日記 Feed

2017年7月12日 (水)

三千百四十四: 梅雨の時期と紫の色

梅雨の日々に、周囲を見回してみると、自然界に、なぜか紫色が多いのに気が付く。

幾つかを挙げてみると、紫色のアジサイがある。
私達が梅雨に食するナスビも紫色だ。
アサガオだって、紫色のものが多い。
右に写真掲載した花々も、私は、その名前を知らないけれど、やはり、紫色をしている。

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自然界に、紫色が目立つのは、この梅雨のシーズンに集中しているように感じてしまう。

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他に、紫を代表するものとしては、牡丹や藤の花だろうか。

「藤の花」は梅雨では無く、初夏の風物詩だ。

しかし、藤の花をよく見てみると、紫というよりも青に近いかもしれない。

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だから、自然界のかもし出す紫色が、集中するのは、やはり梅雨だと思われる。

この梅雨の、言ってみれば、うっとうしいシーズンに限って、自然界が、あでやかな紫色を奏でてくれているのである。

その紫色が、私達の目を潤し、目に入り込んだ紫が、さらに私達の内部に入り込んで、心に浸透していくかのようだ。

その奇妙なハーモニーが梅雨に奏でられるのだから、自然界の組み合わせを面白くも感じるし、いみじくも、奥深い何かを感じてしまう。

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                                       坂本 誠

2017年7月10日 (月)

三千百四十三: 梅雨の晴れ間を見ながら(独白)

休みの間に、梅雨の晴れ間に目をやった。
その青空をひときわ美しく感じてしまう。

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真夏の間の青空となると、灼熱の暑さをもたらすようで、その晴天に有難味を感じないものだが、梅雨や冬の青空となると、それには美しさを感じてしまう。

人は、こんなところでも、いい加減なものだと感じてしまう。

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「休んでいた」と言っても、リフレッシュするために休むのならば、「休みを実行した」となるので、それ自体も休暇とは言い難いのではないだろうか。

だから、休暇というのも何らかの行動の一つと言えるかも知れない。

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ただし、休み明けには、私達は、自分の握る筆のすべりに重さを感じたり、あるいは、自分の使い慣れたコンパスやツールに、何らかの狂いを感じるかもしれない。

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                                       坂本 誠

2017年6月26日 (月)

三千百三十七: 雨の日のピアノ

雨の日には、ピアノの音が良く似合う。

ピアノの鍵盤を叩く、その様が、雨だれの落ちる様と重なり合う。

ピアノの音が青空の天空高くから、落ちてくるかのよう。

無数の水晶の欠片(かけら)が、こぼれ落ちてくるかのようだ。

雨の日の部屋の中にいて、青空を思い起こさせる。

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                                       坂本 誠

2017年6月14日 (水)

三千百二十八: 人のブレーキとアクセルについて(独白)

いつも、やっていることを、やろうとしても、どうも、うまく進められない時が誰にでも訪れる。

やろうと思えば、アクセルを踏んで、実行することが出来る。

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しかし、そのような時に、無理にアクセルを踏んで、自分のやりたかった事をやれば、出来上がったものが粗雑になっている場合が多い。
あるいは、駄作と呼べる結果になっていたりする。

こんな時は、アクセルを踏まないようにしている。

もちろん、アクセルを踏もうと思えば、幾らでも踏めるのだ。

そんな時は、何らかの小さな阻害点が、邪魔をしている事に気が付く。

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後になって、振り返って気づくに、心の中の感情の問題であった事が多い。

自分の意識にも上って来なかった、小さな感情的な問題が、無意識下に潜んでいて、その感情的な問題がブレーキをかけていたことが多い。

もちろん、その自分の「感情的な問題」というのは、無意識下にあるので、普通はその感情を把握できない。

目覚めている意識としては、その感情をうまくキャッチできないので、「何か変だ。どこか変だ。何かが自分にブレーキをかけている。しかし、何が変なのかは、何がブレーキなのかは説明しにくい」と、意識の方は考えている。

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いくばくか時間が経って、その無意識下に潜んでいた、自分の感情の問題が、意識の方に昇って来るので、人は、自分の感情の問題を、上手に言語化出来る時もある(もちろん、出来ない時もある)。

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そのように、自分に何かの変なブレーキがかけられている時は、無理に自分のアクセルを踏まない方が良いように感じてしまう。

別の何かをした方が良いように感じてしまう。

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例えば、静かな環境で、瞑想状態になって、自分の心の中をしっかりと覗いてみる。

あれやこれやと、自らの心の内部を静かに子細に点検していく内に、無意識下に潜んでいる感情的な問題を、上手に言語化出来て、問題が解決するかもしれない。

(「自らの心の内部を静かに子細に点検していく」という作業は、仏教用語では内観(ないかん)と呼ばれている。)

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また、例えば、ひたすら絵を見たり、ひたすら音楽を聞いてみるのも良いかもしれない。

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何かの絵を見ていくと、「この絵の、この部分を好きに感じる」と、普段では、味わえなかった感想を手に入れられるかもしれない。
そこから、自分や他者にとっての、何かの非常に有意義な発見があるかもしれない。

音楽にしても同じで、「この音楽の、このフレーズが、とても良いように感じる」と、普段では、味わえなかった感想を手に、、、(後は同じである)。

そのような作業は、日々の自分の主題とはかけ離れていても、一つの有意義な事と言えただろうから、人生を彩るためには、重要な日常の一コマだったのかもしれない。

(ひょっとすると、「日々の主題から離れて、広い視野を手に入れるために、実は、あなたにブレーキをかけていたのだ」という無意識下に潜んでいる自分の感情が言ってくるかもしれない。すると、その時に、無意識下に潜んでいる感情的な問題を言語化出来たので、その人がその感情的な問題を正確に把握できたことになる。)

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また、例えば、いつもの自分の作業空間から飛び出て、余計な事を全く考えることの出来ない程の激しいスポーツをしてみるとか。

あるいは、また、余計な事を全く考えることの出来ない程の競技をしてみるとか。

テニス、サッカー、卓球等の球技だと、プレイヤーは、それ以外の事を考えることは、ほぼ出来ない。

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もちろん、激しく移動するボールを追いかけるのだから、「ボールを追いかける」以外の事を考えたり、実行していたら、そのプレイヤーは負ける。

将棋とかチェス等の競技を行っても同様だ。

それらの球技や競技に熱中した後で、日々の自分の主題に返ってみると、別の側面から、日々の自分の主題を見直せる機会も多い。

球技や競技を例に挙げたけど、もちろん、その人の熱中できるものならば、何でも良いことになる。

上に挙げたことは、一種のラジオ体操とか柔軟体操と言えるだろう。

私達は、日々に同じ個所の肉体を使い続ければ、その部分の肉体は鍛えられるのだけど、その他の肉体部分は衰えてしまうことが知られている。

それを防ぐために、ラジオ体操とか柔軟体操がある。
ラジオ体操や柔軟体操は、全身をくまなく動かすので、身体全体に潤滑油を入れていることになる。

そのラジオ体操や柔軟体操を身体全体の潤滑油として見なせるように、私達の日々の行動においても、「行動全体の潤滑油」が必要とされているのかもしれない。

だから、「行動全体の潤滑油」を必要とするために、日々の自分の主題から離れて、何か他の行動が求められているのかもしれない。

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だから、日々の自分の主題の上で、「何か自分にブレーキがかけられているようだ」と感じた時に、上に書いたように、内観をしてみたり、芸術に打ち込んでみたり、スポーツや競技に熱中したり、あるいは、その他の何かの熱中できることに、ひたすら興じた後で、日々の自分の主題に対して、自分なりの新たな視点を入手しているかもしれない。

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そうなってくると、それらの「自分の日々の主題から離れたことの実行」も、遠回りだったのだが、やはり、それらも、「自分の日々の主題の行動の一つだった」ということになる。

だから、「自分にかけられていたブレーキのようなもの」も、見方を180度変えてみると、「実は、自分にとってのアクセルだった」ということになる。

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だから、私達の人生とは、うまく出来ているのかもしれない。

一見して感じるに、「私達の人生には、数多くのブレーキがかけられているようだ」と、普段、私達は思いがちかもしれない。

しかし、上に書いたように別の視点から、それらのブレーキを全て、アクセルとして見なすと、、、ひょっとしたら、私達の人生とは、うまく出来ているのかもしれない。
少しばかりの苦笑を顔の上に浮かべつつも。


                                       坂本 誠

2017年4月10日 (月)

三千百三: 何もしない方が良いと感じる時 (独白)

ジッとしておいた方が良い時があるようだ。

そんな日は、何か気になることが連続で起きたり、身の回りで、ちょっと変わったことがあったりするようだ。

そんな日に、いつも通りの自分の生活を進めようとしても、うまく進まないように感じる。

行動を止めた方が良いように感じる日がある。

行動と言っても、外側に向けた行動の事だ。

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考えやすいのは、例えば、仕事とか学校とか、家の外に出て、何処かに行く事とか。

家の中で日常的に行っている事までも止める事は出来ないので、これは仕方が無い。
例えば、ご飯を食べるとか、トイレに行くとか、ベッドに横たわって就寝するとか。

自分の外部に向けての、あらゆる行動を行っても、どこかでブレーキがかかってくるような気がする時がある。

こんな日は、本当に、休日にした方が良いようだ。

外に出ての仕事も乗らず、家の中での仕事も乗らず、外出先で友人達と会っても、どこか、いつもとは違う方向への「流れ」が生まれており、それによって、自分のライフに対して、納得のいかないものを感じるかもしれない。

自分の外部に向けての内で、どうしても、必要最小限にやらないといけないことは行った後、後は、自分の部屋に入った方が良いようだ。

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だけど、そんな日と言えど、全く必要性の無い日では無いことがわかる。

そんな日は、ひたすら、内省活動するのに向いている。

それとか、常日頃の自分のライフの流れを見直したりするのに向いているようだ。

あるいは、自分の心の状態を見直してみる。

あるいは、自分の部屋の中から、ずっと、外側を見るのに適した日かも知れない。
「外側」というのは、自分の目から見た、全ての事だ。
「自分の目」とは言わず、「自分の心」と言い換えられるだろう。
「自分の心」の外側に存在する全てのものを注意深く眺めることが出来ると思う。

「自分の心の外側に存在する全てのもの」とは、世の流れだったり、世の人々の心の流れかもしれない。

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自分の身に起きていることが、いつもとは違うから、いつもとは違った視点から、いつもは見慣れている「自分の心の外側に存在する全てのもの」に対して、違った角度から見ることが出来るかもしれない。

見慣れているものでも、少し角度を違えて見るので、新しい発見がそこに生まれるかもしれない。

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「何もしない方が良いと感じる時」と言っても、内省活動をしているので、結局、何かをしている事になる。

また、内省活動に似合っているのは、紙の上で筆を走らせることだろうか。

一つの日記を付けているとも言えるので、その日記に書かれたことを、自分なりに分析してみると内省したことになるだろう。

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不思議な時空間の中にいる時、自分一人の環境の中で思いを巡らすことも、何かが求められてのことかも知れない。

この原稿を書いている今は、桜の咲く季節だ。

桜の咲く季節というのも、日本では、特別の時間だと思う。

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なぜならば、「桜が咲く」というのは、一年の内で、ほんのわずかの間だ。

そのような一年の内で特別の期間とあるならば、私にも、いつもとは違った、ちょっと変わった時空間が訪れても不思議ではないように思える。


                                        坂本  誠

2017年3月13日 (月)

三千九十四: 港町を訪れる時(独白)

港町には、夕陽がよく似合う。
港町に押し寄せる、さざ波が薄く夕陽に染まるからだろうか。

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船の汽笛が、その情景に一滴の潤いを与える。

どこか絵になる雰囲気が漂う。

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「港町」は、旅人にとっては、陸地の果てを指す。

なぜならば、そこで大地が終わり、海の向こうの土地に行こうとすれば、その港町から出向する船に乗って、行かねばならぬから。

大地の果てる場所。
それが港町。

しかし、船旅を終える旅人にとっては、港町は大地の始まりを意味する。
旅人の足にとっては、その港町に記す自分の足跡が、その大地の上での第一歩となるのだから。
要するに、港町というのは一つの接点だ。

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そのような接点となる場所での、人々の集合・融合というのは、ある意味、特別な雰囲気をかもし出してくる。

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様々な人が集まってくるからだ。

地元の人もいれば、外国人のような遠国の人もいるだろう。

その混濁ぶりが、他の地域とは違ったものとなるようだ。

逆に言えば、港町のように、多くの外国人が訪れている地域を作ると、それが一つの呼びとなるのかもしれない。

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おそらく世界中の港町を見ても、同じような雰囲気があると思われる。

港町にやって来て、様々な目的の外国人を見かけると、人は、どこか異国情緒に触れるものだ。

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そのような日常とは違った生活の中に入り、ホテルの窓から港を眺めてみるのも良いかもしれない。

港のさざ波の動きが夕陽に染まっているかもしれない。

そのさざ波の動きに合わせて、グラスに注いだコニャックをも、手の中で、たゆたわせてみる。

すると、グラスのコニャックにも、小さなさざ波が生まれるだろう。

港の中の赤く染まったさざ波を、酒の肴(さかな)にしつつ、琥珀(こはく)色をしたコニャックのさざ波を、口に含んでみるのも、港町に訪れた旅人にとっては、乙(おつ)なことかも知れない。

赤いさざ波と琥珀色のコニャックの間に、どこか、何かの共通点を感じてしまうかもしれない。
そして、「自分は、今、夕日に照らされた、さざ波を飲んでいるのではないだろうか」と、人は錯覚するかもしれない。
その錯覚と酒を混ぜ合わせ、その味を胃の中や舌の上で楽しめるかもしれない。

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時折、港に腰かけて、人がトランペットを吹いている。

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その人は水夫ではないようだが、様々な文献や漫画の中には、船乗り達が港でトランペットを吹いている光景をよく目にする。

なぜ、船乗り達が、港の一角でトランペットをよく吹くのかわからないけれど、港町にマッチしている光景だ。

だから、港町に流れるBGM(Back Ground Music:背景音楽)とは、さざ波の音の上に、トランペットの旋律が流れ、時折、ワンポイントとして、船の汽笛がその旋律上に混ざることになる。

ある街の中に自然に生まれ、自然に流れているBGMに気付くのも、旅の一興だと感じてしまう。

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港町を楽しむ一つのコツは「時を止める」ということかもしれない。

旅の上では「接点」を現す、港町には、どこか異国情緒があり、その異国情緒と地元の雰囲気が混合している。

その混合具合を味わうには、その港町の過去に遡り、調べることが多くなるから、自然と「自分の内で時計の針を止めてみる」という志を持って、その港町を訪れた方が良いようだ。

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                                        坂本  誠

2017年2月16日 (木)

三千七十九: 桜の巨木を見ながら(独白)

家の近所をウォーキングしている最中に、桜の巨木の脇を歩く。

どれくらい昔から花を咲いているのか、わからないが、100年以上前から、そこにいるのだろう。

当然、この季節だと花を咲かせてはいない。

しかし、枝に手を触れてみるとわかるのだけど、既に、つぼみがふくらんでいるのがわかる。

その枝の先端のつぼみに軽く手を触れながら、その桜の巨木の枝ぶりを見てしまう。

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その枝の広がりを見ても、ゆうに一軒の家の敷地分は超えている。

地面から出ている幹の太さを図ろうとして、大人が手をまわしても、二人は必要だ。

周囲に誰もいない状態で、その桜の先端の枝先のつぼみを触りながら、その巨大さにしげしげと見とれてしまう。

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私は、その巨木に何かの巨大なパワーを感じてしまうのだ。

その「パワー」と言っても、人が物を動かす時に使うパワーとは、ちょっと違う。

何と表現して良いかわからないのだけど、とにかく、何かのパワーを想像してしまう。

そのパワーとは「生命力」と言われるものかもしれない。

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もちろん、桜は植物だけど、目の前の桜の巨木を見ていると、どことなく、眼前に鯨がいるように感じてしまう。

そして、もちろん、桜は植物だけど、私はその桜の巨大さからか、威圧感を感じる程なのだ。

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100年か、どれぐらいの時間かもわからないのだけど、今でも、少しずつ成長しながら、ずっと遠方に広がる海を見続けているのだろう。

巨大な桜の老木を目の前にして、その桜と語る一時というのは、何か深遠なものを感じてしまう。

それも日常生活から抜け出る一時なのかもしれない。

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「桜の巨木」というと、阿蘇の一心行の大桜を思い出してしまう。

先年の地震が起きた際にも、その桜の報道は聞かなかった。

だから、今でも阿蘇の一心行の大桜は阿蘇のすそ野に鎮座していると思う。

そして、また今年の春も一心行の大桜は、人や生き物を楽しませてくれると思う。


                                        坂本  誠

2017年2月13日 (月)

三千七十五: 私達の世界で起きている様々な比較を見ていると(独白)

以前のどこかの記事にも書いたかもしれないのだけど、他の人と比較をすると、たいてい、その比較をした人は不幸になってしまう。

なぜなら、隣の人の年収を知って、自分の年収額を気にしたり、隣の家の子供のテストの点数の方が高く、我が子のテストの点数の方が低いとなると、人は、すぐにも嫉妬を起こしてしまい、その嫉妬の心があるので、不幸感覚を得てしまうことがほとんどだ。

だから、私達の処世術の一つとして、「他人と比較しない方が良い」と言えると思ってしまう。

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ところが、私達の身の回りを見てみると、如何に比較する行為ばかりで占められいるかが実感できてしまう。

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上の例で行くと、「隣の人の年収額」が出てきたから、お金の数値によって、私達は生活の至る所まで、大量の比較行為が行われていることに気が付く。

上の例で行くと、「隣の家の子供のテストの点数」が出てきたから、学生に限らず、私達は社会の至る所まで、大量の比較行為が行われていることに気が付く。

私達の身の回りに、大量の比較行為が行われているので、冒頭からの流れによって、他の人を見て、容易に大量の嫉妬を起こしてしまい、その嫉妬の心が、私達の心の内部に不幸感覚を作ってしまうことがほとんどだ。

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すると人は、「だったら、私達の身の回りに、大量の競争を置かなければ良いだろう」と気が付くだろう。

そして、ほとんど多くの人は、自分の身の回りに大量の競争を自ら、あえて実行しようとしていないのに私達は気が付く。

だから、私達の身の回りに何気なく置かれている大量の競争行為は、いわゆる、お上(おかみ)と呼ばれる存在達が意図的に私達に与えていることに私達は気が付く。

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例えば「世界の子供の学力テスト」と言われるものが、世界中の数多くの教育に関する役所が共同で、同一のテストを作り、各国の子供達に、そのテストを受けさせるのだ。

そして、役所はその結果を報道会社に回して報道させて、多くの人々に見せているのだ。

その報道中には、例えば、「E国が1番であり、J国が2番であり、C国が3番であり、A国が4番であり、、、」と、こんな感じで報道されているのを、多くの人は見かける。

このような報道を見せつけられた世界の多くの人々は、いまだ自分の目では見ていない、世界の他の人々と競争させられたので、嫉妬心が起こり、多くの人が不幸感覚を得る(また、このような競争の報道によって、世界の人々の競争意識を無理矢理に高めさせられていることに私達は気が付く)。

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また、「世界の国々の内で、どの国が最も富んでいるか」の競争の結果を人々に知らせるためにも、経済関係の人はGDP(国内総生産)の数値を作り、このGDPの値を毎年毎年、広く報道させて、世界の人々を経済競争に巻き込んでいることにも、私達は気が付く。

この競争の結果からも、世界の多くの人々は、競争心を高めさせられたので、嫉妬心が生まれ、世界の多くの人が不幸感覚を得てしまうだろう。

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上に挙げた幾つかの例以外にも、私達は様々な競争を見つける事が出来る。

例えば、会社の売上高の成績とか。
数字だけではなく、会社の内部で、様々な役職名を作り、それがいわゆるランク付けされているので、会社の内部構造でさえも、競争だ。

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結局、私達の社会の中で「多くの人の目に付かぬように、イニシアティブを握ろう」としている人々は、地球上の多くの人々に競争させようとしていることに気が付く。

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多くの人々に競争心を植え付けるためには、様々なものを数値化した方が良いことがわかる。

例えば、子供達にテストをさせるのだけど、そのテストの結果は数値で表される。

また、個々の人々が「所有している」と思わされている、いわゆる「個々の人の富」の額を表すために、お金がある。
そして、上の例のように、そのお金の額の多寡により、隣の人との所持金の多寡を比較させられている。
私達の心の中に、競争から来る嫉妬心により、私達がいともたやすく不幸感覚を抱かせるようにしむけられていることに私達は気が付く。

あるいは、彼等は、私達の心に、多くの競争心を持たせようとしていることに私達は気が付く。

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ここから思い浮かぶ、彼等への対策の一つとしては、「数値で表現されているものに気を取られないようにする」ということだろうか。

私達の身の回りの多くの物や事柄を、数値化されてしまうことにより、その表現された数値によって、簡単に大量の比較行為が実行出来るようになっているのだ。

だから、私達の周囲に数多く存在している数値化された表現を、ほとんど無視する行為を実行すれば、良いことに気が付く。

確かに、今現在、私達の周囲に存在している大量の数値を、全て無視することは出来ないので、私達は極力意図的に、特に、人間に関わることが数値化されたものを、見ないようにした方が良いだろうと思ってしまう。

「人間に関わること」とは、たいていの場合、「個々の人間の能力を表せるもの」とか「個々の人間の所有している何かを数値的に表せるもの」と書けるだろうか。

大量の数値化が大量の競争を生む。
そして、大量の競争が私達の心の内部に多くの嫉妬心を作る。
そして、その多くの嫉妬心の結果、多くの私達が不幸感覚に陥る。
と、あるならば、私達は彼等の意図の逆を行わないといけない。
だから、私達は、身の回りに数多く書き表された大量の数値を軽視した方が良いとわかる。

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もっとも、「彼等は、なぜ、私達に大量の競争をさせようとしているのか?」という疑問が人の心に浮かぶ。

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彼等は人類支配をしたがっていた。
つまり、彼等は地球人類を奴隷にしたかった。
つまり、彼等の狙いで行くと、彼等は奴隷マスターの地位にある。

彼等が奴隷マスターであるので、本来ならば、どこかの何かの映画で見かけたような1シーンのように、奴隷マスター達が、その奴隷達に、激しく言葉を浴びせて、強制労働をさせていることになる。

ところが上記の映画のようなシーンを実行すれば、「彼等は奴隷マスターなのだ」と、簡単に誰もが気が付いてしまう。

だから、誰にも気が付かれないようにするには、彼等としては、以下のように考えただろう。

 「奴隷達が自分自身で、競争に励めば、良いだろう。だから、奴隷達の競争意欲を高めよう」

と。

こうすることにより、彼等は直接手を出さずとも、良くなる。
だから、彼等としては、私達の間に、競争意識を煽る(あおる)ような宣伝文句を、彼等なりのスピーカー(マスメディアとかだだろう)で、毎日、絶えず叫び続ければ良いことになる。

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その結果が「今、私達が眼前に見ている光景なのだ」と、人は気が付く。

「今、私達が眼前に見ている光景」とは、上で挙げた幾つかの例も含むし、様々なテレビや新聞でも伝えられているし、その他、日常生活で出会う様々な競争だろう。

彼等が多くの私達に競争意識を高めさせるには、何らかの報酬なり、あるいは、何らかの脅しを言わないといけなくなるだろう。

その競争意識を高めた結果の報酬としては、

 「あなたは、その競争に勝ったので、他の人々よりも優位に立っているので、気持ちが良いでしょ?」

とか。
あるいは

 「あなたは、その競争に勝ったので、その報酬により、他の人よりも多くの金銭を得たので、あなたが飢える心配はないでしょう」

とか。

そして、彼等としては、その競争社会から人が抜け出てもらっては困るので、脅しの文句としては、

 「あなたは他の人との競争に敗れたので、あなたの生活は苦しくなりますよ」

とか。
あるいは

 「あなた以外の外国人が技術競争に勝ったので、あなたの会社や国は、世界の技術競争に負けて、生活が苦しくなるでしょう。」
 
とか。

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このように改めて書いてみると、私達は16世紀ぐらいから20世紀まで続いていた「ヨーロッパ各国による、植民地拡大の時代」とか「帝国主義の時代」というのを思い出すだろう。

結局、私達は経済や技術面で、世界各国の人々と競争させられているのだが、その競争に勝った国が、負けた国を支配したり、経済的な植民地にする、という構図が、そのまま残されていることに気が付く。

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要するに、私達の間にばらまかれた大量の競争によって、世界の多くの人々は、その競争によって、互いを(経済的な或いは技術的な)敵と見なす癖を付けられてしまっている。

要するに、「多くの人の目に付かぬように、イニシアティブを握ろう」としている人々は、私達の心の内部に大量の争いを持ち込んだのだ。

大量の競争をもたらすことによって。

要は、彼等は大量の競争をもたらすことによって、多くの人の結束や絆を弱め、分断を図っている。

人は、互いの心の泉の内に滾々(こんこん)と湧き出づる、尽きることの無い友愛精神によって、我等自身の結束と幸福感と安らぎを高める筈であろうのに。

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要は、私のブログに時々出てくる彼等は、他の多くの人に欲の心を芽生えさせたり、あるいは、妬みの心を生まれさせるのに長けていた、というわけだ。

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日記のつもりで書いていた文章が、いつの間にか長くなってしまったので、あまり冗長になってもいけないので、この辺で筆を置きます。

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追加として。

あまりにもテレビを見過ぎない方が良いと思います。
なぜならば、テレビ中に出てくる「素晴らしい」と言われているような人物を見たり、華やかそうな生活ぶりを見たり、或いは、豪華そうな物品を見させられることにより、知らず知らずの内に妬みとか悔しさという感情を煽られるからです。

妬みや悔しさ或いは、それとは逆の優越感等を感じることによって、上記のように、不幸感覚を感じる方も多いと思われますので。


                                        坂本  誠

2017年1月14日 (土)

三千五十四: 楽園とは(独白)

楽園について考える機会があった。

普通、私達が「楽園」と聞くと、どのような世界をイメージするだろうか。
多くの人の念頭に浮かぶのは、「天国」と言われている世界のイメージだろうか。

そこには、お金も無く、人々が生きる際の苦しみは無い、と言われている。

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また、何かの目標があったとしても、そこでは、様々な人々の善意に満ち溢れた協力を持って解決されているだろうか。
また、天国と言うと、そのような場所には、私達の世界で見られているような「上司」とか「上流階級」という名称でランク付けされている「地位」というものも無いと思われる。

人々は、安らぎの中で、個人の目指した何かを求めているだろうか。

「楽園」という単語を聞いて、人が思い浮かべる光景というのは、大体、上のようなものかも知れない。

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「楽園」と言われている世界で、上のようなパターンばかりが繰り返されていると、人々は退屈してくるかもしれない。

その退屈自体が苦しみとなってくるので、逆に、ある人々は、生活の中で忙しさを求めるようになるかもしれない。

例えば、汗をかいたり、何らかの形で、自分の実行したい事に関して、自ら困難な状況を与えて、その困難を克服することにより、魂の爽快感を味わうのだ。

これは最初に挙げた「楽園」とは、ちょっと形式が違っている。

最初に挙げた「楽園」のパターンだと、生活が満たされているので、人が生ぬるい風呂に入って、生活し続けている雰囲気がある。

後者の場合は、自分の身の回りに、わざとハードな環境を作って、それを克服しようとしている所に、魂の喜びを感じるので、どちらかというと、前向きな人の幸福かもしれない。

スポーツ選手等が、自分の鍛え上げた筋肉に美しさを感じて、幸福感を得ている姿に似ていると言えるだろうか。

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上に挙げた二つの例の「楽園」を見てもわかるように、取り立てて、「楽園」と言われるものの、完全な姿があるわけではない。
一人一人の個性が違っているように、「楽園」と言われる状態も、それぞれの人によって違ってくる。

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だから、この世に無数の人がいるとするならば、その人の数分だけ、「楽園」と言われる状態も、数多く存在していることがわかる。

要するに、個々の人の追求しようとしている世界観そのものが、その人自身の楽園となって現れて来ることに私達は気が付く。
だから、「楽園」というものは、個々の人の追い求める幸福の状態とも言い換えることが出来る。

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そして、私達の現状を振り返ってみよう。

私達は幸福な生活を得ようと、誰もが追い求めて来た。

しかし、やんごとなき方々(一般に、「身分の高い」と言われている人々のこと)が言うには、「他社との競争に負けぬように、そして、他国との競争に負けぬように」と言いながら、激しい競争を強いられてきた。

その結果が、私達の社会で見られる長時間労働とか、終わりの無い競争生活なのだ。

そして、やんごとなき方々は、上のセリフを繰り返すだけなのだけど、「少なくとも、私達の見込みでは、この競争状態が、後3ヶ月ぐらい経てば、私達の激しい競争状態は終了し、地球上の全ての人々は、争いの無い楽園のような、つまり、幸福な生活を手に入れることが出来るだろう」とは、一言も言わない。

ただ、ひたすら、繰り返して、「この後、私達の競争状態は、永遠に先鋭化(何かの先端が、もっともっと鋭くなっていくこと)し続けていくだろう」と、言っていることに過ぎないことに、私達は気が付く。

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彼等は、永遠と言える程、私達に競争を進めていることに、私達は気が付く。

そして、例えば、彼等が言うには、「あなた達がお互いに永遠の競争をし続けないと、お金が手に入らないようにしたので、さらに、多くの物品の交換は、お金を仲介しないと手に入らないように人間社会をセットしたので、あなた達は飢えて死にますよ」という類の、脅迫の言葉が私達にかけられているような気がしてくるだろう。

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少なくとも、私が冒頭で例を挙げた「楽園」を作り出す狙いは一つも無いことがわかる。

つまり、カバールやイルミナティや、やんごとなき方々の望むライフ・スタイルというのは、彼等以外の人々に、奴隷労働させて、彼等自身は、多くの人々の上で、ふんぞり返っていることが、いわゆる、彼等の「楽園」のスタイルだという事になる。

私が上に書いたように、それぞれの人によって、「楽園」の状態は、一つ一つ違っているのだから、彼等が「これが私の目指している楽園です」と言っても、理解できる。

しかし、もっとよく見てみると、彼等以外の多くの人々は、長時間労働や永遠の競争にさらされて、心身が破壊され、多くの苦痛を感じるので、彼等以外の多くの人々にとっては、「そのような世界は楽園では無い」ということになる。

カバールやイルミナティやイルミノイドや、やんごとなき方々は、「この世界は楽園だ」と感じていても、彼等以外の多くの人々は、「この世界は楽園ではなく、永遠の闘争の世界に、彼等が誘導しようとしている」とわかるので、両者の間の認識違いによって、矛盾した世界が、私達の眼前に出現することになる。

これが私達が現在見ている世界だ。

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ちょっとだけ、話が横に反れるのだけど、もっとも、カバールやイルミナティは、彼等以外の地球の全ての人々を「奴隷」と見なしているのだから、このような世界が出現しても、当然だったかもしれない。

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もっとも、私が以前、どこかのHPで見た記憶があるのだけど、カバールやイルミナティは、彼等以外の地球の全ての人々を、正確には、「奴隷」として見ておらず、正しくは、彼等以外の地球の全ての人々を「家畜」として見なしている、と書かれてあった。

しかし、こうなれば、カバールやイルミナティにとっては、苦しむべき点が出て来ると思う。

なぜならば、彼等が言うところの「家畜」と同じように、彼等は、毎朝、トイレに行き、便器に座って、彼等が言うところの「家畜」と同じスタイルで用を足すからだ。
私達と、何ら変わっている所は無い。

また、私達が食べている食べ物と、彼等が食べている食べ物も非常に良く似ている。

また、思考形態も同じであり、彼等と私達が同じスタイルで、子孫を増やしている。

また、何と言っても、彼等と私達の容姿は、全く同じ人間の肉体を持っている。
だから、私達は、彼等の容姿を使ってでは、見分けることが出来ない。

だから、たとえ、彼等が、わななきながら、「神よ、なぜ、あなたは家畜とは違っている肉体を我々に与えなかったのか?」という、神への冒涜(ぼうとく)の言葉を放っても、もし神という存在がこの世にいるとするならば、その神は沈黙を守り給うかもしれない。

この点から、カバールやイルミナティのセリフを考えれば、「我々(カバールやイルミナティ)が、我々が家畜と見なしている奴らと、同じスタイルで、何もかも済ます事自体が、我々の苦しみでたまらない」という、その苦痛自体が、その彼等の優越感を傷つけられているからこそ、地球人類の奴隷化(家畜化)を目指していると言えないだろうか。

彼等の優越感を保つために。

話が横に反れ過ぎたらいけないので、簡潔に書くのだけど、「彼等(カバールやイルミナティ)の欲望は止まる(とどまる)ところを知らない」と、誰もが気付いていくだろう。

どんなに物資が豊富になっても、また、どんなに彼等の富が膨れ上がっても、彼等は満足することを知らないから、彼等の心の中は、「無限に飢えて、渇望(かつぼう)している」という状態であることが私達はわかる(つまり、彼等は幸福ではない)。

つまり、この状態の人間というのは、いわゆる、「最貧の人間」ということになってしまう。

なぜならば、どんなに大量の物資を所有しても、それに飽くこと無く、求め続けるのだから、彼等の心は、「最も貧しい者」と言えるのだから。

だから、通常、私達が彼等の所有している、お城のような家を見ても、彼等の所有している、何台もの専用飛行機を見ても、彼等の所有している、何台ものスポーツ・カーや何台もの高級車を見ても、心を動かさない方が良いことがわかる。

人の間で「最も富む者」と言われるのは、他ならぬ「自分自身に満足する者」であるのだから。

だから、彼等が一切の物に満足できないとあるならば、どうして、「彼等は富む者だ」と言えようぞ。

だから、この上の理屈から言えば、彼等は永遠と言える程に「飢えた者」と言えるので、「彼等こそ、最貧の人々だ」と、私達は言えることに気づく。

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話が横に反れ過ぎたので、本題に戻すのだけど、要するに、私達は生まれてから、今日に至るまで、カバールやイルミナティの、こっそりと(サブリミナル的に)推奨している競争世界に、どっぷりと洗脳教育され続けている。

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このような世界で、誰かが、何かの競争で一番になって、その快感に酔い知れれば、カバールやイルミナティにとっては、御の字なのだ。

カバールやイルミナティは、その何かの競争で一番になった人間を使って、さらに、この世界を競争に溢れさせるようにするのだ。

その結果、カバールやイルミナティにとっては、彼等流の楽園が得られるのだけど、地上に住む多くの人々にとっては、競争社会が生まれるので、闘争と長時間労働が流行って、いわゆる、楽園の世界からは程遠い、私達の見慣れている闘争社会が出現することになる。

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だから、わかりやすい例を考えると、世間一般に言われている、GDP(国内総生産)の値とか、「世界の子供達の学力テストの結果」という類の報道を見ない方にした方が良いと思う。

なぜならば、GDP(国内総生産)の値を使って、他の国との経済競争を進めるために、私達の心に競争意識を高めることが出来るのだから。

また、「世界の子供達の学力テストの結果」を私達が見て、他国の上にいる、数多い外国人の子供達と我が子との競争意識を高めることが出来るのだから。

その結果、私達が競争に苦しむのだから。

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ここまで来たら、私達がした方が良いことが見えてくる。

それは、(カバールやイルミナティの作った)私達の忙しい日常生活によって、通常は忘れてはいるけれど、幼い頃に心の中に思い浮かべていた筈の、私達の「楽園」の姿やイメージを思い出すことだ。

私達は幸福になるために生まれてきた。

とりもなおさず、「幸福になるために生まれてきた」ということは、私達は心の奥底で、「私達は私達の手で楽園を創造したい」という願いを、誰もが持っている。

だから、生まれてから、今日に至る、この日まで、私達は、カバールやイルミナティのこっそりと推奨している競争社会のイメージを洗脳教育され続けてきたのだけど、それらを一切、忘却の淵(ふち)に流し去って、一人一人の胸の底に秘められた、私達の、私達による、私達のための、「暖かい楽園」のイメージを思い出すことが大事なのではあるまいか。

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                                        坂本  誠

2016年12月31日 (土)

三千四十七: 大晦日という日に感じること(独白)

           2016年12月31日

今年も、大晦日になった。
一年の締めくくりの日だ。

なぜか、この日は、ホッと肩を降ろす気分になる。
それは、1年の365回の日々を越えてきたからだろう。

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だから、私は幼少の頃から、実はお正月よりも大晦日の方が好きなタイプだ。

お正月、つまり、1月1日になると、私は以下のように思うものだ。

  「また、一年が始まる。365日を越えていかないといけないのが、なんとなく厄介に感じるな」

と。

だから、一年の区切りとしては、大晦日の方を好むタイプだ。
また、その一年の重荷を降ろしている感覚もあるのだから。

だから、大晦日には「今年もやり終えたな」という気もする。
それは、マラソンで言うならば、「ゴールに来た」という感覚に似ている。

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一年を振り返るために、なんとなく、身近な近所を散歩しているケースが多い。

ふらふらと歩いている途中で、色々と思い出していくものだ。

ぶらぶらと歩くからか、それとも一年の終わりで、日が短いからか、なぜか、この日には、よく夕陽を見てしまう。

大晦日には夕陽が似合う。
いかにも、一年という月日の全てが、夕陽と共に沈みこんでいくかのようだ。

当然、外を歩き回るせいか、自分の住み慣れている土地を見渡す。

いつもとは違った心の状態で、住み慣れた土地を見回すせいか、初めて、この土地を見るかのような錯覚に陥ったりもする。

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普段、私達は、自分の住み慣れた土地について、じっくりと感謝の気持ちを持って見ることが少ない。
なぜならば、毎日、自分の土地に住んでいると、自分の土地の長所が見えなくなってしまうのだから。

誰でも経験があるかもしれないが、ある日数だけ、どこか、よその土地に旅行した後、自分の土地に帰ってくると、まるで、初めて見たかのように、自分の住み慣れている土地を、新鮮な目で、味わい深く見ることが出来る。

(ここから考えると、自分の土地をよその土地の人々に多く紹介したいという職業に携わる人は、その人自身がよその土地への旅行好きになってみるのが良いと思う。なぜなら、よその土地に訪れた時に、ふっと自分の街のあれこれを思い出してみると、旅人の視点で、自分の街を見直すことが出来るからだ。そんな時に、自分の街に対して、何かの新たな再発見をすることが多いと思う。)

そんな感じで、故郷の土地を、新鮮な目で改めて見直すのも、私にとっては、この大晦日の日であることが多い。

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こんな感じで、大晦日やお正月という、一年でも特別な日に、いつもと同じことをしてみるのも面白いかもしれない。

特別な日だからこそ、いつもと同じ行動を起こしても、その行動を起こした日は、「特別な日の特別な雰囲気」というものをまとっているのだから、いつもと同じ行動から得られる、その結果に対しても、かなり違った結果が得られて面白いかもしれない。

今年も一年間、ありがとうございました。


                                        坂本  誠

2016年10月31日 (月)

三千十: 盗まれた時間(独白)

秋の夜。
大型商業施設に訪れる。

昼間は大勢の人で賑わったかもしれない。

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しかし、通りを歩いている人の数は、徐々にまばらになってゆく。
少しずつ少なくなってゆく人々の姿が、揺れ動く影法師のようだ。

フライド・ポテトをくわえながら、窓から施設の外を眺める。
秋の夜は長い。
そして静かだ。
施設の内部には、音楽が流れている。
それらの音楽は、秋の世の静けさを助長しているかのようだ。

時が止まっているかのように思える。
いや、自分で時を止めたのかもしれない。
その、自分の止めた「時間」そのものを、何時間か、味わってみる。

秋の夜の静けさに、魂が抜き取られそうな気がする。
要するに、多分、今、自分は瞑想をしているのだろう。
周囲の人は、「あの人は、ぼんやりしている」と見るだろう。

なぜかはわからないが、大型商業施設で秋の夜を味わいたかった。
秋の夜の美しさを堪能するためには、「特に理由は無いのだけど」という理由を作って、まばらになってゆく人並みを見ながら、何気なく、夜空にかかるペガサスを見上げるのが、乙なのかもしれない。


                                        坂本  誠

2016年10月24日 (月)

三千八: 私達の社会を考えていた時の私の独り言

(ちょっと、長めの文章となってしまいました。)

何の本に書かれていたのか、今では、思い出せないのだけど、心理学関係の本だったと思う。
その本が言うには、確か、「独裁者(王侯貴族を含む)の心理状態は、乳幼児の心理に似ている」というくだりがあった。

独裁者と言わず、王様で考えたほうが良いだろうか。
王様は多くの召使や手下や家来(けらい)を持っている。
だから、王様の口から出る命令に従って、王様の望む物や状態が手に入れられる(ように見える)。

その結果、次第に王様は、かなり依存的な性格に陥っていく。
この「依存的な性格」というのは、「乳幼児がイスに座っているだけで、口を開けているだけで、他の誰かがその口の中に、自然に多くのお菓子やチョコレートを入れてもらえるだろう」と思い込む心理だ。

さらに進むと、王様にとって、自分の周囲の人間は、全て家来だから、

    「おまえ達の動き(行動)が悪いので、私(王様)が不幸になるのだ」

という家来に対する王様の思いになってくる。

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つまり、王様は、王様の配下にいる多くの家来達が、王様の幸福を大量に持ってきてくれる、と思い込むようになる。
要するに、王様の喩えを使っているけれど、この王様の心が、冒頭で書いた乳幼児の心そのものだとわかる。

つまり、その心理学の本は、「王様や独裁者と言われる人達の心理状態は、乳幼児の心と非常に似ている」と書いていた。

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この王様や独裁者達の幸福というのは、その彼以外の多くの家来達が、彼に幸福を運んでくるのだから、王様や独裁者達というのは、口を動かすだけで、つまるところ、本当の自分の幸福を一切作っていないことになる。

だから、王様や独裁者達は、彼の多くの家来達に対して、非常に大きく依存した心を持つようになる。

つまり、王様や独裁者達は、上にも書いたように、「乳幼児がイスに座っているだけで、口を開けているだけで、他の誰かがその口の中に、自然に多くのお菓子やチョコレートを入れてもらえるだろう」という心を持つようになってしまう。

ところが、自分で探さず、他人が持ってきた、お菓子というのは、誰でも口に合わない事が多い。

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なぜならば、どんな人でも、真に自らの努力を行使して、獲得した達成感こそが、その人の幸福となるのだから。

王様や独裁者達というのは、口を動かすだけなので、真に自らの努力をしたわけではなく、自分の欲しいお菓子を他人(家来達)に探してもらい、持ってきてもらうだけなので、それは、王様や独裁者達の真の幸福とはなりえない。
王様や独裁者達が自分で努力をせずに、他人(家来達)にさせたので、王様や独裁者達が自らの内に「達成感」を得られない。
だから、家来達の持ってくる、どんなお菓子でも、次第に味気無いものになってくるので、王様や独裁者達は始終、不幸感覚や不満感覚を持つようになる。

その強い不満の理由というのは、「おまえ達の動き(行動)が悪いので、私(王様)が不幸になる」というのだけど、つまり、自分の幸福を一切自分で作っていないからこそ、その強すぎるまでの不満を持つことがわかる。

「依存的な性格」というのを、わかりやすく書くと、「甘え」ということになる。

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ここから、人が実感できることは、「自分の幸福は自分が作らなければいけない」ということだろう。
だから、他人に対して、周囲の人々に対して、終始不満を抱いている人は、依存的な性格を持つ人だ、とわかる。

そして、人が理解できることには、「自分の不幸は自分が作っている」あるいは「自分の幸福は自分が作っている」ということだろう。

例で考えている王様の不幸の原因は、他ならぬ、彼の依存的な心そのものが、彼の不幸を作り出していることがわかるから。
王様自身は、「私(王様)の不幸は、私の周囲の家来達が作っている」と、かたくなに信じ込んでいる。
しかし、彼の周囲の家来達から見れば、あるいは、この記事の読者の目から見たら、「王様の依存的な性格自体が、王様自身の不幸を作っている」と、気がつく。

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まず、「カバールやイルミナティ自身が、依存的な心を持つ人々だ」、と、人は気が付く。
なぜならば、カバールやイルミナティは、「地球上の全ての存在を、自分達の奴隷(家来)にしたい」と願って、実行しているのだから、上の例で考えているところの、王様や独裁者である、と、人はわかるのだから。

だから、カバールやイルミナティからしてみたら、「なぜ、地球上の多くの我等の奴隷達は、我等の言う事や命令を実行しようとしないのか?」という、強い不満を持っているだろう。

しかし、カバールやイルミナティ達の、彼等の苦しみや不満も、上の流れからわかるように、「カバールやイルミナティ自身が、自らの苦しみを作っている」と、人は納得できる。

(初めて、私のブログに訪れて、初めて、この記事を読む人のために、抜粋した参考ビデオを以下に紹介しておきます。)

『三百十九: イルミナティについて 』
●ジェイ・パーカーインタビュー①
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2013/09/_no35-53fe.html
http://www.youtube.com/watch?v=W02bxSqtc-I



●ジェイ・パーカー:
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字幕:「ジェイ・パーカー:どの様に3400万人の悪魔崇拝イルミナティアメリカ人達が地球を混乱させ続けるよう助けているのか。」
「イルミナティや他の闇のカルトネットワークはおそらく、9600BCの地球大変動にまで遡ります。」
「大変動の後に、地上の人類は衝撃と落胆の状態にありました。」
「私の調査からその特定の時代は、、、、闇のカルト信者達はインドやバビロンでの文明の再起動において、決めたのです。」
「地球全体を支配してもいい筈だとね。」
「人々を闇に閉じ込め続け、私達は基本的には邪悪な司祭職になり、そして彼等のマインドを支配するんです。」
「ですからその様にして彼等は神よりも金持ちになったのです。」
「そして一旦お金を持つと、政治家や王族を腐敗させる事が出来ますし、そして基本的にはゆっくりと社会を支配していく事ができるのです。」
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『三百二十四: イルミナティについて_No.2』
●ジェイ・パーカーインタビュー②
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2013/09/_no2-299b.html
http://www.youtube.com/watch?v=b-MG_sojSz4

『三百二十八:イルミナティについて_No.3』
●ジェイ・パーカーインタビュー③
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2013/09/_no3-d233.html
http://www.youtube.com/watch?v=9RJHhwVbeiw

『三百三十七: イルミナティについて_No.4』
●ジェイ・パーカーインタビュー④
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2013/09/_no4-9e49.html
http://www.youtube.com/watch?v=9Gl-yNEoGyI

『三百七十二: イルミナティについて_No.5』
●ジェイ・パーカーインタビュー⑤
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2013/10/_no5-8806.html
http://www.youtube.com/watch?v=mFOCLxd4L8Q

『三百七十四: イルミナティについて_No.6』
●ジェイ・パーカーインタビュー⑥
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2013/10/_no6-92d4.html
http://www.youtube.com/watch?v=N6hVD-9ybhA

『千三十二:イルミナティについて_No.17』
●ロスチャイルド 元イルミナティ ジョン・トッド氏の証言1/11 #illuminati #rothschilds
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2014/04/_no17-534a.html
http://www.youtube.com/watch?v=YLN1cLqD2uU

(上記ビデオより抜粋引用)
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それはキリスト教の本ではなく、政治の本でもなく、イルミナティの本です。
この本は、当時イルミナティのリーダーであったフィリップ・ロスチャイルドによって命令され、書かれて出版されました。

そして本に書かれていることは、全米を乗っ取ることによって全世界を段階的に乗っ取る計画です。
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また、カバールやイルミナティは、「地球上の全ての存在を、自分達の奴隷(家来)にしたい」と願って、実行しているのだから、彼等なりの養成教育を、多くの人々に対して、実行しないといけない。

それが現代の資本主義システムだ。
まず、この世は資本主義システムで作られた、巨大ピラミッド型をしており、その巨大ピラミッドを構成するルールは、主に所持金の多寡によっている。
そして、カバールやイルミナティが、そのお金を作り出す権限を持っている。
だから、巨大ピラミッド型の私達の社会のトップ近辺に、カバールやイルミナティ達がいる。
このカバールやイルミナティが、現代で言うところの、「王様や独裁者達」であることがわかる。

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また、カバールやイルミナティが彼等の作った帝国の中に、数多くの家来達を入れさせておくためには、その数多くの家来達に対して、「カバールやイルミナティの作った巨大ピラミッド社会は、非常に素晴らしいもので、また、これ以外の社会システムは存在しないのだ」と、盲信させる必要がある。

だから、テレビや新聞等で、「金持ち達の生活は、この上なく素晴らしく、かつ、幸福なのだ」という手合いの、大量の番組や大量の記事が頻繁に流されていることに、人は気付く。

これは、ある意味、当たっているかもしれない。
なぜならば、現代に生きている私達は、「お金が無ければ生きていけないよ」というライフ・スタイルを与えられているから。

しかし、この「(カバールやイルミナティの作った)お金が無ければ、あなた達は死にますよ」という、脅迫を与えつつ、カバールやイルミナティは、お金をこの世に配布しているのだけれど。

「この理屈(金融システム)を使えば、カバールやイルミナティは地球上の全ての人間を奴隷(家来)にすることができる」ということを人はわかる。

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また、カバールやイルミナティは人々の欲心を引き出すことにも長けている。

上にも書いたのだけど、テレビや新聞等で「金持ち達の生活は、この上なく素晴らしく、かつ、幸福なのだ」という手合いの、大量の番組や大量の記事が頻繁に流されれば、人々の間で、「金持ちが羨ましい」とか「金持ちの方が素晴らしい」とか「私は金持ちになりたい」という、欲の心が人に芽生える。

(その「私は金持ちになりたい」という願望が、実はその人自身をイルミナティのステータスに近づけさせていくのだけど。)

このように、カバールやイルミナティは多くの人々の心の中に「欲」の心を芽生えさせる技術を持っていたのだ。

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結果として、カバールやイルミナティの思想教育や洗脳教育を受けたために、人々も、依存的な心を持つようになったのだ。
彼等の洗脳教育を受けたために、人々も「私も王侯貴族になりたい」という欲の心が芽生え、結果、依存的な心が形成され、冒頭に挙げたような苦しみや不満を持つ人々が大量に育成された、と考えてしまう。

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また、ひょっとしたら、テレビ局や新聞社だって、金持ちを賛美するような番組や記事を報道したくないかもしれない。

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しかし、テレビ局や新聞社でも、現在では、社員等に支払う給与という名のお金を、どこからか入手しないといけない。
だから、番組作りや広告作りの時の、スポンサー(顧客)との打ち合わせの際に、スポンサー(顧客)から「金持ちを賛美したり、資本主義システムを賛美するような番組や広告を出してください」と、言われたら、テレビ局や新聞社が顧客(スポンサー)に、あまりにも逆らうわけにはいかない。

なぜならば、あまりにも、顧客(スポンサー)に逆らうと、その顧客(スポンサー)がお金をくれなくなるから。

結果、情報も金によって、歪曲することができる、と私達はわかる。

また、カバールやイルミナティが直接、マスメディアを操作しなくても、上記のように、「この世界で、お金こそが絶対のちからを持つ」というように社会をセットし続けていれば、間接的に、お金を使って、何も言わずとも、マスメディアを操作することができる。

カバールやイルミナティが、「(カバールやイルミナティが作っている)金銭こそは、この世の絶対権力を持つものだ」と、過去から現在に至るまで、セットし続けてきた理由は、ここにあるのだ、と、人は納得することが出来る。

つまり、カバールやイルミナティは世論操作する方法にも長けていたのだ。

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また、テレビや新聞等で、「新商品が新発売!」という手合いのCMや広告を大量に流されている。

このようなCMや広告を人が見る結果、人は、自分が現在手にしている物品を、まだまだ長く使えるのだけど、「新しい品を手にしている方が、周囲の人が見たとき、自分をカッコ良く見たり、ハイカラに見たりするだろうし、また、トレンドなようにも見えるだろう」と考えるだろう。

結果、まだまだ、長く使用できる、自分の手中にある品を、簡単に捨てて、新たな新商品を買ってしまって、お金を損しているケースも多いことだろう。

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つまり、上記に書いてきたような、カバールやイルミナティが過去から延々と作り上げてきた、現代の資本主義システムの中で、人が生活していると、人が忘れてしまうことがある。

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その「忘れてしまうこと」とは「足ることを知る」だろう。
私達の身の回りには、十分に生活していけるだけの物資があり、十分に「足り」ているのに、その「足ること」を忘れて、次から次に、店に並び続ける新商品を追いかけるようになる。

この結果、人は充足の心を忘れ、「次々に新商品を追いかけ続ける」という衝動の心そのものに、その人は苦しめられるようになる。
つまり、欲の心を掻き立てられ、その欲心自らにその人は苦しめられる。
そして、人はその状態に気付きにくい。
また、新商品を追いかけ続けるので、現実に、その分だけ、お金を損し続ける。

要するに、ここでも、カバールやイルミナティは、人に欲心を芽生えさせるのにも長けていたのだ。

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まあ、カバールやイルミナティ自身が、非常に、依存心の強い人間なのだ。
彼等の欲する、奴隷達が、彼等の周囲から立ち去れば、彼等は何も出来なくなるだろう。

王様の周囲に、家来達が一人もいなくなれば、その王様は何も出来なくなるのだ。

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徒然なるまゝに、心に思い浮かんでは、消えていく、カバールやイルミナティや、彼等から生じた私達の社会の事に対する、独り言を、心に思いつくまま、だらだらと書き続けていたら、つい、長々と書いてしまい、あやしうこそ物狂ほしけれ。

(この辺で、筆を置きます。)


                                        坂本  誠

2016年5月11日 (水)

二千九百六: 自分の幸福について考える(独白)

自分の幸福について、ぼんやりと考える機会がある。

過去の自分を振り返ってみて、「どんな時が、良い思い出として、一番長く記憶に残っているか」を巡らしてみる。

私にとって、それらは風光明媚な景色のある観光地を巡った時の記憶だろうか。
また、リラックス・ミュージックを聴きながら、我が家の猫を抱き、撫でてあげながら、うたた寝をしている時だろうか。

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このような記憶が私にとって、一番の幸福の記憶として胸の底に流れているようだ。

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だから、世に言われているような幸福とは、かなりかけ離れている事に気が付く。
世に言う幸福だと宣伝されていることは何だろう。

例えば、ある有名な学校に進学できたとか。
あるいは、テストで良い点数を取ったとか。
そのような学校を卒業できたとか。
あるいは、どこかの有名な会社に入社できたとか。

あるいは、結婚も幸福な出来事と言われているようだ。
あるいは、出産だろうか。
または、会社の内部の昇進や昇給だろうか。

////////////////////////

こんな感じで、数え上げると、世に言われている「幸福」というものは数多くあるだろう。
それらの巷に言われている「慶事」と呼ばれているものは、本当に幸福な出来事と言えるのだろうか。

例えば、昔の世界では「政略結婚」というものがあった。
この「政略結婚」というのは、政治家の家系の人間が、何らかの政治的な手段により、「お近づき」の間柄になるために、家族の内部の誰かを無理矢理、結婚させたものだ。
だから、当事者同士が愛しているかどうかは、全く問題とされない結婚だった。
だから、「政略結婚」させられた男女は、不幸だったかもしれない。

だから、世に言う「結婚」というものも、本当に幸福な出来事とは言えない事が私達にわかる。

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こんな感じで、世に言われている「幸福」とか「慶事」とか言われている出来事を見直してみると、いかにも、浅はかさを感じてしまう。
「どこかの学校に入学できた」とか「どこかの学校を卒業できた」とか「どこかの有名な会社に入社できた」という記憶を持った人でも、後から、ゆっくりと、それらの出来事を思い返してみると、そんなにそれらの出来事に幸福を感じた人はいないのではないだろうか。

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というのも、上に挙げた「ある有名な学校に進学できた」とか「結婚した」と言われるような出来事を考えてみよう。

これらの巷に言われている「幸福」と言われる出来事は、私達が生まれて以来、「結婚とは幸福な事なのだ」とか「有名学校に進学することは素晴らしい事なのだ」と、どこかの誰かから、聞いただけに過ぎない事がわかる。

だから、あなたが、たった今、生まれたばかりの赤ん坊だとしてみよう。
今、この人間社会の事を始めて、あなたは見ている。
だから、今のあなたの頭の中には、「結婚とは幸福な事なのだ」とか「有名学校に進学することは素晴らしい事なのだ」という、言葉による記憶がインプットされていないはずだ。

だから、「結婚とは幸福な事なのだ」とか「有名学校に進学することは素晴らしい事なのだ」という言葉は、2,3人の人、あるいは、もっとたくさんの人、あるいは、テレビなどの媒体が、必死になって、上記の事を喧伝していただけに過ぎない事がわかるだろう。

だから、今現在、赤ん坊である、あなたが、他の誰かから、「結婚とは幸福な事なのだ」とか「有名学校に進学することは素晴らしい事なのだ」と、聞いたら、あなたは、それを言ってきた人に以下のように尋ねるのではないだろうか。

  「なぜ、結婚をすると幸福なのですか」

あるいは、

  「なぜ、有名学校に進学することは素晴らしい事なのですか」

と。

////////////////////////

このような感じで、上記に挙げたような、いわゆる巷で喧伝されている「幸福」あるいは「慶事」と言われている出来事は、他の誰かが、「これらは素晴らしい出来事なのだ」と、無理矢理、決め付けていた事に気が付くだろう。

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だから、上に幾つも例を挙げたのだけど、いわゆる「人間社会の幸福」とされている出来事は、他の誰かが作った「レール」であることが私達にわかる。
そして、その誰かの作り上げた「社会のレール」あるいは「幸福のモデル・ケース」を、「あなたが追いかけると、あなたも幸せになれますよ」と、洗脳作業されていることに私達は気が付くだろう。

つまり、私達は、その誰かの作り上げようとしている大河の流れに、流されようとしている事がわかる。
当然、その「社会のレール」から外れれば、彼等の言う「幸福」を手に入れられないことになり、これも彼等が言うところの「不幸」を、あなたが味わうであろう、と言う風に、暗黙の脅しもかけられている事に人は気が付く。

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だから、冒頭にも書いたように、「自分の幸福として、ずっと長く記憶に残っているのは何か」と自分に尋ねながら、自らの胸の中を探っていくと、世に言われている「慶事」と言われる出来事を、あまり「幸福な記憶」として、残っているものは、あまり無い事に人は気付くだろう。

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本当に、人が幸福な出来事として、自らの胸の中に残っているものを探してみると、人によって、かなり違いがあるだろう。
しかし、少なくとも、私にとっては、冒頭に挙げたように、風光明媚な景色のある観光地を巡った時とか、リラックス・ミュージックを聴きながら、我が家の猫を抱き、撫でている、とか。

そんなものだろう。

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他の人にとっても、「これが本当の自分の幸福な記憶だ」と言えるのは、上に挙げた世間で伝わっている進学とか結婚とか入社とか昇進とか、そのようなものではなく、もっと、ずっと、たわいも無いものだろう。

要は、進学とか結婚とか入社とか昇進とかの出来事が、「これらが人間社会の幸福な出来事ですよ」と、他の誰かから伝えられて、熱心な吟味をすることも無く、ただひたすらに、「それらが私にとっての幸福な出来事なのだ」と、かたくなに信じていただけに過ぎない事がわかる。

だから、人は、「進学とか結婚とか入社とか昇進とかの出来事が、『これらが人間社会の幸福な出来事ですよ』という、心理的な洗脳作業を受けていた事がわかるだろう。

そして、多くの人が、「これらが人間社会の幸福な出来事ですよ」と吹聴していたり、あるいは、テレビや新聞やその他の媒体でも、一斉に盛んに、報道されるような雰囲気で、「進学とか結婚とか入社とか昇進とかの出来事が、人間の幸福ですよ」と宣伝されていたので、私達は巨大な洗脳作業を受けていた事がわかる。
そう、まるで大河に流されるかのように。

私達は無理矢理に走らされているのだ。

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だから、私達が一人一人の幸福を手に入れるためには、今まで、強力に刷り込まれた、この強い思い込み、つまり、この洗脳内容であるところのプログラム・データを抹消しないといけないだろう。
コンピューターの中のハードディスクを、全てフォーマットするかのように。

次の作業としては、以下の事になるだろう。

他の誰からも、「その行為は幸せな行為とは限らない」と言われている行動に、個々の人が幸せを感じるかどうかだ。
私が冒頭に挙げたのは、「美しい風景を見ること」と「音楽を聞きながら、猫でも抱いてうたた寝すること」だった。
これでも、人の間で幸福と言われていることかもしれないけれど、「全くの先入観無しに、他の誰かの意見にも全く関係無く、ある行動や行為に、自分が至上の幸福を感じる」というポイントが大事だと思う。

人によって、そのような幸福の行為は違っているだろうから、それは個々の人がそれぞれに吟味しないといけないだろう。

そうやって、全く、他の誰かが言い伝えてきたような幸福の価値観や他の人の意見に左右されず、まったく、自分の内部から湧出してくる感情のみで、「これが自分にとっての幸福な行為だ」と納得できるので、それが、本当の幸福だ、と、人は実感するだろう。

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結局、巷で騒がれ続けている、上記のような「幸福のモデル・ケース」に、心をかき乱されずに、一人静かに、その人の真の幸福を目指して歩んでいけるようになるだろう。

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要は、世間一般で言われている「あれが幸福だ」、「それが幸福だ」、「これが幸福だ」と言われているものは、あなたを惑わす、一種のツールだ。
あなたを惑わすツールなのだから、結局、それらの売り言葉の中に盛んに出てくる「幸福な出来事や行動」は、結局、「あなたにとって幸福なものではない」と実感するだろう。

幸福というものは、結局、「他の人があれそれを言っているものではなく、自分で決めるものだ」と、人は気付くだろう。


                                        坂本  誠

2016年5月 9日 (月)

二千九百五: 神と彼等の事を考えて(独白)

もし、この世に神様という存在がいたとしても、それは絶対に完全な存在では無いと考えてしまう。

私が考えやすい上で、「神」という単語を使っているのだけど、人によっては「至上の存在」とか、「宇宙を統べるもの」という、様々な別の言い方があるかもしれない。
そのような存在は、私達にエネルギーや物資を補給してくれているのかも知れない。
しかし、「私達がカバールやイルミナティに付き合わされた」という事に関して考えると、あっさりと書いてしまうのだけど、神は私達に謝罪した方が良いと感じてしまう。

私が感じるに、私達、人間はカバールやイルミナティを改心させるために、付き合わされたのだと感じてしまう。
「改心」というからには、カバールやイルミナティの心情を改めさせるための説得行為だ。

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しかし、現実に起こった私達の歴史を見てみると、この「改心」を狙った説得行為も、ほとんど功を奏さなかったと思う。
それどころか、彼等とお近づきになった人々は、彼等の影響を受けて、彼等の子分となった人々も多いと思う。
結局、彼等に対する改心のための説得行為は、逆に彼等の手下となってしまうことがわかった。

(つまり、彼等に対する説得行為は無駄だと感じてしまう。)

現実に、悪魔儀式をしているという人々ならば、それを周囲の人々が見るに、あっさりと「悪魔儀式をしているという人々ならば、それは悪魔の人々ですね」と言われても仕方無いものもあると思う。

あっさりとわかりやすい表現で書くのだけど、彼等をガン細胞に喩えたい。
そのガン細胞を抑えたり、元の綺麗な細胞にするために、正常な細胞が彼等に立ち向かったのだけど、その正常な細胞が、逆に、ガン細胞に呑み込まれて、彼等と同じガン細胞になるケースばかりが見受けられたと感じてしまう。

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これも、あっさりと書いてしまうのだけど、過去の彼等に対する神のアプローチは失敗したと感じる。
そして、彼等に向かっていった、比喩で書いたところの「正常な細胞」も、ガン細胞になってしまうケースがほとんどと思えるので、つまり、犠牲者多数と言えるだろう。
また、人間だけでなく、動物、植物、あるいは鉱物に至るまで考えたら、その犠牲の量は、はなはだしく大きいものだったと私は感じてしまう。

また、彼等と立ち会わされた多くの人々にしても、「本当に彼等と付き合っても良い」という同意があったのかどうかも疑わしく感じてしまう。
なぜならば、俗に言われているように、生前の記憶があり、その生前の記憶に、「彼等と付き合っても良い」という同意があったと仮定しても、生まれた後に、全ての人が生前の記憶を無くす、というならば、たった今現在、その同意を全ての人が確認する事が出来ないからだ。
また、「同意があった」、あるいは「無かった」と、どのような形で言及しても、それ自体に説得力が薄い事がわかる。

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この点から考えても、結局、従来の路線であった神の計画とか神のアプローチと呼ばれるものは、失敗に終わったと私は感じてしまう。

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また、人間、動物、植物、あるいは、鉱物に至るまで、犠牲が多数に上る、ということを考えても、素直に、神という存在がいるならば、私達に謝罪をするのが良いと思えてしまう。

どこかの誰かでも良いのだけど、例えば、この私の記事を読む、あなたが私が上で書いたような神であると仮定しよう。
上記の事を踏まえていき、あなたが神ならば、多くの人間、動物、植物、あるいは鉱物に至るまでの苦しみを感じたならば、素直に謝るのではないだろうか。

もし私が神ならば、素直に、それらの全存在に対して、深く謝るのだけど。
そして、もし私が神ならば、即座に計画の終了と、二度と、この手のような計画を実行しないと思う。

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俗に言うように、神という存在が、全ての存在にエネルギーや物資を与えているのならば、確かにこの点に関しては、私達は神と呼ばれる存在に感謝しないといけないと思う。
しかし、「カバールやイルミナティと付き合わされる」という点においては、私達は間違った路線を歩まされていたのだと感じてしまう。

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カバールやイルミナティに対しては、何か別の路線でのアプローチが必要だったと感じてしまう。

地上に住む私達が、この手のような人々の生活を見るに、彼等は医療刑務所やどこかの病院の中で生活しているケースを見かける事が多い。
そうでなければ、実際に刑務所の中にいて、罪を償っている光景を見かけるだろうか。
少なくとも、私達が与えられている標本を見てみると、そのようなケースが多い。

このようなケースも必要だったのではないだろうか。

なぜならば、そのような形で、改心を迫られているケースも多いから。
「彼等を許そう」という声も聞いた事がある。

しかし、実際に、彼等を許し、刑務所とか病院に入れなかったとしよう。
すると、今まで、実際に、刑務所とか医療保護刑務所に入れられた人々から、怒りの声が出るのではないだろうか。
以下のような感じで。

  「私達は、社会で定められた法に則って、刑に服しました。しかし、私達以上の罪を犯していると言えるであろう、彼等は無罪放免である、となると、私達は不平等を感じます」

と。

つまり、件の彼等を何もお咎めなく許してしまうと、別の方面から、非常なまでの不平等感が湧き上がると予測できる。

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これは、また別な形で、「いびつさ」というものを残してしまうので、問題が無いわけではない。

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また、「彼等がなぜ逮捕されないか」と言うことを見るに、結局、金のちからと、その金のちからで築き上げた権力を持っているからこそ、彼等に人間社会の法のちからが及ばない事がわかる。

だから、逆に言えば、私達の現在の社会というものは、完全に腐敗しきっている。
だから、私達は現行の社会システムには、何も期待をかけないほうが良いと感じてしまう。

過去に書いた簡単な例を挙げるのだけど、私達の法社会に「保釈金」という制度がある。
これは、何かの罪を犯しても、それなりの「保釈金」と言う名の罰金を司法局に払えば、刑務所や留置場に監禁されずに済む。
つまり、お金をたくさん持っている人ならば、刑務所に監禁されずに済むから、「お金さえあれば罪を消すことも出来る」とでも言えるだろう。
また、日本の例で言えば、国会議員ならば、国会の開催中には、逮捕されない、という特権を持っている。

こんな風に探していけば、幾らでも、公開されている私達の社会制度の中に、彼等だけが優遇されるような特典ばかりが作成されている事に気が付くだろう。

(もっとも、警察や司法関係の役場に納められた罰金や保釈金が、その後、どのような処理をされているかについては、どんな資料にも公表されていないし、そのお金の行方を誰も知らないとあるならば、これも社会の大きな盲点であると同時に、世の大きな、隠れた不思議であると私は感じるのだけど。)

(結局、このような社会の盲点と言うべきものを探し当ててゆくと、私達は現行の社会システムに期待するものは、何も無くなっていくと感じてしまう。)

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また、以前にも書いたのだけど、人間は自由意志を発揮(発現)する事が許されている。
(人間だけでは無いけれど。)
しかし、その表現や実行したい自由意志そのものが「他者の自由意志を奪いたい」という自由意志であるならば、これは問題だ。
なぜならば、「他者を奴隷にしたい」という願いは、結局、「他者の自由意志を奪いたい」という意志だからだ。
これ自身は、自由意志発揮も矛盾している点であり、混乱が発生する。
(そして、現に問題が発生している。)
だから、「自由意志発揮に矛盾がある」と言う事で、何らかのルールが設けられる願いがあっても不思議は無い。

それはともかく、現実に、「私達(カバールやイルミナティ)は『他者の自由意志を奪いたい』という自由意志を持っている」と、彼等は言っているのと同じだから、これは大きな問題だと言えるだろう。

これから考えても、神の定めたルールと言えども、「完全に矛盾や狂いは一つも無い」とは言えないことがわかる。

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カバールやイルミナティにしてみれば、せいぜい私達は牧場に戯れる羊の群れのように見えたと思う。
そして、カバールやイルミナティは、荒野の中のオオカミ(狼)と言えただろう。

牧場に戯れる羊達は、感単に、オオカミの犠牲となってしまったのだ。

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その光景を私が想像するに、従順で、疑う事を知らず、穏やかに暮らす羊達は、自分達に接近して来たオオカミの笑顔に何も疑問を抱く事無く、彼等と友達になってしまった結果、精神的に彼等の毒の思想を、心の中に受け入れてしまったのだ。

上でガン細胞の喩えをしたのだけど、ここで言うならば、狼達による、羊達の「狼化教育」と言えるだろうか。

結局、「彼等を下から支えてやれば、彼等の支配欲求も薄れて、穏やかになるだろう」という考えは間違っていたのだと思う。
彼等を下から支えてやっても、ますます、彼等の支配欲求は貪欲にも高まって行ったのだ。

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つまり、これだと、神が当初から、はなはだ甘い計画方針とか、はなはだ甘い見通しを持っていた事になる。
だから、このような甘い計画方針や見通しを持った上での、私達、人間を通してのカバールやイルミナティとの接触行為は、今後、実行しないで欲しいというお願いがあります。

また、あっさりと正直に書いてしまうのだけど、彼等を、どこか他の遊星に持って行く、とか、それぐらいのことしか、現在、手が無いのだろうから、その実行を神と呼ばれる存在にお願いしたくはあります。

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いずれにしても、彼等との接触において、大量の犠牲を生むだけであり、また、その犠牲以上の何かを手に入れる、ということも無かったと思われるので、今後、このような実験と呼ぶべきものを実施してもらいたくはないものです。

このような社会だと、暮らしていて、嬉しいのは、カバールやイルミナティぐらいなものだろう。
ないしは、カバールやイルミナティと対峙したいという、ほんのわずかな存在だけだろうか。
いずれにしても、これだと、かなり多くの存在がカバールやイルミナティの犠牲者になると感じてしまう。

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ほんの少数の存在だけが、「カバールやイルミナティを説得できる」と言うかもしれない。
それならば、そのほんの少数の存在だけを集めて、カバールやイルミナティと対峙したら良いと思う。
希望もしていない、他の多くの存在達を、カバールやイルミナティの世界に巻き込んだらいけないと感じてしまう。

この記事を読む読者の方が、神様だと仮定しましょう。
そうすると、その読者の方々も、かなりの教訓を手に入れただろうし、私と同じ事や似た事を考えたりはしないでしょうか。


                                        坂本  誠

2016年1月25日 (月)

二千八百二十八: 雪の日に

こんばんわ。

私の住む地方では、かなり雪が降りました。
雪よりも低温の方がこたえました。

私の家も水道管が凍りました。
しかも、屋内でも水道管が凍りました。
結構、役に立ったと思われるのが「ロウソク」と「カイロ」でした。

水道管のどの場所が凍ったのかは正確につかめなかったのですが、むき出しになっている水道管に「カイロ」を巻きつけてみると、ある水道管が流れました。
他の場所の水道管で流れない箇所があるのですが、水道管のどの場所が凍結しているのかがわかりにくいからです。

また、寒波が襲って来てでは、なかなか急いで暖房器具を揃えるのは難しいものです。
ですから、ロウソクも結構良いように感じました。

真夏の日が誕生日な人で、誕生ケーキに年齢の数の分だけロウソクを灯した人も多いことでしょう。
その時、結構な暑さを記憶している人も多いことでしょう。
ロウソクって、結構、熱を出すことが分かります。

また、ロウソクだと、普段は嫌われている温室効果ガスも少しは出すようですから、ロウソクも小さな暖房器具と言えると思います。



                                        坂本  誠

2016年1月 1日 (金)

二千八百: 一月一日の日に

            平成二十八年一月一日

明けまして、おめでとうございます。
今年も、どうか、よろしくお願いいたします。
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今日、元旦の日は快晴でした。
青空に誘われるようにして、新春の街角を歩いてみました。
ふとしたことから、「ポテトを食べよう」と思い立ち、モスバーガーに立ち寄りました。
そして、何気なく、ポテトを注文して席で食べていて、自分のもらったレシートを見て、気が付いた事がありました。
それは、ポテトを購入した時刻でした。
その時刻は、2016年1月1日11時11分でした。
「1」の数字が7つ並んでいたのです。

右の写真は、そのレシートをコピーしたものです。

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そして、個別の店舗名と住所名は、「これぐらいは消しておいてもいいだろう」と思いましたので、紙で隠してあります。

もちろん、意識して、この時刻を狙ったわけではありませんでした。
ですから、偶然が重なった事により、この時刻にポテトを買った事になります。

もちろん、このようなレシートは、もう2度と手に入れることは出来ないから、コピーまで取って保存しておきます。
でも、なんか、ちょっとした宝くじに当選したような気持ちになりました。

こういう事があったぐらいだから、今日、この日に何か他のもっと凄い事があったかというと、これはありませんでした。
しかし、「2016年1月1日11時11分」の「1が7つもあった」という事は何か、めでたいような気がします。
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しかし、このレジカウンターだと、「秒」までは出ていない事がわかります。
「分」表示までですね。

もし、このレジカウンターが「秒」まで表示する仕組みであり、かつ、その「秒」表示が「11だったら、、、」と、想像してみるのも面白く感じました。
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私の場合は、意識して、上記のような数字を手に入れようと思っても、なかなか手に入らないようです。
例えば、今度の2月2日の14時2分に、同店に行って、再び、ポテトを頼んでも、上手い具合に2が並ばないのではないかと思います。

こういうのは意識しないで、望んだ方が良いのかもしれませんね。

しかし、新春早々、何か良い事が起きたような気がしました。

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                                        坂本  誠

2015年12月31日 (木)

二千七百九十九: 書初めと書き終わりを考える(独白)

                            2015年12月31日

最近は、あまり年の瀬を感じなくなってきた。
これも時代の移り変わりと言えるだろうか。

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私の子供の頃などは、お正月になると、一日から三日までは、多くの商店が休みだった。
だから、お正月は特別な時間でもあった。
しかし、時代の流れからか、年末年始でも、数多くのお店が店を開けるようになった。
だから、年末年始に特別なものを感じていたのかもしれない。
だから、今でも、正月の三日間に多くの商店が休めば、お正月の雰囲気に、また違った感覚を得られるようになるのかもしれない。

また、日本では「書初め」という行事もある。
この「書初め」とは、1月2日を指す事が多い。
「1月2日から、何かを書き始める」という事なのだろうか。
現代では、この「書初め」とは、新年の抱負や目標を紙に書くことが多いようだ。
だから、「書初め」という行事があるならば、その反対の「書き終わり」という行事があってもいいのかもしれない。
すると、その「書き終わり」という行事があるとするならば、当然、大晦日に書く何かの文章という事になるだろうか。

「書き終わり」の行事と言うものを考えてみるに、やはり、「書初め」に書いた抱負や目的がどのような状態になったかを、書く事になるのかもしれない。
ないしは、大晦日に適当に何かを書いてみると、それが「書き終わり」の行事になるのかもしれない。

どちらにせよ、「書き終わり」に書いた文章は、その人にとって、何かの区切りの一つになるかもしれない。

また、1月2日ではなく、1月1日に何かを書けば、それがその人にとっての書初めと言えるかもしれない。
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今年も、私のブログをご拝読して頂き、ありがとうございました。
来年も、どうか、よろしくお願いいたします。


                                        坂本  誠

2015年12月13日 (日)

二千七百八十六: 私の文章表現等について

私自身の文章表現について書いてみました。

私自身も日々の悩みとかがあるのですが、私のブログでは、そのような私自身の悩みとかを書いていないのに気がつかれると思います。
実は、これは意図があって、そうしています。

以前、私も日記を書いていた事がありました。
日記ですから、私以外の誰も読みません。
ですから、その日記の中では、私の悩み事とか苦しんだ事を書いてもいました。
しかし、後から、そのような日記の部分を読み返してみると、過去の自分の否定的な部分を思い出す事により、その日記を読んでいる時の私自身も苦しんでしまう事に気がついたのです。
過去の否定的な内容が、今現在に蘇ってしまうような感じでした。
ですから、極力、自分の書いたものの中には、悩みとかトラブルを書かないようにしました。

また、そのような自分の悩みなどを、ブログのような不特定多数の人々に向けている場所で、それを書いても、他の人が同じように、重い気分になってしまうでしょうから、意図的に、自分の悩みなどを書いていないだけです。
ですから、誰でも「悩み事相談」という感じの文章が日々に胸の中に作られてくるとは思うのですが、あえて、公開していないだけです。
自分でも、「悩み事相談」があるならば、それなりの人に伝えるだけでしょうか。

なので、私も、日頃の悩みを公の場所で書いていないだけです。
自分では、正直者ではあるつもりなのですが、上に書いたように、「あえて語らないこともある」と言う事はあります。

この辺も、文章表現の際の推敲の一つと感じます。

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                                        坂本  誠

2015年11月 7日 (土)

二千七百三十四: 現代都市を考える

街の中をぶらっと歩いてみました。
街の雰囲気も時代と共に変わるものだとわかります。

以前と比べて一番違うように感じるのは、人の数です。
やはり、街に繰り出す消費者の人数は減少傾向のようです。
休日の街といっても、最近ではそんなに人数は多く感じません。

二千四百七十五:大型商業施設の歴史を考える』でも書きましたが、これには、街の郊外に建てられるようになった大型商業施設の影響が大きいと思われます。
街の中心部に出かけなくても、家の最寄の大型商業施設に行けば、たいていの物品は手に入ります。

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また、街への買い物となると、どうしても、駐車場の料金や交通手段のための交通費が気になります。
街の郊外の大型商業施設だと、駐車場が無料の場合も多いです。
ですから、消費者は駐車料金を気にせずにショッピングを楽しめます。
また、街の中心部に出るよりも交通費が安くて済むかもしれません。
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また、大型商業施設だけでなく、最近では、テレビ通販やネット通販もあります。
テレビ通販の場合は、人がたまたま目にした商品を買う事になりますが、ネット通販の場合、本当に自分の欲しい商品を手に入れる事が出来ます。

つまり、消費者にとって、以前とは流通ルートが変わった事を意味しています。
一時代前の消費者だと、欲しい商品は街の中心部に出かけないと手に入れられないケースも多かったです。
しかし、これだけ、流通ルートが広がると、あえて、街の中心部に出かけなくても、たいていの欲しい商品ならば、別ルートで手に入れられる事がわかります。
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昔から、街というのものは、物流が盛んな場所として知られていました。
しかし、現代では、都市の機能において、「地域社会において、物流の中心部分である」という機能が失われつつあると感じます。
これも時代の流れのように感じます。
--------------------------
ですから、これからの私達にとっては、「都市とは何か?」を考えたり、あるいは「都市の意義を再発見する」という時代になっているかと感じます。

街に何か新しい要素が必要なのかも知れません。

もっとも、街を歩いていて気が付く事もあります。
それは老舗の店です。

確かに、今はもう無い老舗の店もあるのでしょうが、なかなか、老舗の店があるのに、改めて気がつきます。

これは一つの例なのですが、例えば、寿司屋さんとかパン屋さんです。
しかも、私の見かける老舗の寿司屋さんとかパン屋さんは、その店ならではの、味作りにこだわっている店です。
つまり、自分の店のオリジナリティーの追及とか、個性の追求と言えるでしょうか。

このような店の商品というのは、そのお店に直接行かないと手に入りにくいものです。
ネット通販で探しても、ほとんどありません。
また、その店独自の商品作りをしていますから、大量生産されていないので、当然、街の郊外の商業施設に訪れても、そのような品は置いていません。

ですから、「その店ならではの、その商品を手に入れる」ためには、あえて、街の中のそのお店に行かないと手に入れられません。
よほど、評判になれば、ネット販売とかもあるのでしょうけど、現実には、そこまではいかないのではないでしょうか。
なので、このようなお店には、街の郊外に住む消費者にとっても、街の中心部分の店への需要があると考えられます。

当然、この逆のケースは、大量生産されている品を店に並べるケースです。
この場合だと、「大量生産されている品」ですから、もちろん、街の中心部分の店にも並びますし、また、街の郊外の商業施設や、ネット販売にも出回ります。
これだと、消費者から見れば、「手軽な品物ならば、街の中心部分に行かなくても、手短なところで手に入れよう」となります。

ですから、現代の消費活動に必要と考えられるのは、「個性の追求」とか「オリジナリティーの追求」と考えられるかもしれません。
--------------------------
また、街の主要機能の一つである物流機能が薄れていくのがわかるのですが、交通機能や都市空間は残されている事がわかります。

ですから、アトラクションのような遊戯的な雰囲気が、今後の日本の街に期待されるのかもしれません。
お祭りというか、遊園地というか、そのようなものが街とコラボレーションとして現れるかも知れません。

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日本の他の街を見ても、自分の街とコラボされているケースをよく見かけます。
例えば、大分県別府市ならば、別府温泉との組み合わせです。
また、長崎県長崎市ならば、これもよく知られているように、夜景情緒とか歴史遺産との組み合わせです。
また、熊本県熊本市ならば、街の名前を聞いて、多くの人の心に浮かぶ情景は、熊本城とか、背後にそびえる阿蘇山でしょうか。

ですから、「街のイメージとコラボさせるものは何か」というのが、街作りにとって大事になるのではないかと感じます。

当然、街のイメージとコラボさせたものは、街の外に向けての観光客にとっての大事なイメージ作りでもあるので、以前からの街作りの重要な課題の一つだと思われます。

しかし、今後の街づくりを考えると、街のイメージづくりは大事だと思います。
当然、お客さんへのおもてなしへの一つでありますので。
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ともあれ、これからの時代は、今までの街づくりとは大分違った側面から、街づくりの方法が議論されるのではないかと感じます。

「私達は自分達の街に何を求めるのだろう?」と言った、根本的な段階からの話し合いが行われるようにも感じます。

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『二千四百七十五:大型商業施設の歴史を考える』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2015/05/post-c745.html

                                        坂本  誠

2015年8月19日 (水)

二千六百十八: 夏の終わりの掃除

そろそろ、暑かった夏も終わりです。
季節の移り変わりでもあり、自分の部屋を大掃除する事にしました。

普通にしている掃除はともかく、今回の掃除では、たまった印刷物を整理した事が印象的でした。
パソコンで印刷した紙も、月日が経てば、かなりの量になります。
それらを分類して、整理していると結構な時間が必要でした。

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昨今では、紙の節約のために、どこでも極力、印刷を避けているところが多いです。
しかし、やはり印刷した紙の量も、自然とたまっていくものです。

結構、骨の折れる作業でもありましたが、整理していると結構、その作業にのめりこんでいました。
他の人でもあると思うのですが、掃除を始めたら、いつの間にか掃除をしないといけない場所が、あれこれと出てきて、掃除にのめりこんでいく人もいると思います。
結構、それが楽しみに感じる事もありますからね。
---------------------------
私達の生活上で掃除について書いてみます。

私達の日常の活動は、大きく分けて、「生産」と「掃除」である事がわかります。
「生産」の方はわかりやすいと思います。

食べ物を作ったり、何かの製品を作ったり、何かのエネルギーを作ったりする事です。
私達はその生産物を使う事により、日々の暮らしを営みます。
---------------------------
しかし、わかりにくいのが「掃除」の方だと思います。
これは例を挙げて書きます。

普通に部屋を掃除するのも掃除の一つです。
そして、私達は日々の健康増進のために運動をしたりします。
実は、この運動も掃除である事がわかります。
なぜならば、体内の不純物とか血管の内部に詰まりそうなコレステロールを運動によって、掃除するからです。
運動は結局、体内を綺麗にしますから、「運動は掃除である」とも言い換えれるでしょう。

私達は日々に歯を磨きます。
この歯磨きも掃除と言えます。
なぜならば、歯を磨く事により、構内の清潔さを高めて、虫歯にならないようにしているからです。
ですから、歯磨きも掃除の一つだとわかります。

庭の草取りも掃除の一つです。
庭の草を、ある一定期間を置いて、草取りをしないと庭の見栄えが悪くなります。

また、家の木々の剪定作業も掃除の一つと言えるでしょう。
木々の生産活動により、木々は大量の葉っぱを自分に付けます。
庭の木々の見栄えをよくするために、剪定作業をするわけですから、これも掃除と言えるでしょう。

また、わかりやすい例は、入浴です。
入浴も掃除と言えるでしょう。
当然、お風呂に入って、身体を洗ったり、頭を洗ったりします。
ですから、入浴も掃除と言えます。

また、医療も掃除と言えそうです。
人体のどこか悪い部分があったら、医者はその部分を切除したりします。
また、医者は人体のどこか悪い部分に対して、浄化を図っているといえますから、医療も掃除の一種と言えると思います。
---------------------------
ですから、身の回りを探してみると、「掃除」と呼ばれる行為がかなりある事に気が付きます。

また、ここから言える事は、人間だけではないと思うのですが、生き物の営みは、そのほとんどが「生産」と「掃除」の二大分野に分けることが出来ると思います。

「私達の社会は、とても複雑なのだ」という考えがあるでしょうが、突き詰めてみると、「私達の日々のほとんどの行為は、結局、『生産』と『掃除』をしているだけなのだ」、と感じると、どこか、意味深なものを感じるかもしれません。

 

                                        坂本  誠

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