彼以外の周囲の人々の存在無しでは確立できないことがわかる。
つまり、彼(あるいは彼女)は非常に依存精神の強い人だとわかる。

なぜならば、彼の周囲の人がいなければ、彼は全く自分の願望や幸福を作れないのだから、その願望や幸福を作るためには、非常に熱心なまでに、彼の幸福作成のために、周囲の人が頻繁に手を差し出さなければならないからだ。

要するに、彼の幸福作成のためには、周囲の人々の助力を大いに必要とする状態にある。

つまり、彼は自分の手で自分の幸福を作ろうとしない。

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だから、彼以外の周囲の人々に向かって、

  「あなたは(お前は)私の言うこと(命令)を聞け」

とか

  「私があなた方にお願いして(命じて)、お互いの共通目的となった私達の願望を互いに達成したのだから、お前達は、もっと私を賞賛しなさい(崇めなさい)」

等々のような命令とか本人に対する賞賛を彼が求める言動が多発するようになる。
(もちろん、私が上記のように想定したセリフ中の括弧(カッコ)の中の、単語の方が、彼の本音だと読者は理解するだろう。)

このように彼(あるいは彼女)の称賛欲求も著しく激しいことが私達にわかる。

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結局、このような彼を見てわかることには、これは支配というものであることがわかる。

支配というものは愛情から生じる欲求や行動では無い。
支配というものは愛情の枯渇状態から生じる、逆のベクトルを持ったマイナスの愛情行為と言える。

なんとならば、彼以外の周囲の人々からすれば、彼のお願い事を承諾したくないにも関わらず、彼は周囲の人々の気持ちも踏みにじり、ただひたすら、彼自身の願望を達成すべく、無理矢理周囲の人を動かすのだから。

つまり彼自身は「お願い事だ」とは言うものの、その実態は命令であり、つまりは周囲の人々に対する支配である。

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この状態で多くの人々は以下のことに気付くだろう。
つまり、彼のお願い事が、周囲の人々の苦痛を生じさせている。
だから、彼は自分の願望を達成させようとしていることが、周囲の人々の不幸感覚を発生させているのである。
だから、たいていの人は、

  「自分の幸福状態は達成されるかも知れないけれど、それによって、周囲の人々が不幸になるので、つまりは、自分自身も永遠に幸福とはならない。なぜならば、自分以外の周囲の人々には不快感がたまるのみであり、その多量の不快感が私に向かってやってくるからだ。だから、つまりは私の願望を達成させる、ということは、他ならぬ、私自身を不幸にする原因となるのだ」

と気が付き、周囲の人々を動かすことを止めるようになるかもしれない。

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しかし、ある人ならば、その気付きを得ることも無いかもしれない。

つまり、周囲の人々の意に反してまでも、自らの願望・幸福を遂げようとする行為は、周囲の人々との和の内に、願望や幸福が築かれない。

だから、その状態というのは、「願望達成状態」とか「幸福達成状態」と呼べるものでは無く、「不幸・苦痛の体現状態達成」と呼べるものだろう。

しかし、もちろん、気付きにくい人にとっては、自身の得られている環境が「不幸・苦痛の体現状態達成」と気付くことは無く、天真爛漫(てんしんらんまん)にも、「この状態は自らの願望達成状態だ」と自負・自画自賛しているかもしれない。

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上で見たように、依存的な精神徴候のある人というのは、結局、自分で自分の幸福を作ろうとしていない。

自分の幸福状態を作成するために、彼は、絶えず、彼の周囲の多くの人々の助力を、無理矢理、得ようとする。

この結果、彼(あるいは彼女)が、自身では「これはお願い事だ」と称している、そのお願い内容を語る際には、鋭い語調を持った命令口調の「お願い事」となっている。
つまりは、その「お願い事」というのは命令となっている。

だから、彼(あるいは彼女)の周囲の人々は、彼の命令に屈服している状態であり、彼の周囲の多くの人々は苦痛の精神状態を得ていることになる。

これが更に進むと、依存精神の強い彼(あるいは彼女)は、周囲の人々の気持ちを全く無視することが可能となり、それでも、彼は周囲の人々を彼の口のみで動かし続けていることになる。
そして、彼が言うことには、

  「私は多くの人々を命令(支配)によって動かすことが出来る」

だろう。

他の心理学の本なんかにも、「独裁者達や王様達の心理状態は、これである」と伝えていたものがあった。

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上の喩え話から私達の得られるであろう教訓を列挙してみよう。

まず、私達は依存(甘え)傾向の強まる方向に流れない方が良いだろう。
「依存傾向の強い人」というのは、つまり、自分の手で自分の幸福を作ろうとしていない。
絶えず、他人のちからを自らの方向へと流用して、彼(あるいは彼女)の幸福を作成しようとしているのだから、つまりは甘えている。

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だから、得られる教訓の一つとしては、「自分の幸福は自分の手で作ろう」というような当然のことである。

また、上の話の流れから、依存傾向が強まると、周囲の人々に対して支配的になることがわかる。
だから、「依存傾向を強める方向」というのは、「愛情から離れていく方向」だということがわかる。
当然ことながら、「依存傾向を強める方向」というのは、「支配に向かってののベクトル」だということがわかる。

上に挙げた心理学の本にも、「独裁者達や王様達の心理状態は幼稚なものであり、これが依存傾向や支配欲求を生じている」のようなことも書いてあった。

だから、「幼稚な方向に向かおう」というのも、止めた方が良いと思う。

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私のブログに、時々、イルミナティさん達やレプティリアンさん達が出てくる。
イルミさん達やレプさん達は、彼等を除く地球上の全人類を奴隷化したいと言っている。

だから、上の流れからわかるように、彼等の支配欲求よりも前に、彼等の巨大な依存傾向や、甚大なまでの愛情精神欠落状態が存在していることが私達にわかる。

私が上に挙げた喩え話とか、実例であるところのイルミさんやレプさんを見て考えるに、私達は出来るだけ依存傾向を避け、「出来るだけ自分の幸福は自分の手で作ろう」等のような教訓を得た方が良いと思う。

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「甘えの精神」というのは、言い換えると、周囲の人々の愛情を吸収していく精神状態のことであることがわかる。

これと反対に、「愛情の精神」というのは、言い換えると、周囲の人々の向かって自らの内臓せる愛情を放出・放散していく精神状態のことであることがわかる。

わかりやすい比喩を書くと、「甘えの精神」が中心の人々は宇宙の中の物質を無制限に吸い込み続けるブラック・ホールに似ている。
「愛情の精神」が中心の人々は自らの内から宇宙に向かってエネルギーを無限に供給し続ける太陽に似ている。

イルミさんやレプさんは、時折、「闇の者」と言われることがあることからも、彼等をして、「ブラック・ホールに似ている」という人も出てくると思う。

だから、私達が得られる教訓の一つとしては、「太陽のような人になろう」という言葉を、日々にお互いに、挨拶言葉のように交わし合うことかとも思ってしまう。


                                       坂本 誠

2018年8月28日 (火)

三千二百八十五: 追悼文

こんばんわ。

先日、平成三十年八月二十七日に、私のブログ記事『三千二百八十四:マクロス・デルタを見て』を掲載した後、夜半過ぎに、漫画家さくらももこさんの訃報を知りました。

なんとなく心に感じるものあり、今回の追悼の文を書きます。

現代日本に暮らす多くの日本人が漫画世代とアニメ世代と言われている通り、私も漫画世代とアニメ世代の一人です。
さくらももこさんのアニメがテレビのブラウン管を飾るようになった当時、私も日本の僻地で、さくらさんの単行本を購入したり、彼女原作のテレビ番組を鑑賞したものでした。

日本各地に笑顔を届け、そして、昨今では、全世界に向けて、笑顔を届ける、という作品を継続して生み出すに至っては、それなりの性向が無ければ、なかなか難しいものかとも思いを巡らしたりもします。

さくらさんの明るい性格が、日本の多くのお茶の間に届き、それが多くの人々の幸福へと昇華されていった、ということを思い出すに当たり、それ自体が、さくらさんの更なる喜びと明るさの一つになったかと思います。

さくらももこさんの天界旅立ちの報を知るに当たり、今、彼女の安らかなる御昇天・御冥福を祈らせて頂きます。


           平成三十年八月二十八日

                                       坂本 誠

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