恋愛・結婚 Feed

2018年10月24日 (水)

三千三百二:世の恋愛問題について

こんばんわ。

私としては、珍しく、恋愛問題について考えることがあったので、それを書いてみようと思います。

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巷の有名人の恋愛などで、大きくマスメディアで報道されることがあるようです。

個人の恋愛の問題というのは、個人的な問題であるのですが、それでもなぜか公のものとして報道されることが多々あるようです。

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芸能関係の会社でもいいし、他の一般企業の会社について考えてもよいのですが、とにかく、企業の中の、ある社員が何らかの恋愛をしていると仮定してみます。

企業内の社員が、就業時間以外のプライベートな時間で、誰が誰を愛そうとも、それは個人的な問題であり、また、それは個人情報だと思います。
ですから、企業の側にしても、ある社員が就業時間以外に、どこかの誰かを好きになっても、それは企業活動とは関係がありません。

また、企業にしても、個人の恋愛問題について、口をはさむことは出来ない筈です。

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しかし、例えば、芸能関係の会社の社員などが、就業時間以外に、どこかの誰かとデートしていても、何も口をはさめないと思います。

しかし、その就業時間以外の個人の自由の時間に、俗にパパラッチとか言われている、個人の自由時間の活動ぶりを撮影して、それらの写真を週刊誌などに売りつけるカメラマンの方々もいるようです。

あの、パパラッチとか言われている人々の活動は、個人情報を侵害していると思えるのですが。

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そして、パパラッチとか言われている人々が、そのようにして、ある特定の個人のプライベートの時間の活動ぶりを撮影した写真が、ある週刊誌に流れ、それらが報道されたりしています。

すると、その撮影された個人の属する企業の側でも、なぜか、おびえるような感じになるようです。

本来ならば、企業の側が、社員の側の恋愛問題について、何も言えない筈なのに、その恋愛問題について、口を挟むようになるようです。

例えば、ある芸能関係の会社の社員の恋愛について報道されると、その芸能関係の会社側としては、世評・風評が悪くなって、「うちの社の売り上げが悪くなるかもしれない」と感じると、なぜか、自由とされている筈の、特定の個人の恋愛問題に「口をはさむ」という状態になっていないでしょうか。

ある企業が、その企業内の社員の就業時間以外に起きた、自由とされている個人間の恋愛問題について、あれこれ言う、というのも、これだと、「就業時間以外にも、その社員に対して、拘束した」とならないでしょうか。

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本来、ゆっくりと考えてみると、「誰も他人の恋愛関係に口出しすることは出来ない」というのも思い出せるものです。

しかし、いきなり、どこかの週刊誌が報道すると、その報道された側の社員のいる企業側が慌ててしまって、「これは、うちの社の問題であるから、あの社員の恋愛問題について、口をはさむべし」と、即決して、言っているのではないでしょうか。

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また、私がおかしく思うのは、上に挙げた、通称、パパラッチと言われている方々です。

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他の人も見ても感じると思うのですが、ある個人が公にしていない情報(ここでは恋愛情報のこと)を、その個人のプライベートの時間までも、追いかけて、その個人情報であるところの情報を入手して(撮影などをして)、それらをどこかの週刊誌に購入してもらっているのですが、彼等の活動自体が、大いに問題にならないのでしょうか。

また、それらの情報を入手した週刊誌も、何らかの個人情報を、その個人の許諾無しに公表する、というのですから、これ自体も大きな問題ではないでしょうか。

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例えば、恋愛問題にしても、「今いる恋人(あるいは配偶者)よりも好きな人が出来た。今の恋人(あるいは配偶者)と別れて、あの人と一緒になろうか」と考えて、何らかの判断をするのは、それも個人の自由です。

また、そのような問題は、その人個人で解決しないといけない問題の筈です。
恋愛問題のことですから、似たような例は数多くあることでしょう。

しかし、「恋愛問題」という、ある個人の問題を、それを追いかけ回す、パパラッチと言われる方々が、その取材対象の人の個人的な恋愛問題を取材して、それらを全社会に報道して、その取材対象の個人の恋愛問題を「全社会の人々が一体となって、社会全体の人々で考えようではないか」と言いながらも、取材しているパパラッチの姿を思い浮かべて、、、、このブログ記事を読まれている読者の方々も、既に異常を感じるかと思います。

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人が冷静になって、私が上記に書いた事を考えてみると、「『他の人の恋愛に口をさしはさむ』という行為は良いことか」という、極めて人間的な問題について考えを巡らすことでしょう。

また、パパラッチと言われる人の行動動機や、上記のような他の人の恋愛問題のことを報道する動機というのは、単に、「週刊誌が売れるから」とか、あるいは、「その記事を掲載したHPの閲覧回数が上がることにより、宣伝活動を助ける機会となるから」というのが、その動機ではないかと、私は予想したりします。

で、こうなると、私のブログで時々掲載しているように、「お金は人の人心や倫理を腐敗させる」と書いている内容を正当化する一例となります。

「そのお金を誰が作り、何の目的で、そのお金が使用されているか」については、ちょっと、このブログ記事とは外れてしまい、また、長い説明共なりますので、私のブログの過去記事を、どうか読まれて下さい。

そのお金の由来から考慮しても、以下のことが言えると思います。

「お金のために仕事をしているのであり、自らの神性発揮の一つとしての仕事をしているのでは無い。」

要は、お金というものが、人心や倫理を痛く腐敗させることがわかります。

なんとならば、「お金というものが無いと、人は生きていくことが出来ないのだ」という社会状態に多くの人々が誘導されますと、何よりもお金を手に入れないと、死の恐怖が与えられていることになりますから、その恐怖を打ち消すためには、「人は、どのようなことをしても、何よりもまず、お金を手に入れるべきだ」となります。

また、世に多く言われていることの一つとしては、「命こそが何よりも尊い」という言葉があります。
ですから、「命こそが何よりも尊い」とあるのならば、「その命をつなぐためには、何よりもお金が必要なのだ」となるでしょう。
そうなると、「命こそが何よりも尊いのだから、その最高に尊いとされていることを実現するためには、それ以下の、そして、それ以外の悪いことをやっても良いではないか」となるでしょう。
「お金を手に入れて、自分の命を守るためなのだから」と。

この結果、「人は、お金を手に入れるためには、悪いことをやっても仕方ないではないか」となるでしょう。

つまり、お金というものが人心や倫理を痛く腐敗させることがわかります。

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ですから、「ひょっとしたら、お金そのものが悪い道具なのではないのか」と、逆の視点を持つことも大事でしょう。
また、このブログ記事とは外れてしまうので、ここには、ちょっと書きませんが、それらのお金を製造・配布して、多くの人々にそれらのお金の使用を長く推奨し続け、「(我々の作った)お金を崇めるように」と、地球上の多くの人々に推奨し続けた人々は、これは、責められても仕方無いものがあると思います。

また、ここまで来ると、もう一つの視野が出来てくると思います。

それは、今まで世に多く言われ続けてきた「命こそが何よりも尊い」という言葉に対する見方です。

「『命こそが何よりも尊い』という言葉以上のものがあるかもしれない」と人は考えるようになるかもしれません。

それは、ちょっと考えてみると「人には命よりも大事なものがあるかもしれない。それは自分の内奥(ないおう)に秘められているとされる、神性と呼ばれているものかも知れない」と。

他にも、まだ考えられるかもしれません。

ちょっと、恋愛問題とは、話が反れましたが、このブログ記事については、この辺で筆を置くことにします。


 

                                       坂本 誠

2017年7月28日 (金)

三千百五十: 男と女を考えて

私達の身近に存在する不思議について、感嘆してしまうことがあります。

それは、男女の存在です。
「男女の存在」とは、つまり、生物の性差の事です。

私は生まれてから、この年齢まで、もちろん男をやっています。
少年の年頃だと、自分と同じ年齢の少女を見ていても、あまり不思議を感じませんでした。
ただ、「男女の違いとは肉体の違いだけに過ぎないのだろう」という考えぐらいしか持っていませんでした。

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その年齢で、遊んでいても、「性差」というものも感じることも無かったし、ほとんど、肉体的な機能にも違いは無かったのだから。
もちろん、少年少女の年頃だと、そのような男女には、性差を感じさせるような思考の違いも、あまり無いようなものです。
つまり、そのような年頃の男女だと、ほとんど、思考パターンも似通っています。

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しかし、二次性徴を越えてからの男女には、もちろん、肉体上の性差も大きくなるけれど、思考パターンや感情パターンにも違いを感じられるようになります。

男女の間に、思考パターンや感情パターンの違いが生じても、両者とも、その違いの個性を、全く理解できないわけではありません。

なぜならば、どんな人間社会にも男女がいて、その人間社会では、同一の言語が使われるので、その社会の男女は言語を使って、お互いの意志や感情を伝え合うので、両者とも、お互いを、ある程度、理解し合います。

しかし、両者とも理解し合う、反面、お互いの性差である個性については、完全なまでには納得し難いものがあります。

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例えば、女性ならば、衣装が好きであり、何着かの衣装を持っていたり、あるいは、化粧を好むものです。
「女性は美を現す存在」と、よく言われているように、女性は、自分の美しさを向上させたり、表現を高めようとします。

ところが、比較的に、男性の方は、あまりにも衣装で着飾ることをしません。
かなり多くの男性を見て、女性と比較するに、相対的に、男性は、自分の肉体を使ってまでの、美の表現に対しては、「熱意に欠けている」と言えると思います。
しかし、なかには、男性でも、数多くの衣装を持って、その何着もの衣装を着飾って、周囲の人に自己の美を表現しようと努めているミスターもいることでしょう。

私は男ですが、多くの衣装を使ってまで、「自分の美を表現しよう」とまでの、深い熱意に欠けているようです(「全然、全く無い」というわけではありません)。

ただし、絵を描いたり、何らかの文章表現を行って、その内部の美しさを追求しよう、という、熱意ならば、比較的に満ちているように思います。

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女性の心理から見て、男性の心理にわかりづらいものがあるのと同じように、男性の心理から見て、女性の心理にわかりづらいものもあるでしょう。

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二次性徴を越えた、男女の肉体には、それぞれに違いあるように、お互いの心理状態にも、わずかながら違ったものが備わっています。

しかし、その、ちょっとばかり、お互いに「ズレ」を感じる程の心理状態は、お互いに全く理解し合えないものでもありません。

だけど、いざ、男だけの集会とか、女だけの集会に、顔を出してみると、多くの人は以下のような会話を交わしていることでしょう。

  「男性の、この部分が理解できないわ」

あるいは、

  「女性の、この部分が理解しにくいものだね」

等々。

日頃、感じ合っていることを、言語を使って、しっかりと、異性に自分の感じ方や見かたを伝え合っても、頭では理解できても、ハートがなかなか理解しにくいポイントが出てくるものです。

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あらためて、見直すと、男女の身体の作りも、そんなにまで違ったものでは無いことに気が付きます。

女の身体も、男の身体も似てはいるものの、違った作りの部分もあります。
それと同じように、女の心と男の心も、かなり、似通っているものです。
だから、言葉を使って、お互いの意志や感情を交わし合うことが出来ます。
しかし、男女の身体の作りと同じように、男女の心の状態も、似通ってはいるものの、ちょっと違った部分があるのに気が付きます。

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SF的な作り話を考えてみます。

性差の無い宇宙人がいたと仮定してみます。
その宇宙人が、地球にやって来て、初めて、男女を見たとしましょう。
そして、その宇宙人が、目の前の二人の男女を、ある期間だけ、観察してみると、いかのように感じるでしょう。

  「女も男も身体の作りも、ほとんど似ているのに、わずかながらに違う部分がある。それと同じように、心の状態も似ているのに、わずかながらに違う部分がある」

と。

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私達の身近にも、多くの隠れた不思議が存在します。

その隠れた不思議の、大きな一つとして、男女の心の性差があると思います。

地球上に、男女が暮らし始めて、長い年月が経っているでしょう。
同時に、「男女の心の状態で、似通ってはいるものの、ちょっと違った部分」、つまり、男女のメンタル的な性差の部分を、男女が互いに理解し合おうと、努力し続けている年月も、それだけ長いとわかります。

おそらく、その「『男女が互いに理解し合おうと、努力し続けている年月』の期間は、どれぐらいだろうか?」と想像するに、それは気の遠くなるほどの、相当の長い時間でしょう。

それほど、長い期間に、男女は、「お互いに理解し合おう」と努めているにも関わらず、いまだに、その悩みは解決されないようです。

そして、おそらく、今後も、その悩みが解決される日は、訪れないかと感じてしまいます。

なぜならば、もし、その悩みが完全に解決されたら、世の男女の間の喜びは無くなるか、半減するだろうから。

そう、もちろん、その男女の性差の部分が、あるからこそ、私達には、男女が世に存在している面白さと喜びが得られているのだから。

だから、永久に解決されないような悩みのように見えても、それだからこそ、その悩みの部分を使用・逆用することによって、それ自体を喜びと化すとは、、、

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以前に、ヒットしたSFアニメに、『超時空要塞マクロス』というものがありました。

この『マクロス』の中では、地球人類以外の宇宙人として、ゼントラーディとメルトランディという、宇宙人が出て来ました。

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ゼントラーディというのは、巨人の男だけの存在です。
メルトランディというのは、巨人の女だけの存在です。

ゼントラーディも、メルトランディも、遺伝子操作によって、試験管ベイビーを生むことによって、お互いの種族数を調整しています。

そして、同アニメ中では、このゼントラーディとメルトランディが、太古の昔から、宇宙空間を股にかけて、巨大戦争を続けており、その巨大戦争に、地球人類が巻き込まれる、というのが、『超時空要塞マクロス』のあらすじでした。

おそらく、男女の存在しない世界(つまり、性差の存在しない世界)とか、あるいは、異性が、自らの地域社会に存在しない世界、というのは、『超時空要塞マクロス』の舞台のように、殺風景な世界が出来上がるのではないでしょうか。

「異性が、自らの地域社会に存在しない世界」というのを、具体的に例を挙げて書いてみると、メルトランディ軍のように、女の巨人だけの世界に、異性であるところの、ゼントラーディ人が一人もいないような世界です。

おそらく、あまり喜びは無いかもしれません。

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『超時空要塞マクロス』では、性差を失った社会として、ゼントラーディとメルトランディが語られます。

それとは、対照的な、地球人類の社会も、同アニメ中では描かれます。

アニメ中の地球人類の社会では、もちろん、男女がいるので、幾つもの男女間の話題が語られています。
私達も本の中とか、あるいは、テレビで放映されるドラマでも、見ることが出来るように、あるいは、現実社会でも、見ることが出来るのだけど、ごく、ありふれて、恋愛ドラマを見かけることが出来ます。

そして、その恋愛ドラマというものも、おそらく、地球の上に性差が生じて以来、ずっと、そのドラマが作られて来たか、あるいは、私達によって、実演してきたのだと思います。

地球上に性差がある限り、この手の喜びや、面白さを永遠に味わい続けることが出来ることがわかります。

逆を言えば、もし、性差の悩みが無ければ、性差から生まれる、喜びも無いことでしょう。

「男女の違いがある」ということは、一種の垣根でもあり、悩みの一つでもあるのだろうけれど、それ自体が喜びと面白さの一つである、と気付くのも面白いことでしょう。

私達が、ゼントラーディ軍かメルトランディ軍の中に、試験管ベイビーとして生まれなかったのは、非常に幸せな事だと言えると思います。

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私達の社会の中でも、街の中を歩けば、そこに現れるのは、当然なのだけど、男女しかいません。

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あまりにも見慣れた光景です。

しかし、上の流れから言えるように、ちょっと思い出してみて、男女のメンタル的な性差の事を考えてみると、異性の存在を不思議に感じたり、面白くも感じたりします。


                                       坂本 誠

2015年5月10日 (日)

二千四百七十九: 彼等のシステムを考える_No.6

二千三百八十一:彼等のシステムを考える_No.5』の続きです。
久しぶりの『彼等のシステムを考える』シリーズです。

色々言われるに、「彼等」+ レプティリアン + アヌンナキが私達の社会を作ってきた、と言われるので、「私達の社会システムを、生まれて初めて見た」という視線で、見直してみる記事です。
一緒によく見直してみましょう。

「生まれて初めて私達の社会を見た」という感じでですね。
ちょっと、繰り返しにもなりますが。

「生まれて初めて見る」あるいは「赤ちゃんのような視線で見る」ということですから、ある意味、「タブーを考える」という感じにもなるでしょう。
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●恋愛:

私達の社会の恋愛スタイルを考えてみましょう。
「誰もが、常日頃、誰かを愛する」というのは、これは実は当たり前の事です。
しかし、私達の日常生活では、「誰かを愛する」というのは、まるでタブー視されているように感じられないでしょうか。

普通に恋人のいる人も、あるいは、結婚相手のいる人だって、街の通りすがりの自分好みの異性に一瞬の恋心を抱くものです。
これは全ての人が例外無しにあることでしょう。
しかし、私達の社会では、あえて、それを「不埒な心の持ち主」という感じで、その出来心を卑しめられているように感じないでしょうか。

よく報道でも、ある学校の先生と生徒が恋仲になり、それが露見して、「邪悪の行為が、ここに発覚した」という感じで、教師の側が懲戒免職になるというケースが報道されています。
しかし、私達の記憶あるいは私達の経験を思い出してみましょう。

どんな生徒でも、異性の教師に恋心を抱いている事がわかります。
普段、それが公に言われないだけですね。
また、教師の方でも、本来、子供が好きであるから、教職を選んだというケースが多いです。
ですから、教師の方でも人間なので、子供が基本的に好きであり、日々、自分の職場に出ると、その職場に自分より年下の異性に心を抱くケースなんて、逆に、それが当然である事がわかります。
普段、それが公に言われないだけですね。

また、ちょっと恥ずかしい話でもありますが、私達の誰でもあるように、「Aさんが好き。Bさんも好き。Cさんも好き。Dさんも、、、」というのは、こちらのほうが、ごく普通である事がわかります。
それと同様に、「Aさんが1番目に好き。Bさんが2番目に好き。Cさんが3番目に好き。Dさんが、、、」というのも、これも、こちらのほうが、ごく自然である事がわかります。
中には、本当に相思相愛のカップルもいるようですが、このようなカップルは、私達の社会にほとんどいない事も事実である事がわかります。

ですから、学校でも、私達は普段、自分の肉体がありますが、もし、仮に私達が肉体の無い存在であり、心だけの存在だとすれば、多くの生徒と多くの教師の間の恋心が見えるのが当然になるでしょう。
また、もし仮に私達が肉体の無い存在であれば、その世界だと、男女の恋の数は、私達の世界の少なくとも、何万倍もあることがわかります。
その当然の状況を、私達の社会では、「悪徳である」と決め付けて、報道の上で、さらし者にされるわけです。
どんな人間でも、学校の頃、異性の先生に恋心を抱いたのにも関わらずにですね。

ですから、その「悪徳である」と言われている生徒と教師の間柄を見て、周囲の人間達が、「自分達はそれを禁じられていたのに、当の彼等は平然と掟を破った」という嫉妬に駆られての、見せしめが行われた、と考えるべきではないでしょうか。

上からもわかるとおり、本来、私達の社会は、男女の愛にしても、私達が想像する以上に、かなり多くの愛の件数が存在している事がわかります。
そして、彼等の社会システムでは、その男女の愛も踏み殺す必要性があって、かなり数多くの男女の愛を絞め殺している事に気が付きます。

これは、学校だけではなく、普通の職場でも言えることです。
多くの職場は男女がいます。
その多くの職場では、結婚相手のいる人物もいますが、それでも、そのような人物を愛する異性なんて、当然のようにいる事がわかります。
ただ、その当然の状態を、「それこそが、社会的な背徳行為なのだ」と、スパルタ形式の社会システムを作っていることがわかります。

そう、彼等の社会システムがここでわかります。
彼等は大衆の支配を好みますから、自然と社会システムをスパルタ形式にしないといけないことがわかります。
彼等の社会システムの特徴は、『スパルタ形式』なのです。
そして、あたかも、「その『スパルタ形式』こそが唯一の素晴らしい事なのだ」、と、強制的に大衆に思い込ませなければいけません。
ですから、彼等は様々なルールや規則を作るのです。

まあ、この段落は恋愛について考えていますので、ついでながら、自分の事を書かせていただくなら、恋人募集中とでも書いていれば良いでしょうか。
さりげなく、書いておこうかな、、、
なんか、堅い事ばかりを考えている私ではないですからね、、、
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この段落は「恋愛」編です。
以前、「結婚」編を書きましたが、この段落は似ていますから、再度書かせてください。

上のほうでも、「恋愛」についての考えを書きましたが、今度は、私達の一般の恋人同士を考えてみます。
普通、男女二人の恋愛については、親とか周囲の人々はノー・タッチである事が望ましいとされています。
なぜならば、「恋愛」というものは、当事者同士の男と女の間で生まれる感情です。
なので、ですから、その恋愛については、その男女二人だけの間で生まれているので、周囲の人が何かの文句を言えない筈です。
恋愛の自由と言えるでしょうか。

しかし、事、結婚については違ってきます。
男女の恋愛の段階だと、周囲の人々は基本的にその男女の間柄に何も言えません。
しかし、恋愛の一段階進歩した結婚になると、なぜか、行政に対して、結婚届が必要です。
つまり、その男女が恋人同士の関係だと、国家の監視が無いのに、一段階進歩した結婚になると、突然、国家が監視しだすのです。
これ自体が非常に不思議に感じないでしょうか?
どうして、結婚の間柄の男女を国家が監視しないといけないのでしょうか。
その男女の間柄である結婚の証拠を国家に差し出さないといけないのです。
これはなぜでしょうか?

まるで、「国家」という別の仲人がいて、あたかも、結婚をした男女の二人の間柄を、「国家」という仲人がその二人の間柄を取り持っているかのようです。
だから、やれ、離婚の際には、「高い慰謝料が必要だ」となって、まるで、その仲人から「どうだ、離婚が怖いだろ」という脅しが付けられており、愛情の冷めた男女の二人でも強制的に縛っていると人々は感じるでしょう。

つまり、一旦、結婚の段階になると、国家の監視を付けるわけです。
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なぜ、国家が監視をつけるかを考えてみます。
つまり、これは人数の頭数を把握するために行われている事がわかります。

結婚して子供が出来たら、役所に出生届を出すのを義務付けられています。
このような形にして、国家の内部の人数の頭数を把握するわけです。
そして、その人数把握の理由を考えます。
つまり、人数を把握し、その結果、税金の徴収額を考えたりするわけです。
あるいは、子供の出生届が役所に出されますから、当然、住所も把握されるわけです。
どこに誰が住んでいるのかを把握したら、国家が全ての国民を監視・支配できるようになります。

これが私達の社会の国家の目的、強いては、「彼等」+ レプティリアン + アヌンナキの支配型の社会システムである事がわかります。
当然、支配が目的ですから、どこか他の国より、自分のちからの方が強い状態でなければいけません。
つまり、国同士の競争精神が生まれます。
ですから、私が思うに、「どうして、多くの国々が競う必要があるのだ?」と感じます。
(しかし、これこそが彼等の社会システムなのです。)

ホントは、国同士で競う必要も無いと思います。
どんどん、協調精神から離れていきますからね。
その、「他の国よりも、私達の国の方が上手なのだ」あるいは「他の国よりも、私達の国の方が威張れるのだ」あるいは「優越感を感じる事が出来る」となると、これこそ、世界平和が欠けていくというものです。
また、これを「彼等」+ レプティリアン + アヌンナキが狙っているのだから、人々が彼等の愚かさに気付く事が大事だと思います。
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最後に、上に書きましたが、国家の税金徴収とか、人々の支配について考えてみます。

現代社会だと、税の徴収などは、「公務員の給与のため」と説明されるようです。
しかし、昔から、税の徴収を行う人の事を「租税者」とか言われて、忌み嫌われていたように、古来より、どこの国の公務員も煙たがられているようです。
あまり、公に言われる事は無いみたいですが。

日本国憲法の第15条によると

  ②:すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

とあります。
ですから、私の住む国の日本国憲法の条文を見る限り、少なくとも日本の公務員というのは、あたかも多くの国民を下から支えるような、「縁の下のちから持ち」のような雰囲気で書かれています。
ところが、古来より様々な国の公務員は、多くの人々から徴収し、かつ、「これは国家の考えた事である」と強調して、多くの人々に命令を下すようなスタイルを続けているので、「国民を下から支えるような、縁の下のちから持ち」ではなく、多くの人々の上に立って、命令を下す支配者的な存在のように多くの人々は感じないでしょうか。

ですから、多くの人々も、他の国のケースまではわかりませんが、私の住む国の日本国憲法の条文に記載されている公務員の雰囲気と、実際に現実に見る公務員の雰囲気に違いがあるのを感じるでしょう。
まあ、現実の公務員とは、「全体の奉仕者」ではなく、私達から徴収し、かつ、「これは国家の考えた事である」と言いながら、多くの人々に命令を下す支配者的な存在のように目に映りはしないでしょうか。

これも、長く続きすぎた彼等の社会システム(支配者システム)の負の遺産のように私は感じます。

(以下、新ブログ『光と輝き』からの過去記事、関連記事、及び、参考文献)
============================================================
『二千三百八十一:彼等のシステムを考える_No.5』
●金融編
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2015/01/_no5-6609.html

『二千三百七十八:彼等のシステムを考える_No.4』
●所有編
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2015/01/_no4-9eb6.html

『二千三百七十四:彼等のシステムを考える_No.3』
●所有編
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2015/01/_no3-473e.html

『二千三百七十一:彼等のシステムを考える_No.2』
●労働編
●法律編
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2015/01/_no2-bc53.html

『二千三百六十九:彼等のシステムを考える』
●お金編
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2015/01/post-c4de.html

 

                                        坂本  誠

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