日記 Feed

2018年10月18日 (木)

三千三百:「忘れた方が良いメモもある」というメモを読んで(独白)

現代に住む私達は、多くのメモ書き用のノートを持っているかもしれない。
パソコンの中にも、メモ用の幾つかのファイルがあったり、スマホや携帯電話の中にも幾つかのメモ用ファイルがあるかもしれない。

特にスマホの中のメモ用ファイルだと、自分の決めた時刻にアラームが鳴り始めて、そのスマホの持ち主に、忘れてはいけないメモの内容を伝えることもあるだろう。
その光景を周囲の人が見ると、「人が機械を操作している」というよりもむしろ、「機械が人を操作している」ように見えるかもしれない。

かくも大量のメモを抱えるようになった現代人の一人に、彼(あるいは彼女)のメモ書きの中に以下のようなメモの内容があるかもしれない。
「忘れても良いことがある」とか「忘れた方が良いこともある」のようなメモの内容だ。

元々、メモというのは忘れてはならないようなことを書き留めることをいう。

Pa170195


そのように何かの忘れないためのメモなのだけど、そのメモ書きの中の一つに「忘れても良いことがある」とか「忘れた方が良いこともある」と書き留められていたら、人は奇妙なものを感じ、「このメモ書きの内容は矛盾しているのでは?」と首をかしげるかもしれない。

しかし、そのようなメモ書きを見て、気が変わり、忙しい日常を抜け出して、近場の温泉にでも向かう人も出るかもしれない。
そして、温泉に肩まで浸かりつつも、ふと日常に自分の書き留めている幾つかのメモを思い出そうとしても、それらを思い出せない人も出るかもしれない。
その時に限って、「忘れた方が良いこともある」というメモの内容を思い出すだけかもしれない。
そして、そのメモ書きの内容の真意を会得するかもしれない。

そのまま湯船の中で頭をひねりつつ、自らの日常生活を振り返りつつも、「忘れた方が良い生活とは、はたして、どちらの方だろうか?」と考えを巡らすかもしれない。


                                       坂本 誠

2018年4月24日 (火)

三千二百四十六: メモして置きたかったこと (独白)

こんばんわ。
まず、本題を置いて、お知らせからです。

『三千二百四十一: お金の問題点を把握する』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/04/post-f2b5.html

で、御紹介した引用文献の内で、

●FRB連邦準備銀行は獣の頭 アーロン・ルッソ監督 FED is a head of the beast
https://www.youtube.com/watch?v=tDn56473Ts8

の動画が、なぜか削除されていました。

どうして、削除されたのか、私も知る由はありませんが、そのビデオの写真(正確には、JPGファイル)を残しておきましたので、アーロン・ルッソ監督の横顔を知ることが出来ますので、それを掲載しておきます。

Photo

当然、「私は、そのビデオを見たことがある」ということも証明していますよね。
以降は、本題に入らせて頂きます。

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『三千二百四十二: 天変地異と地球上のことを考えていると(独白)』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/04/post-52d0.html

の続きのような感じになるのだけど、「天変地異によって、多くの地上の人間が造物主によって、大量殺害されているようだから、地球や地球の造物主は、大量殺人者ではないだろうか」と書いた。

それだけではなく、宗教的な文書を見ると、おかしなことが書かれていることに誰でもが気が付くと思う。

例えば、昔の人が山上に登って、そこから十個の声が聞こえて来たそうだけど、その内の一つに、「あなたは人を殺してはいけない」という教えがある。

ここで言う「あなた」というのは、人間のことらしい。
つまり、その声が言うことには、「人間は、他の人間を殺めてはいけない」と言っている。

しかし、その声の主と思える存在が、その後も、その文書に登場してくるのだけど、その存在は、結構、人を殺めていることに気が付く。

だから、今、私が書いている、この文書を読んでいる読者ならば、以下のような疑問を、その存在に聞いてみたくなるのではないだろうか。

  「あなたは私達、人間に対して、殺人を禁じましたが、あなた自身は、人々を殺めることが出来るのですか? もし、出来るとするならば、どのような理由で、人を殺めることが可能なのでしょうか?」

等々、、、。

ここから先を考えても良いのだけど、これを読んでいる読者の方の中には、本当に頭痛を抱えながら、その苦痛のさなかを考えることになるかもしれない。

だから、その先を書くのを止めておくのだけど、要は、「この、私達の世界は、あまりにも難しすぎるのだ」と理解出来たら、それで良いわけです。

「地球の神様と思(おぼ)しき存在が、私達に無理を言っているのだ」と、あなたが感じてもらえるように書いたのだから。

ついでながら、書いてしまうと、上の話を書いただけで、「私達の世界は、最初から何も無かったのと同然だろう」と感じる人も出てくることだろう。

ついでながら、私達は宗教というジャンルや拘束からも解放された方が良いと思うので。

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あと、私達の現在の問題点として言えるのは、公務員システムとかマスメディアのシステムだろう。

例えば、公務員達が、カバールやイルミナティ達の存在を知ると、彼等としては、「このカバールやイルミナティ達を更生施設とか、その手の病院とか、あるいは医療刑務所の中で、治療的な拘束を実行する必要があるだろう」と判断するかもしれない。

しかし、それらの公務員達が、カバールやイルミナティ達を簡単に逮捕していくと、結局、資本主義社会を終了させてしまうかもしれない。
そうなってしまうと、現在、それらの公務員達にとっての安住の生活を約束している筈の、資本主義社会を自分自身で破壊してしまうことになり、結局、彼等が苦労して手に入れた現在の地位やポストや高給を、自ら破壊してしまうかもしれない。

そうなってしまうと、それらの公務員達にとっては、自分で自分の首を絞めることになるかもしれない。

そうなったら、それらの公務員達は非常に困るから、このようなカバールやイルミナティ達の情報を見て見ぬふりをするかもしれない、という問題があるように、私達は考えることが出来るだろう。

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あるいは、マスメディア側にしても、同じ事が考えられる。
なんとならば、マスメディアというのは、そのほとんどが株式会社であることがわかる。

だから、カバールやイルミナティ達のことを大々的に報道すれば、資本主義システムが消失するかもしれないので、それを実行したら、自分達の株式会社も消失してしまうかもしれない。
「そうなってしまったら、マスメディアに務める人々の明日の給与は、どうなるのか?」という、疑問が私達に浮かぶだろう。

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要するに、この世界が金銭で作られていたら、金銭至上主義が生まれる結果、「どんなものよりも金銭の方が大事」という感覚が生まれ、その感覚が職務に対する正義感とか、使命感をも超えることがわかる。

要は、お金のちからが、人の正義感や使命感をも破壊することがわかる。

これぞ、カバールやイルミナティ達が望んでいる世界だとわかる。
なんとならば、カバールやイルミナティ達にとっては、彼等以外の人間を奴隷視しているのだから、その奴隷達が、正義感や使命感を持ってもらって、自分達であるところの、カバールやイルミナティを逮捕してもらったら困るわけだ。

だから、カバールやイルミナティ達にとっては、彼等の作っている金銭こそが、地球上の全てのものよりも価値があり、当然、人間の正義感や使命感を超えるちからを、お金に与える必要があることがわかる。

だから、

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『三千十一:現代と中世の商業事情を考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/11/post-05f9.html
司馬遼太郎『街道を行く 9 信州佐久平みち、潟のみちほか』(朝日文芸文庫)
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で、紹介したように、国家単位で、その内部をお金で充満させておけば、カバールやイルミナティ達が言えることには、

  「お前達のお金が無くなるのが、怖いだろ? だから、お前達は、変に、自分の職務に対する正義感や使命感を抱くな。お前達は俺達を拘束するな。お前達は自分達の金銭や地位を安泰なものにすることだけを考えていればいいんだ」

等のような、脅しのセリフを私達に言えることになる。

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上記のことが、目下の私達の大きな問題点と言えるだろうけど、問題点をピックアップしておいて、メモっておけば、これらの問題に対する解決方法を思い浮かぶのも早くなるかもしれないと思って、日記の方にメモしておくことにした。


                                       坂本 誠

2018年4月23日 (月)

三千二百四十五: 宗教と地球上のことを考えていると(独白)

三千二百四十二:天変地異と地球上のことを考えていると(独白)』の続きのような段落です。

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古来から伝わる宗教書を紐解く機会があると、一様に、「地上に住む人間達が悪い」というような手合いの文章が記載されていることに気が付く。

しかし、「本当に、私達が悪いのだろうか」という疑問を抱きはしないだろうか。

色々、様々に書いているのだけど、これらの情報を総合的に見て、全てが全て、地上の人間が悪いのだろうか。

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こんなことを書いていることからも、私が宗教の人では無いことがわかるだろう。

というのも、たいていの本を選ばずに、宗教という手合のジャンルの本を開いてみると、「人間側の悪は悪くあり、神の側は栄光の存在だから(神の側に対しては全く疑問を抱かずに)、ただ、ひたすら神の側を崇めなさい」という手合の文章が書かれていることに気が付く。

こう書いてみると、ハッと気づきはしないだろうか。

  「通常、神の側が非の打ちどころも無く、全く疑問をはさむ余地が無いようにとされていることは、本当に正しいことだろうか」

と。

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つまり、このような「教え」という、そのものに対して、疑問が持てないような感じにしている部分にも、疑問を持った方が良いのではないだろうか。

また、それ自身に、一つの盲点があったことに気が付くと思う。

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私が思うに、多くの宗教書では、「地上に住む人間達が悪い」と、しばしば記載されているの見るだけど、一般に言う、いわゆる神の側に対して、私達は、疑問の目を持ってはいけないのだろうか。

例えば、私は時折、カバールやイルミナティの記事を書いているけれど、いわゆる神の側の方が、私達、地上の人間に対して、あまりにも、過大な目標を与えていたとは考えられないだろうか。

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また、神の側で建てた目標があったにせよ、それ自身の目標に対する、正当性や、効果や、結果や、その他の様々な影響を、再考や再判断することがあったのだろうか。

古くから、一概に、「地上に住む人間達が悪い」と言い続けていると言うことは、他ならぬ、神が建てたとされる、その目標や計画、それ自体に、何らかの誤りがあったと言えないだろうか。

なぜならば、それほど長い間、地上に住む人間達の側の改善が行われなかったとあるならば、計画そのものに落ち度があったとも言えるのだから。

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そのような手合いの本や文献を読んでいると、一様に、「地球の惨禍は激しい」とはあるけれど、それだと、御自身の非の結果から生み出されたようなものだから、その地球の惨禍と言っても、それは、地上に住む人間だけの責任では無く、やはり御自身の責任ではないだろうか。

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私自身は、神とか地球の造物主と言われる存在がいると信じているのだけど、それらの存在を盲目的に愛しているかというと、そうではない。

P4200199

 

なぜならば、何かの存在を盲目的に愛すれば、上に書いたように、何らかの盲点を見落としやすくなるからだ。

私に言わしてもらえれば、彼自身の抱いた目標が、他の地上の人々に対して、あまりにも高尚であり、あまりにも困難であったため、地球の惨禍が起きていると思う。

だから、全てが全て、地上に住む人間が悪いとは言えず、どちらかというと、建てた計画そのものの問題性の方が強かったと思う。


                                       坂本 誠

三千二百四十二: 天変地異と地球上のことを考えていると(独白)

三千二百四十:イルミナティや彼等に関わる地球上のことを様々に考えていると(独白)』の続きのような段落です。

時々、いや、最近では、しばしば、天変地異が起こっているようだ。

その天変地異によって、引き起こされた人間社会での、色々な不幸事がよく報道されている。

見ようによっては(わかりやすい言葉で書いたら実感しやすいから、わかりやすい言葉で書くのだけど)、身も蓋(ふた)も無い、はっきりとして、見える事実そのものを書いてしまうと、地球や地球の造物主というのは大量殺人者と言えないだろうか。

このように書いてしまうと、ちょっと人は驚いてしまうかもしれない。

P4190190

 

人間社会の中で、同じ人間同士が、殺めあえば、殺人の罪にて、厳しく咎められる。

しかし、地球や地球の造物主が、引き起こす数多くの天変地異については、その行為を、大量殺人の行いとは見なせないのだろうか。
また、天変地異については、動植物にも、大きな影響を与えているので、同様の呼び方がなされたらいけないのだろうか。

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もっとも、宗教的な本を開いてみると、最近では、人間の出す公害とか、あるいは、人間同士のいがみ合いの結果により、地球が汚染されたため、「仕方なく、地球浄化のために、天変地異が起こされている」という文章も見かけやすい。

それだったら、自身の立てた目標自体に無理があったと言えないだろうか。

特に、カバールやイルミナティレプティリアンに長々と付き合わされた結果、地上に住む多くの人々が、いがみ合うようになったとしたら、そのような人種と組み合わせた側にも、大きな責任があると言えないだろうか。

仮に、そのような人種と組み合わされていなくても、外国の人々や異民族の人々との居住となると、若干、その人々の間にはいがみ合いが出てくる。

ここでも考えられるのは、あまりにも、地球や地球の造物主の編み出した課題なり目的なりには、かなりの難しさがあったと言えないだろうか。

だから、考えようによっては、彼等の目的自体が、あまりにも困難過ぎて、地上の人間に達成しにくいとあるならば、やはり、それらの天変地異の原因は、地球や地球の造物主が生み出したと言えなくもない。

だから、やたらめったら、地上の人々が悪役扱いされるのは、いかがなものかと感じてしまう。

確かに、私達には、酸素を提供してもらったり、足を踏みしめる大地があったり、適当な気温や日光等を頂けたりしているものの、もっと別の多くの視点から、別の多くの角度から、私達の住む地球について、総合的に考えないといけないのではないだろうか。

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また、他の文献に見られるように、人間達の排出する環境汚染を、浄化するために、天変地異が起きている、とも言われている。

それだと、地上の人間が、環境汚染の原因とされているわけだけど、さらに一歩進んで考えてみると、種々の人間を入れ込む側の、目的自体にも、その原因があると言えるのだから、私としては、目的の変更も、十分考慮した方が良いと思う。

そうでなければ、人間の男女間にも、よくある話のように、別れ話が起きても当然の事だろう。

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普通の会社と呼ばれるグループにも見受けられるけれど、ある仕事がさばけなかった部下がいたとしたら、その部下の仕事状況について、色々と調べられたり、意見がなされるけれど、「その部下に仕事を与えた上司の方が、より正しく、その部下の仕事能力を把握した上で、その業務を与えたか」ということが問われることが多い。

P4190200

 

つまり、部下の仕事能力を超えてまで、何らかの業務を上司の方が与えて、その部下が、その仕事をさばけなかったら、上司の方の責任となり、つまり、「上司の方が、その仕事が出来なかったのだ」とされる。

だから、この状況が、私達に起こっていたと思う。

また、この点から考えても、地球が天変地異を乱発しないといけない程、地球が汚染されていたとしても、やはり、その汚染の原因を作ったのは、地球の造物主側にあると言える。

だから、私の見立てでは、地球に計画があるとするならば、幾つかは成功し、また、幾つかは失敗していると思える。

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そのように考えてみた上でも、「どうしても、地球の目指す方向と同じく歩んでみたい」と願う人々も出てくると思う。
私は、もちろん、そのような人達を止めもしない。
なぜならば、彼等には、彼等なりの目的や方向性や願いがあるからだ。

しかし、同時に、彼等とは違った目的や方向性を持つ人々がいる方が自然なのだ。

人間社会のどんなグループも同じであり、ある一定期間に、何かのグループに所属して、幾ばくかの時間が経てば、そのグループ内の人々の願いや方向性が違ってくる。
だから、方向性の似通った人々はいるものの、全ての人は、少しずつ方向性とか願いとか、進むべき方向は違っている。

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それと同じように、ある一定の期間が経てば、地球に、これ以上残りたい人々との意志が違ってくる方が自然なのだ。

だから、「どうしても、地球の目指す方向と同じく歩んでみたい」と願う人々も、今現在、地球の状況を冷静に見ている人達を見て、無理にでも同じ方向に向けさせる権利は無いことだろう。


                                       坂本 誠

2018年4月18日 (水)

三千二百四十: イルミナティや彼等に関わる地球上のことを様々に考えていると(独白)

ブログのサブタイトル中に(独白)という文字が入ると、つぶやきみたいな感じになりますので、文章のスタイルが「です・ます調」ではなく、自分自身に語りかけている感じの文章スタイルとなります。

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時おり、自分のブログでカバールやイルミナティのことを書いているのだけど、彼等のことを書いていると、当然、彼等のことだけでなく、それに関わることにも考えが及んでしまう。

もちろん、私達の生活において、彼等は大きな問題と言えるのだけど、それを受け入れた側にも、大きな問題があると感じてしまう。

地球上に地球の造物主がいると仮定するのだけど、その造物主としてみては、地球上の多くの動植物・人間に対して「カバールやイルミナティの更生をしてやって欲しい」と言っているような気がする。

確かに、地球の造物主ぐらいの存在ならば、カバールやイルミナティに向かって、何らかの自信があって、彼等の更生に励めるかもしれない。

しかし、地球上の多くの動植物や人間からしてみたら、そのような彼(あるいは彼女)の目的を受け入れ、かつ、実行に励むかどうかはわからない。

P9130161

 

なんとならば、地上には数多くの動植物や人間がいるので、彼等には彼等なりの目的や意向があるので、「カバールやイルミナティの更生はしたくないし、また、付き合いたくもない」という動植物や人間も、多数出て来ても、何らの不思議はない。

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私が考えるに、かなり大きな説明不足が起きていたと思う。

例えば、地球の造物主が「地球は、ちょっと、苦労するような環境があるかもしれないけど住んでみませんか」という誘いが多くの動植物や人間に行われて、その、たった1行ぐらいの文章で、多くの動植物や人間は、yesかnoの二つ返事の居住を決めたのではないだろうか。

私が感じるところでは、実際には、地球上で居住したいと願えば、1万行ぐらいの精密な報告書を精読・精査した上、何人かのグループであれば、真剣な会議を何度も開いて、綿密な検討が何度も行われ、その上で、何回かの厳密なテスト的な地上生活を試み、それほどの厳選された推考を重ねに重ねた上で、初めて「地球上で生活してみよう」という、かなり厳かなお墨付きが無いと、生活することは無理なのではないだろうか。

はたして、そこまでの厳密・緻密(ちみつ)な検討を経た上で、「地上で幸福な生活を得よう」という願いをもって、いざ、地上で生活しても、相当に肩や肱が凝っているだろうから、幸福な生活を得るのは、ほぼ不可能であると感じる。

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何となれば、カバールやイルミナティの情報隠蔽もある上に、かつ、多くの動植物や民族が混在するとあるならば、それらの状況・情報を、かなり検討しないといけないのだから、「地球は、ちょっと、苦労するような環境があるかもしれないけど、、、」という、たった1行の文章で、居住を決めるとあるならば、これは、大きな説明不足の下に、大きな決定がなされていたことになるので、これはミスだったと思われる。

よし、かなり詳細な説明が、生まれる前になされていたとしても、「生前の記憶」となると、人が思い出せるかどうかの疑問もあるし、それを思い出せる人間がいたとして、多くの人が、その記憶を思い出せても、その詳細な説明に対して、全ての人が納得をしたとも思えない。
また、「生前の記憶」となると、ある人にとっては、思い出せないものであり、また、「そんなものは存在しない」と言う人もあり、つまり、この手の情報に頼ろうとすると、非常に説得力に欠けた主張や文章になってしまう。

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ここまで見ただけでも、かなり大きな説明不足があり、その説明不足の下で、カバールやイルミナティ達に対して、生活を行う結果、結局、「カバールやイルミナティの更生をしてやって欲しい」と話となるのだから、これは私達にとって、あまりにも過ぎた課題と思われる。

P9130159

 

現実には、カバールやイルミナティの悪影響を受けて、意に沿わず、ネガティブ化してしまった、多くの動植物や人間も多いのではないだろうか(別の言い方をすれば、犠牲者多数という状況になったのではないだろうか)。

もっとも、地球の造物主ならば、そのようなパワーや能力や意志があるのかもしれないけれど、彼(あるいは彼女)以外の、多くの動植物や人間は、彼と同じような能力や意思も無いかもしれない(あるいは、そのような動植物や人間の方が多いのではないだろうか?)。

この状況で、「地球の造物主の側が、例の件を多くの動植物や人間に課した」とあるならば、大きな説明不足もあるので、一種の強制とも言えると思われる。

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先日以来、私達の人間社会で、手抜き事業による、数多くの欠陥商品が出回ったので、かなり大きく報道されている。

というのも、そのような欠陥商品を消費者の側が手にして、生活すれば、数多くの生活上の不具合が出るので、時には、消費者の側とメーカーの間、かなり大きめのトラブルや争いが発生する場合も多いので、大きく報道される。

私達の生活と言うのは、いわば、このような欠陥商品と同じだったと私は感じる。

メーカーの側で、欠陥商品に関する詳細な説明があり、それらの欠陥商品に関する回収があれば、これは消費者の側が納得するので、メーカー側が責められることは無くなり始める。

しかし、欠陥商品に関する説明の無いまま、それが配布されていたら、それは人間社会の間では、とんでもない物議を醸すことになる。

私は、地球の生活と言うのは、この欠陥商品と、ほぼ同じだったと思われる。

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確かに、私達は、普通、あまり意識しないけれど、地球の造物主の恩恵を頂いて、生活している。

P9130155

 

幾つかのわかりやすい例を挙げると、まず、呼吸できるだけの酸素を提供されており、息が出来る。
また、足を踏みしめる大地もある。
また、朝から夕方までは太陽の日光を頂けるし、夕方から夜を超えて、朝までの間には、夜という名の暗闇を与えられるので、安眠できる。
また、適度な気温を頂けているので、通常は快適に、大気の中で生活をすることが出来る。
当然、これらが無ければ、多くの動植物や人間は生きることが出来ない。

このような生存するための基本的な条件を頂けていることに関しては、私達は感謝していると思う。

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しかし、「カバールやイルミナティの更生をしてやって欲しい」と、結局、そのような話と願いが与えられるとあるならば、そのような願いを受諾するような動植物や人間の数は、かなり少なくなるのではないだろうか。

また、上に書いた大きな説明不足を考慮すると、やがて、多くの動植物や人間は、地球上での生活を願わなくなるのではないだろうか。

地球の造物主には、彼(あるいは彼女)なりの目的や意志・意向があるのだろう。
しかし、彼の目的や意志・意向に、全ての動植物や人間が賛同するとは、私は思えない。

なんとならば、私達、人間の間でも言えることなのだけど、多くの人には多くの人なりの目的や意志・意向が備わっているからだ。

だから、それらの多くの存在達の目的や意志・意向が、地球の造物主の目的や意志・意向と一致するとは限らない。

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確かに、今まで、あえて敢行してきた、受難の道とも言えるような、造物主の目的や意志・意向に、賛同を寄せる動植物や人間もいるかもしれない。

地球の造物主とするならば、今一度、自身の目的や意志・意向に賛同を寄せるような、動植物や人間を集めて、再スタートをした方が良いと思われる。

しかし、私個人で感じるところでは、彼(あるいは彼女)の目的や意志・意向に賛同を寄せるような、動植物や人間は少ないのではないかと思われる。

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また、今まで、あまり、なされなかった詳細な説明が多くの動植物や人間に行われ、その上、地球の造物主の意向を変えたと仮定しよう。

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しかし、それでも、集まる動植物や人間は少ないのではないだろうか。
なんとなれば、今まで長く、この状況が継続され続けていたとあるならば、今後の未来に対しての信頼の面も、どうしても落ちてしまうのだから。

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昨今、地球上で、多くの動植物が大量死している件が報告されている。

そして、その動植物の大量死の件に関して、人間の科学者達が、一様に言うことには、「なぜ多くの動植物が大量死するのか原因が、はっきりしない」と報告している。

「人間の活動が、地球の大気や海を汚し、その環境汚染の結果、多くの動植物が大量死するのだ」という報告もあるけれど、一概に環境汚染だけでは、説明のつかない大量死も発生している。

これなどは、私が予想するに、多くの動植物が突然の大量死を迎えることによって、地球ではない、どこか他の安全な星に移動しているのではないかと考えてしまう。

地球よりも、遥かに安全な環境の下で、彼等は、再び、何らかの目的を持って、自身の生活を再スタートさせているのかもしれない。

私は、偽らずに自分の意見を言うならば、そちらの方が好ましいと思えるのだ。
その方が、多くの動植物にとって、幸福を得られる生活ではないだろうか。

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この動植物の大量死の件は、彼等だけの話に終わらない。

なんとなれば、この地球上での全ての生命の活動を考えると、全ての生命は、食物連鎖の一環の中で生活しているからだ。
当然、動植物が大量死すれば、この食物連鎖の一環が切れるので、やがて、他の動植物や人間の数も減ってくるからだ。

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それに最近では、地球上の各国で、人口の減少も起きている。
この、人口減少の理由は、幾つかあると思われるけれど、そのほとんどの原因は、私達の社会システムにあると私は考えている。

Pa200151

 

このブログの過去記事にも書いたけれど、その多くの原因は、私達の社会システムに根幹に位置している、多くの人の金銭の収入の低下と、長時間労働等だ。

これは、カバールやイルミナティやイルミノイドの実行している、人類奴隷化計画に基になっている。
表現の仕方は悪いのだけど、的確な表現と思えるのだから使うのだけど、江戸時代の領主達が領民達に労働させるために、「生かさず、殺さず」という手合の政策を実施したそうだ。

「ある程度の重税をかけて、領民達を必死に強制労働させて、領民達から、出来るだけ多くのものをしぼり上げよう」というのが、この「生かさず、殺さず」という政策だったらしい。
この「生かさず、殺さず」の政策が、いまだ、私達に実施されている。

なんとならば、カバールやイルミナティやイルミノイド達は、地球上の多くの人間達に奴隷労働させたいのだから、この「生かさず、殺さず」の政策が、当然、私達に実施されることになる。
具体的には、各国に見られるような教育費の増大と、多くの人々の低賃金化と、長時間労働ということになる。

結局、多くの人々にとっては、非常に生きづらい生活を送ることになる。

普通、動植物や人間でも、「暮らしやすい」という生活環境だと、そのような世界では動植物や人間の子孫が増える。
なんとなれば、「暮らしやすい」生活環境というのは、子孫を増やしても、安全な状況だからだ。

ところが、「非常に暮らしにくい生活環境」というのは、当然ながら、子孫は増えない。

私が見るところ、上のような理由が、各国の人口減少の理由である。

ここから考えても、多くの人々も内心での「地球では、もう、暮らしたくはない」との願いが実現・実行中なのではないだろうか。

通常、人に知られることの無い、私達の内心にある、社会生活への怨嗟の思いが、人口減少を実行していると感じる。

これ以降、何らかのメリットを感じて、「未来にかけて、長いこと子孫と共に地球で暮らしてみたい」と願う人の数は少なくなると私は感じる。

確かに、私達には自由が保障されているから、「そのような世界に、ぜひ、居残りたい」という願いを持つ人がいても良いのだけど。

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あまりにも、難しい課題や願いを立てても、なるほど、その時だけに、ちょっと見ると、それは素晴らしいことのように見えるかもしれない。

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しかし、実現する際に現れる、諸々の困難さや諸々の苦痛を考えると、その願いに、賛同する動植物や人間は少なくなると思われる。
また、それは自然なことだと思われる。

これが、今の私達の社会で行われていることではないだろうか。

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私にしても、時々、カバールやイルミナティのことを書くけれど、彼等のことを考えたり、書いたりしていれば、当然ながら、どうしても、彼等とは対極にいる側の存在や、その意向を考えてしまう。

通常、あまり、それを書いてはいないけれど、カバールやイルミナティのことばかりを書いて、彼等と対極にいるとされる側の存在や、その意向を考えない、ということは無い。

それに、こんなことを書いているぐらいだから、私が宗教の人ではないと他の人にわかると思う。

久しぶりに、カバールやイルミナティと対極にいるとされる側の存在や、その意向について、私の考えていることを、つぶやくように、日記に書き留めて見ることにした。


                                       坂本 誠

2018年3月23日 (金)

三千二百三十三: 「111」のナンバー・プレートを5回見て

こんばんわ。

今日、ちょっと珍しいことがあったので、日記に記しておきたいと思います。

私が雑用をするために、通行していたら、5台の車のナンバー・プレートに注目しました。
それらは、全部違う車でしたが、全て「111」のナンバー・プレートを搭載していたのでした。

もちろん、すれ違う自動車は幾つもあったのですが、さすがに、1日の内の、1回の外出で、「111」のナンバー・プレートを5回も見かけるのは初めてでした。

6回目を期待したのですが、さすがに6回目は無理でした。

何か良いことが起こる前触れだったら良いですよね。

こんな日は、スロットに行ったら、大当たりする日なのかもしれませんが、あいにく、私はスロットをする趣味が無いのです。

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私は、この手のことには、何かのシンクロを感じます。

というのも、読者の方でご記憶の方もおられるかもしれませんが、2016年1月1日に、以下の出来事があったので、その日のブログに日記として掲載しました。

『二千八百:一月一日の日に』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/01/post-b0f7.html

過去記事の方のURLに参照されたら詳しく読めるのですが、あらましを書きます。

2016年1月1日の元旦に、大型商業施設に出かけて、そこのハンバーガー屋さんでポテトを買いました。
そして、何気なく、そのレシートに目をやると、買った日付と時刻が、2016年1月1日午前11時11分だったのです。

ですので、私は記念写真を撮りました。

P1010151

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こういうのに私は縁があるのかも知れませんね。

なんか、ワクワクしてきますが、「面白いことがあれば良いな」と願っています。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『二千八百:一月一日の日に』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/01/post-b0f7.html

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                                       坂本 誠

2018年1月 1日 (月)

三千二百七: 新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。
本年も、よろしくお願いいたします。

穏やかな新春の陽射しを受けていると、日々の全てのことを忘却してしまうかのような瞑想状態を得られる方もおられるかと思います。

心静かに新春を味わうことは、誰にとっても、味わい深いことかと思います。

私の好きな写真を掲載させて下さい。
撮影した日は新春では無かったのですが、とても、新春らしい写真かと思いますので。

                  2018年1月1日

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                                       坂本 誠

2017年12月31日 (日)

三千二百六: 苦手なもの

こんばんわ。

苦手なものについて考える機会がありました。
誰にでも苦手なものがあるものです。

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「苦手なもの」というか、「自分の興味関心の無いもの」というか、表現方法に苦しむのですが、誰にでも、この手の分野を持っているので、私の書きたいことが伝わると思います。
どのような表現をしていいのか、多少苦しむのですが、以降は「苦手なもの」と表記します。

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誰でもそうだと思うのですが、誰にとっても「苦手なもの」がやって来ると、その人にとっては、あまり良い気持ちにならないかと思います。

なぜならば、通常、その人が考えないものだし、その手のジャンルの方面を考えても面白く無いし、また、それらの理由から、備えもほとんどしていません。

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私の学生時代の経験ならば、わかりやすいので例を挙げて書き進めます。

例えば、私の学生時代に苦手なものは化学でした(科学[Science]では無く化学[Chemistry]ですね)。
苦手教科の一つでしたから、当然、成績も良くありませんでした。
今でも、化学のジャンルは、あまり好みません。
ですから、日頃、化学的な事柄を考えることは、ほぼ、ありません。

なので、ボンドとか、セメントとか、その他の素材などについては、ホームセンターのお店に置いてあるものだけしか考えませんし、また、用をそれだけで済ませます。

しかし、化学好きの人も、世にはいます。
そのような、化学好きの人は、常日頃、あるいは、余暇の時間なども「ある素材の上で、新しい化学的な組み合わせを作れないだろうか」と考えながら暮らしているかもしれません。
また、それがその人の喜びかと思います。

ですから、私から見たら、そのような人の存在を不思議に感じてしまいます。
「誰しも、興味と関心が、それぞれに違っている」ということですね。

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また、私の苦手教科の一つは、スポーツ、つまり、体育の時間でした。
もちろん、今でも、あまりスポーツを好んでいません。

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ですから、私のブログを過去から読んでくださっている方などはおわかりでしょうが、私の過去記事の方で、「スポーツ」に関する話題が、ほぼ皆無であることに気が付くでしょう。

例外として、フィギュア・スケートならば、少しは見たりします。
なぜならば、フィギュア・スケートには、芸術性を感じるので、私から見ると、フィギュア・スケートをスポーツと見なしていないからです。

野球とかサッカーとかの団体戦で、「複数のプレイヤーと組んで、スポーツを行えば、それは楽しい出来事なのだ」と、世のスポーツを愛好する人は感じているようですが、私にしてみたら、あまり理解出来ない事なのです。

ですから、スポーツを愛好する人は、自分の暇な時でも、ひょっとしたら、「新しい団体戦を案出して、それを世に出せないだろうか」という思いの下に、何かの新しい団体競技を考えている人もいるかもしれません。
また、それがその人の喜びかと思います。

団体競技では無く「走る」とか「ジャンプする」とかのような、陸上競技もありますが、これも、私には、あまり理解できません。
しかし、人は誰しも健康を求めるので、スポーツとまでは行かないものの、健康増進のために、道路を走ったり、マラソンをしたり、ジャンプをしたり、、、等の、「肉体を動かす」という行為はわかるのですが、それらを競技にしているところが、わかりません。

ですから、「自分で健康管理のために、身体を動かすことを欠かしていない」という状況ならば、あえて、「体育」という教科を設ける必要は無いのではないかと感じます。

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ですから、上の例から言えるように、自分の興味関心の無い分野あるいは自分好みで無い課題が、あえて、何かしら、日々の自分の暮らしの中に現れる時、その人は、ある意味、苦痛を感じると思います。

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これは、他の人もそうでしょう。

そのような自分の苦手分野としているジャンルが、自分の生活上に現れる時、素直に人に頼むと、それを得意としている人が受けて、それを上手にこなしていくのに気が付きます。

なので、私達は「自分がピンチに陥っている時に、得意な人がそれを受けてくれて、それをこなしてくれた」というのを見て、その人に感謝と有難味を感じるものです。

やはり、全てが全て、自分一人ではできません。
かといって、何もかも分業を押し進めていくのは、正しいことのようには私は感じません。

また、もし、全てのことを自分一人でこなせるというのであるならば、その人は、他の人の得意分野とかを求めることが無いので、周囲の人に対する有難味が薄れるかもしれません。

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そして、ある人にとって、何らかの苦手分野が生活上に現れている場合、その人は、結構、慌てていますから、その苦手分野を処理している人に対して、感謝の思いを即座に思い浮かべるのも、困難な時もあります。

例えば、医者で無い人が、病気にかかった時に、治療を医者に頼む時でしょうか。

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しかし、一歩進んで考えることがあります。

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例えば、ある人の人生行路中に、全く何も困難が起きなかったら、上の話の流れから、その人は周囲の人に対する感謝の思いが薄れるようになるかもしれません。

だからこそ、もし仮に、運命設定者のような存在がいるとするならば、

  「彼(あるいは彼女)の人生中に何の困難も起きなかったら、(上の話の理屈から)困るだろうから、あえて、彼の人生行路中に苦痛を発生させれば、他の人に対する有難味を感じ、周囲の人々との一体感や幸福感も味わえるだろうから、彼の苦痛が終わって、しばらく経った時に、彼は幸福感を得られるに違いないだろう」

という狙いの下に、あえて、苦難困難を発生させるのは、「いかがなものだろうか」と、私は感じてしまいます。

なぜならば、これだと、一種のスパルタ教育と感じられなくもないからです。

世の人々の議論にもあるように、「スパルタ教育は素晴らしいものなのか?」という疑問の声もあります。

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今年、最後の筆の流れの締めくくりを、上のものとしました。
年の瀬に合ったような雰囲気を湧出できたかと感じています。

今年も、お世話になりました。
来年も、どうか、よろしくお願いいたします。

                  2017年12月31日

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                                       坂本 誠

2017年12月 2日 (土)

三千百九十九: 競争に対する疑問(独白)

私達は、常日頃、集団活動の訓練ばかりを奨励されていることに気が付く。
なぜ、集団活動が推奨されているかと考えてみると、それは、成人して、競争社会の中で、他企業とか、他国との競争における業績アップを求められていることに気が付く。

その業績というのが、個々の人の給与に換算されているから、その競争に負けると、給与が出なくなる可能性もあるため、つまり、その競争自体が死活問題にされていることに気が付く。

だから、「なぜ、私達は他者と競争させられているのか?」。
あるいは、「なぜ、私達は周囲の人々との競争を煽(あお)られているのか?」という、疑問を持った方が良いかと考えてしまう。

あるいは、その、競争を煽っている人々に対しての、疑問の目を持った方が良いかと考えてしまう。

                     坂本 誠

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2017年11月20日 (月)

三千百九十四: 現(うつつ)を抜け出す時(独白)

ひどく面白いことを味わえる時がある。

そのような時には、筆を取って、メモを取った方が良いと思う。

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ちょっと、人々から離れて、たった一人になってみる。

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その、たった一人になった時にでも、人は何かを始めるものだ。

美しい湖畔の側に腰を下ろしてみたり、自分の親しいペットと共に戯れてみたり、あるいは、恋人と、どこかの湖畔の周囲の道を散策してみたりするかもしれない。

そんな時、実は、全く完全に、この世の制約を受けていないことに気が付く。

多くの人と共に生活をしていたら、「あれをせねばいけない」「これをせねばいけない」「この約束を破ってはいけない」「あなたは、このような目標を持っていた方が良い」等と、様々に、生まれた時から、周囲の存在達が、あなたに言ってきたことがある。

しかし、あなたがたった一人になって、「今から、あなたは完全に自由になって良いよ」と言われたら、おそらく、あなたは何かをするだろう。

そんな時、あなたは全く何をやっても良いのだけど、個々の人によって、やりたいことに違いはあるだろうけれど、おそらくは、あなたにとっての安らぎさ、とか、面白さを追い求めたりするのではないだろうか。

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どこかの誰かから、「今から、あなたは完全に自由になって良いよ」と言われたので、あなたには時間というものも消滅したと考えてみよう。

あなたは何を考えても全く自由なのだから、今現在の、あなたの本当の年齢も、百億歳とか千億歳とかとも考えて良い(あるいは、それ以上の無限に近い年齢でも良い)。

要するに、あなたは時間も失ったので、あなたは遥か太古の昔から存在しているし、また、今後も、未来永劫に存在し続けているとする。

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その上、あなたに課せられた、あらゆる規則も縛りも無い。

しかし、それでも、あなたは何かをするだろう。

その、「何か」とは、人によって違うのだけど、少なくとも、あなたにとって安らぎを与えたり、あるいは、喜びを与えるものが、ほとんどかと思われる。

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「自分は悠久無限の時の中を存在し続けている(生きている)」と、瞑想してみると、その一つ一つの人生、つまり、一回一回の生涯、つまり、一回一回の生老病死も、瞬時に味わう経験の一つだろう。

その、一回の経験が終わったら、しばらくは休んでみて、どこかの遠い他国の上の、未来社会の中で生活してみるかもしれない。

あるいは、遠い過去の、地球の海の底の生活を選ぶかも知れない。

あるいは、遠く離れた宇宙の果ての、遊星の住民の一人なって、その星での、様々な慣習の下に、別の生活をしてみるかもしれない。

そのような状況だと、何をやっても自由なのだから。

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死んだ後、肉体を持っていない状態になったとしても、そのような状態だと、それでも、あなたは何かをするだろう。

その、あなたが行動する何かとは、やはり、あなたを落ち着かせる内容のものが多いことだろう。

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私達が生活している環境では、その、ほとんどの生活内容が強制されていることに気が付くだろう。

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しかし、時おり、ぼやっとして、本当に何気なく、ホッとする内容の事を、ボソボソとしている時に、真の自分に気が付くのではないだろうか。

その、「ホッとする内容」というのは、世間で賞賛されている内容のものとは、程遠いことに気が付くけれど。

しかし、この「ホッとする内容」を感じて、それから、「私は、悠久の過去から、悠久の未来に至るまで、この状態を求め続けてきた」とあるならば、その内容こそが、真に魂の目的と言えるかもしれない。

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そのような状態を味わっている時には、普通、世間一般で言われているような、「あなたは何らかの目的を持って生きて行かないといけない」という、どこかの誰かのセリフが、かなり軽い、それこそ、羽毛のようなセリフだと感じるかもしれない。

なぜならば、上に書いたように、あなたが悠久の過去から悠久の未来まで、存在するとあるならば、上の他人に薦められた、「あなたのライフの上での、あなたの立てるべき目的」というのは、せいぜい、4回か5回ぐらいの人生時間を過ごせば、達成できる内容のものが多いことだろう。

人によって、個人差があるだろうから、早い人ならば、生きている内の三十年位で達成できたとしよう。

すると、その人は、世間一般で言われているように、「あなたは何らかの目的を持って生きて行かないといけない」と、あるならば、その人は、またしても、無理矢理に何らかの目的を立てなければならないだろう。

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すると、生前には、その目的を達成できないとしても、またしても、何回かの人生を通過すれば、その人は、その目的も達成できるだろう。

つまり、こうなってきたら、「我々は目的を立てるべき存在なのだ」という目的自体も、奇妙なもののように感じてくるだろう。

(結局、そのような目的というのは立てなくても良いことになって来る。)

それどころか、冒頭に書いたように、あなたは自動的に、誰にも、何にも言われずとも、あなたの目的を追いかけていることに気が付くであろう。

それは、ちょうど、冒頭で書いた、「美しい湖畔の側に腰を下ろしてみたり、自分の親しいペットと共に戯れてみたり、あるいは、恋人と、どこかの湖畔の周囲の道を散策してみたり、、、」等のものだろう。

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結局、私達の生活の上での「目的」というのは、その場の生活環境に沿って、何かしら、生まれて来たものである。
だから、それに合わせる必要も出てくる。

例えば、どこかの遊星に、あなたが生活を始めたとしよう。
その星の上では、火山が多いとしよう。
噴火とか火砕流が多くなるだろうから、その生活環境に合わせて、知恵を出したり、何らかの対策のために、目的を立てなければいけなくなるだろう。
その環境の、その目的のために、その目的に沿ったルールが生まれて、そのルールを守ろうとするかもしれない。

 

しかし、あなたが、その星から離れて、更に、どこかの星で生活を始めるならば、更に別のの生活環境が存在しているだろうから、少なくとも、あなたはその環境のための、何らかの目的を立てないといけないだろう。

身近な例で言えば、地球上の、どこかの遠い他国での生活を意識すれば良いだろう。

通常、私達の間での、「目的」というのは、そのような環境調整のための目的に過ぎないだろう。

だから、その手の「環境調整のための目的」というのも、ある程度、私達の学習・経験のために必要なものだろう。

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しかし、冒頭に書いたように、「真の、あなた自身の目的」というのは、世間一般に言われているような目的では無いことに気が付く。

この「真の、あなた自身の目的」というのを言い換えてみると、「魂の目的」と言えるかもしれない。

この「自己の魂の目的」というものに思いを巡らしていると、悠久無限の時を、あなたは想像しているかもしれない。

あるいは、大宇宙の虚空に浮かんでいる、あなた自身を想像しているだろうか。

そして、なんとなく、自分自身が肉体の外に抜け出たような一時を味わっているかもしれない(そんな一時も、私達には、きっと必要なのだろう)。

そして、その、大宇宙の虚空に浮かんで、自分の欲することをやっている。

そして、誰も、あなたに命令とか指図もしていない。
そして、あなたは完璧に自由な状態になっている。

その状態で、自分の欲することをやっているのだけど、多くの人は、その状態の自分を想像して、安心する人が、多いかと思う。

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誰も、あなたに命令していないし、あなたを縛る一切の規則も無いし、あなたは完全に自由なのだから、やろうと思えば、宇宙を崩壊させることも可能かもしれない。

しかし、大方の人は、そのような想像をせずに、何か、自分に安らぎを与えるようなことをしているのだから。

また、そのような状態で、「他の人々を支配してやろう」という、行動をしている人も少ないかと思われる。

だから、大方の人は、そのような想像状態にあって、自分自身に対して、安心することだろう。

そんな一時が、私達にとって、大事であると思う。


                                       坂本 誠

2017年10月10日 (火)

三千百八十五: 秋の青空を見ながら(独白)

私が最も、好む季節は秋だ。

春や夏の季節には、どこか、音楽が鳴っているような、騒々しさと共に気温が上がっていくような気がする。

しかし、秋になると、それが打って変わる。

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まるで、音楽の無い静かな雰囲気の中で、少しずつ、気温が下がっていくかのようだ。

秋が暮れゆくに従って、街路樹が、その木の葉を散らすようになる。

その木の葉が舞ったり、あるいは、地面に落ちた葉っぱを踏みしめながら、歩む時、少しばかりの音がするかもしれない。

しかし、それらの小さな音は、逆に秋の静けさを深めるかのよう。

だから、本質的には、秋というのは、感覚的にも非常に静かな季節のように、私は感じてしまう。

「気温が徐々に低くなっていく」という現象には、誰もが、音が静まりゆく光景を想像してしまうかもしれない。

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その秋の無音さを高めるのが、秋の青空だ。

秋の青空は、どこまでも、蒼く透き通っている。

透明な青空が広がるのだけど、その「透明さ」とか、「深い青」というのは、どこか、「秋の無音」にシンクロしているように感じてしまう。

ひょっとしたら、逆に、「秋の無音」とか「秋の下がり続ける気温」が、秋の空の透明さとか深い青を作り出しているのかもしれない。

どちらも、一対になって、双方が呼応して、「秋の無音」や「秋の下がり続ける気温」や「秋の空の透明さ」や「秋の空の深い青」を、互いに共鳴して、高め合っているような気がする。

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このような、秋に囲まれていると、自然、私にも、どこか、静かな雰囲気を漂わせていくかのようだ。

青空の中に、自分の翼を溶け込ませていくかのような秋の季節。

そんな、秋を好む私だ。


          翼


     目を閉じて
     暗闇の中に居座ると
     胸の中に
     心の翼が広がる。

     翼の手を伸ばしつつ
     この世を飛び立ち
     見えない野原の
     大空に吸われる。

     花や草が
     鳥と共に
     空に浮べば
     人も魚も舞い上がる。

     空の森に
     僕等は泳ぎながら
     暖かさの奥で
     重なりあい、上に沈む。

     その中から生まれた
     新たな僕は
     虹の翼をはばたかせ
     外を目指す。

     空を越え、
     時を越え、
     無を越え、
     心を越える。

     消えゆく翼は
     音と光の中に昇り開かれる。
     形を失って
     僕は速さだけになってゆく。


                                       坂本 誠

2017年8月20日 (日)

三千百六十四: 依存精神の強い人の心理を考えて

私の周囲に以下のような人がいます。

その人は、街を歩く人達の衣装を見て、「こんな衣装ではいけない。あんな衣装ではいけない」と、心の中で、ずっとつぶやいているのです。

あるいは、その人は、その人の周りの人々の行動や考え方を見て、「こんな考えではいけない。あんな考えではいけない」とか「あんな行動ではいけない。こんな行動ではいけない」と言い、「人々は、私の考えているような、考え方を実行すべきだし、人々は、私の求めているような、行動を実行すべきだ」と主張するのです。

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ここまで書くと、読者の方々も理解していくと思います。

その人、つまり、彼(あるいは彼女)は、周囲の人々の多様性を認めることが出来ず、周囲の人々に干渉し、彼の思った通りに、周囲の人々が動かないといけないように感じているのです。

彼(あるいは彼女)の周囲の人々が、彼の思った通りに動かないので、それ自体が、彼の不幸の原因となっているのです。

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早い話が、彼の心は、王様(あるいは女王様)なのです。

現在では、王様とか女王様の存在は少なくなってきているので、現代版に、王様とか女王様を言い換えれば、独裁者という言い方が出来るかもしれません。

「人を支配したい」という、王様の願いと、その苦しみの原因が、読者の方々にも理解できると思います。

他ならぬ、その「人々を支配したい」という、その願いそのものが、彼の苦しみそのものであることに気が付くでしょう。

その王様から見れば、「私の周囲の人々が、私の言うことを聞かないからこそ、私の苦しみは生じている」と、周囲の人々に、彼の苦しみの原因があるように見えるのです。

しかし、冷静に、周囲の人々が、その状況を見れば、苦しみの原因は、全く逆の所にあると気が付くでしょう。

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つまり、読者の人がその王様の傍から見れば、

  「その王様が、周囲の人々に干渉しようとしている、その心がけ自体が、彼の苦しみの原因なのだ」

と、気が付くでしょう。

ですから、「自分の不幸は自分が作っている」という言葉を、どこかで聞いた事があると思いますが、「これは確かなことだ」と私達にわかります。

この逆である、「自分の幸福は自分が作っている」というのも「真なり」と私達にわかります。

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また、その王様(あるいは女王様)を見て、読者の方々も気が付くでしょうが、要するに彼は、周囲の人々に対して、要求精神が非常に強いことがわかります。

「周囲の人々に対して、要求が非常に強い」ということは、つまり、彼は、周囲の人々に対する依存精神が非常に強いことがわかります。

要するに、彼の心は幼いのです。

最近では、世界に王様(あるいは女王様)の存在が少なくなってきました。

また、世に残っている王様がいたとしても、全ての国王の心が幼いとは限りません。

ですが、人類史の上で、数多くの国王が現れましたが、それらの多くの王様達の不幸の原因も、次第にわかってくることでしょう。

私のブログで、時々、ご紹介しています、イルミナティやイルミノイドやカバール達も、「私達は人々の影に隠れた王様でありたい」と願っていますから、彼等の日頃の悩みや苦しみは、彼等自身が作っていることに、読者の方々も気が付かれるでしょう。

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また、読者の方々も気が付くでしょうけれど、「私(坂本)の周囲にいる、その人は暇なのだ」と気が付くでしょう。

「周囲の人の服装や考え方が気になる」という人は、あまり、忙しくないことにも気が付くでしょうし、あるいは、「その人は、その人自身の課題とか、その人自身の問題解決の実行状態に忙しくない状態だ」と気が付くでしょう。

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ですから、依存精神を減らすためにも、例えば、自分を忙しくするために、何らかの課題を持てば良いことにも気が付くでしょう。

例えば、家庭菜園をしてみたり、あるいは、日曜大工等を学んでみれば、時間も潰れるし、それに集中できるし、また、それらの行動や学びが家庭生活の役にも立つわけです。
何らかの趣味的な物でも良いし、その他の学問な物でも良いことに気が付きます。

しかし、彼(あるいは彼女)は、それすらも、したくないのであり、それどころか、かえって、

  「それらですらも、周囲の人々を動かすことによって実行されなくてはいけない。私の口を動かすことによって」

となっているわけです。

ここまで来たら、「ちょっと、どうしたものか、、、」と、私も考えるところであります。

(確かに、「自分自身に必要や生活物資を全て自分で作ることが出来る」という人は、この世にはいません。ですから、どんな人でも、ある程度は、自分に必要な生活物資を手に入れるために、周囲の人々に依存しなくてはいけません。ですが、この依存心自体が強くなる方向は、やがて、上記のような依存心の強い状態を生むので、その人御自身の不幸の原因を生み出していきます。)

(また、依存心の強い人の事を、「エネルギー・ヴァンパイア」と呼ぶ人々もいます。なぜならば、依存心が強いので、「他人から何かを奪っている」ということで、「エネルギー・ヴァンパイア」とも称せるからでしょう。)

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ですから、「私は王様(あるいは女王様)になりたい」のような願いを持つことは、お奨めできません。
なぜならば、上記のように、そのような願いを抱いた、あなた御自身が不幸になるからです。

そして、上記のセリフ「私は王様(あるいは女王様)になりたい」中の単語「王様」の代わりに、様々な単語が入れられることがわかるでしょう。
一例を挙げれば、「イルミナティ」という単語がそうですね。

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また、読者の方ならば、以下のことに気が付くでしょう。

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  「その坂本さんの周囲にいる、『周囲の人々に干渉したい』という彼(あるいは彼女)に対して、坂本さん御自身も、干渉することになりはしないでしょうか?」

と。

というのも、あまりにも、とやかく、その人が私に言ってきますので、さすがに、何をか返答しないといけない必要性に迫られましたので。


                                       坂本 誠

2017年7月12日 (水)

三千百四十四: 梅雨の時期と紫の色

梅雨の日々に、周囲を見回してみると、自然界に、なぜか紫色が多いのに気が付く。

幾つかを挙げてみると、紫色のアジサイがある。
私達が梅雨に食するナスビも紫色だ。
アサガオだって、紫色のものが多い。
右に写真掲載した花々も、私は、その名前を知らないけれど、やはり、紫色をしている。

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自然界に、紫色が目立つのは、この梅雨のシーズンに集中しているように感じてしまう。

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他に、紫を代表するものとしては、牡丹や藤の花だろうか。

「藤の花」は梅雨では無く、初夏の風物詩だ。

しかし、藤の花をよく見てみると、紫というよりも青に近いかもしれない。

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だから、自然界のかもし出す紫色が、集中するのは、やはり梅雨だと思われる。

この梅雨の、言ってみれば、うっとうしいシーズンに限って、自然界が、あでやかな紫色を奏でてくれているのである。

その紫色が、私達の目を潤し、目に入り込んだ紫が、さらに私達の内部に入り込んで、心に浸透していくかのようだ。

その奇妙なハーモニーが梅雨に奏でられるのだから、自然界の組み合わせを面白くも感じるし、いみじくも、奥深い何かを感じてしまう。

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                                       坂本 誠

2017年7月10日 (月)

三千百四十三: 梅雨の晴れ間を見ながら(独白)

休みの間に、梅雨の晴れ間に目をやった。
その青空をひときわ美しく感じてしまう。

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真夏の間の青空となると、灼熱の暑さをもたらすようで、その晴天に有難味を感じないものだが、梅雨や冬の青空となると、それには美しさを感じてしまう。

人は、こんなところでも、いい加減なものだと感じてしまう。

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「休んでいた」と言っても、リフレッシュするために休むのならば、「休みを実行した」となるので、それ自体も休暇とは言い難いのではないだろうか。

だから、休暇というのも何らかの行動の一つと言えるかも知れない。

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ただし、休み明けには、私達は、自分の握る筆のすべりに重さを感じたり、あるいは、自分の使い慣れたコンパスやツールに、何らかの狂いを感じるかもしれない。

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                                       坂本 誠

2017年6月26日 (月)

三千百三十七: 雨の日のピアノ

雨の日には、ピアノの音が良く似合う。

ピアノの鍵盤を叩く、その様が、雨だれの落ちる様と重なり合う。

ピアノの音が青空の天空高くから、落ちてくるかのよう。

無数の水晶の欠片(かけら)が、こぼれ落ちてくるかのようだ。

雨の日の部屋の中にいて、青空を思い起こさせる。

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                                       坂本 誠

2017年6月14日 (水)

三千百二十八: 人のブレーキとアクセルについて(独白)

いつも、やっていることを、やろうとしても、どうも、うまく進められない時が誰にでも訪れる。

やろうと思えば、アクセルを踏んで、実行することが出来る。

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しかし、そのような時に、無理にアクセルを踏んで、自分のやりたかった事をやれば、出来上がったものが粗雑になっている場合が多い。
あるいは、駄作と呼べる結果になっていたりする。

こんな時は、アクセルを踏まないようにしている。

もちろん、アクセルを踏もうと思えば、幾らでも踏めるのだ。

そんな時は、何らかの小さな阻害点が、邪魔をしている事に気が付く。

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後になって、振り返って気づくに、心の中の感情の問題であった事が多い。

自分の意識にも上って来なかった、小さな感情的な問題が、無意識下に潜んでいて、その感情的な問題がブレーキをかけていたことが多い。

もちろん、その自分の「感情的な問題」というのは、無意識下にあるので、普通はその感情を把握できない。

目覚めている意識としては、その感情をうまくキャッチできないので、「何か変だ。どこか変だ。何かが自分にブレーキをかけている。しかし、何が変なのかは、何がブレーキなのかは説明しにくい」と、意識の方は考えている。

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いくばくか時間が経って、その無意識下に潜んでいた、自分の感情の問題が、意識の方に昇って来るので、人は、自分の感情の問題を、上手に言語化出来る時もある(もちろん、出来ない時もある)。

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そのように、自分に何かの変なブレーキがかけられている時は、無理に自分のアクセルを踏まない方が良いように感じてしまう。

別の何かをした方が良いように感じてしまう。

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例えば、静かな環境で、瞑想状態になって、自分の心の中をしっかりと覗いてみる。

あれやこれやと、自らの心の内部を静かに子細に点検していく内に、無意識下に潜んでいる感情的な問題を、上手に言語化出来て、問題が解決するかもしれない。

(「自らの心の内部を静かに子細に点検していく」という作業は、仏教用語では内観(ないかん)と呼ばれている。)

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また、例えば、ひたすら絵を見たり、ひたすら音楽を聞いてみるのも良いかもしれない。

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何かの絵を見ていくと、「この絵の、この部分を好きに感じる」と、普段では、味わえなかった感想を手に入れられるかもしれない。
そこから、自分や他者にとっての、何かの非常に有意義な発見があるかもしれない。

音楽にしても同じで、「この音楽の、このフレーズが、とても良いように感じる」と、普段では、味わえなかった感想を手に、、、(後は同じである)。

そのような作業は、日々の自分の主題とはかけ離れていても、一つの有意義な事と言えただろうから、人生を彩るためには、重要な日常の一コマだったのかもしれない。

(ひょっとすると、「日々の主題から離れて、広い視野を手に入れるために、実は、あなたにブレーキをかけていたのだ」という無意識下に潜んでいる自分の感情が言ってくるかもしれない。すると、その時に、無意識下に潜んでいる感情的な問題を言語化出来たので、その人がその感情的な問題を正確に把握できたことになる。)

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また、例えば、いつもの自分の作業空間から飛び出て、余計な事を全く考えることの出来ない程の激しいスポーツをしてみるとか。

あるいは、また、余計な事を全く考えることの出来ない程の競技をしてみるとか。

テニス、サッカー、卓球等の球技だと、プレイヤーは、それ以外の事を考えることは、ほぼ出来ない。

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もちろん、激しく移動するボールを追いかけるのだから、「ボールを追いかける」以外の事を考えたり、実行していたら、そのプレイヤーは負ける。

将棋とかチェス等の競技を行っても同様だ。

それらの球技や競技に熱中した後で、日々の自分の主題に返ってみると、別の側面から、日々の自分の主題を見直せる機会も多い。

球技や競技を例に挙げたけど、もちろん、その人の熱中できるものならば、何でも良いことになる。

上に挙げたことは、一種のラジオ体操とか柔軟体操と言えるだろう。

私達は、日々に同じ個所の肉体を使い続ければ、その部分の肉体は鍛えられるのだけど、その他の肉体部分は衰えてしまうことが知られている。

それを防ぐために、ラジオ体操とか柔軟体操がある。
ラジオ体操や柔軟体操は、全身をくまなく動かすので、身体全体に潤滑油を入れていることになる。

そのラジオ体操や柔軟体操を身体全体の潤滑油として見なせるように、私達の日々の行動においても、「行動全体の潤滑油」が必要とされているのかもしれない。

だから、「行動全体の潤滑油」を必要とするために、日々の自分の主題から離れて、何か他の行動が求められているのかもしれない。

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だから、日々の自分の主題の上で、「何か自分にブレーキがかけられているようだ」と感じた時に、上に書いたように、内観をしてみたり、芸術に打ち込んでみたり、スポーツや競技に熱中したり、あるいは、その他の何かの熱中できることに、ひたすら興じた後で、日々の自分の主題に対して、自分なりの新たな視点を入手しているかもしれない。

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そうなってくると、それらの「自分の日々の主題から離れたことの実行」も、遠回りだったのだが、やはり、それらも、「自分の日々の主題の行動の一つだった」ということになる。

だから、「自分にかけられていたブレーキのようなもの」も、見方を180度変えてみると、「実は、自分にとってのアクセルだった」ということになる。

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だから、私達の人生とは、うまく出来ているのかもしれない。

一見して感じるに、「私達の人生には、数多くのブレーキがかけられているようだ」と、普段、私達は思いがちかもしれない。

しかし、上に書いたように別の視点から、それらのブレーキを全て、アクセルとして見なすと、、、ひょっとしたら、私達の人生とは、うまく出来ているのかもしれない。
少しばかりの苦笑を顔の上に浮かべつつも。


                                       坂本 誠

2017年4月10日 (月)

三千百三: 何もしない方が良いと感じる時 (独白)

ジッとしておいた方が良い時があるようだ。

そんな日は、何か気になることが連続で起きたり、身の回りで、ちょっと変わったことがあったりするようだ。

そんな日に、いつも通りの自分の生活を進めようとしても、うまく進まないように感じる。

行動を止めた方が良いように感じる日がある。

行動と言っても、外側に向けた行動の事だ。

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考えやすいのは、例えば、仕事とか学校とか、家の外に出て、何処かに行く事とか。

家の中で日常的に行っている事までも止める事は出来ないので、これは仕方が無い。
例えば、ご飯を食べるとか、トイレに行くとか、ベッドに横たわって就寝するとか。

自分の外部に向けての、あらゆる行動を行っても、どこかでブレーキがかかってくるような気がする時がある。

こんな日は、本当に、休日にした方が良いようだ。

外に出ての仕事も乗らず、家の中での仕事も乗らず、外出先で友人達と会っても、どこか、いつもとは違う方向への「流れ」が生まれており、それによって、自分のライフに対して、納得のいかないものを感じるかもしれない。

自分の外部に向けての内で、どうしても、必要最小限にやらないといけないことは行った後、後は、自分の部屋に入った方が良いようだ。

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だけど、そんな日と言えど、全く必要性の無い日では無いことがわかる。

そんな日は、ひたすら、内省活動するのに向いている。

それとか、常日頃の自分のライフの流れを見直したりするのに向いているようだ。

あるいは、自分の心の状態を見直してみる。

あるいは、自分の部屋の中から、ずっと、外側を見るのに適した日かも知れない。
「外側」というのは、自分の目から見た、全ての事だ。
「自分の目」とは言わず、「自分の心」と言い換えられるだろう。
「自分の心」の外側に存在する全てのものを注意深く眺めることが出来ると思う。

「自分の心の外側に存在する全てのもの」とは、世の流れだったり、世の人々の心の流れかもしれない。

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自分の身に起きていることが、いつもとは違うから、いつもとは違った視点から、いつもは見慣れている「自分の心の外側に存在する全てのもの」に対して、違った角度から見ることが出来るかもしれない。

見慣れているものでも、少し角度を違えて見るので、新しい発見がそこに生まれるかもしれない。

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「何もしない方が良いと感じる時」と言っても、内省活動をしているので、結局、何かをしている事になる。

また、内省活動に似合っているのは、紙の上で筆を走らせることだろうか。

一つの日記を付けているとも言えるので、その日記に書かれたことを、自分なりに分析してみると内省したことになるだろう。

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不思議な時空間の中にいる時、自分一人の環境の中で思いを巡らすことも、何かが求められてのことかも知れない。

この原稿を書いている今は、桜の咲く季節だ。

桜の咲く季節というのも、日本では、特別の時間だと思う。

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なぜならば、「桜が咲く」というのは、一年の内で、ほんのわずかの間だ。

そのような一年の内で特別の期間とあるならば、私にも、いつもとは違った、ちょっと変わった時空間が訪れても不思議ではないように思える。


                                        坂本  誠

2017年3月13日 (月)

三千九十四: 港町を訪れる時(独白)

港町には、夕陽がよく似合う。
港町に押し寄せる、さざ波が薄く夕陽に染まるからだろうか。

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船の汽笛が、その情景に一滴の潤いを与える。

どこか絵になる雰囲気が漂う。

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「港町」は、旅人にとっては、陸地の果てを指す。

なぜならば、そこで大地が終わり、海の向こうの土地に行こうとすれば、その港町から出向する船に乗って、行かねばならぬから。

大地の果てる場所。
それが港町。

しかし、船旅を終える旅人にとっては、港町は大地の始まりを意味する。
旅人の足にとっては、その港町に記す自分の足跡が、その大地の上での第一歩となるのだから。
要するに、港町というのは一つの接点だ。

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そのような接点となる場所での、人々の集合・融合というのは、ある意味、特別な雰囲気をかもし出してくる。

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様々な人が集まってくるからだ。

地元の人もいれば、外国人のような遠国の人もいるだろう。

その混濁ぶりが、他の地域とは違ったものとなるようだ。

逆に言えば、港町のように、多くの外国人が訪れている地域を作ると、それが一つの呼びとなるのかもしれない。

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おそらく世界中の港町を見ても、同じような雰囲気があると思われる。

港町にやって来て、様々な目的の外国人を見かけると、人は、どこか異国情緒に触れるものだ。

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そのような日常とは違った生活の中に入り、ホテルの窓から港を眺めてみるのも良いかもしれない。

港のさざ波の動きが夕陽に染まっているかもしれない。

そのさざ波の動きに合わせて、グラスに注いだコニャックをも、手の中で、たゆたわせてみる。

すると、グラスのコニャックにも、小さなさざ波が生まれるだろう。

港の中の赤く染まったさざ波を、酒の肴(さかな)にしつつ、琥珀(こはく)色をしたコニャックのさざ波を、口に含んでみるのも、港町に訪れた旅人にとっては、乙(おつ)なことかも知れない。

赤いさざ波と琥珀色のコニャックの間に、どこか、何かの共通点を感じてしまうかもしれない。
そして、「自分は、今、夕日に照らされた、さざ波を飲んでいるのではないだろうか」と、人は錯覚するかもしれない。
その錯覚と酒を混ぜ合わせ、その味を胃の中や舌の上で楽しめるかもしれない。

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時折、港に腰かけて、人がトランペットを吹いている。

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その人は水夫ではないようだが、様々な文献や漫画の中には、船乗り達が港でトランペットを吹いている光景をよく目にする。

なぜ、船乗り達が、港の一角でトランペットをよく吹くのかわからないけれど、港町にマッチしている光景だ。

だから、港町に流れるBGM(Back Ground Music:背景音楽)とは、さざ波の音の上に、トランペットの旋律が流れ、時折、ワンポイントとして、船の汽笛がその旋律上に混ざることになる。

ある街の中に自然に生まれ、自然に流れているBGMに気付くのも、旅の一興だと感じてしまう。

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港町を楽しむ一つのコツは「時を止める」ということかもしれない。

旅の上では「接点」を現す、港町には、どこか異国情緒があり、その異国情緒と地元の雰囲気が混合している。

その混合具合を味わうには、その港町の過去に遡り、調べることが多くなるから、自然と「自分の内で時計の針を止めてみる」という志を持って、その港町を訪れた方が良いようだ。

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                                        坂本  誠

2017年2月16日 (木)

三千七十九: 桜の巨木を見ながら(独白)

家の近所をウォーキングしている最中に、桜の巨木の脇を歩く。

どれくらい昔から花を咲いているのか、わからないが、100年以上前から、そこにいるのだろう。

当然、この季節だと花を咲かせてはいない。

しかし、枝に手を触れてみるとわかるのだけど、既に、つぼみがふくらんでいるのがわかる。

その枝の先端のつぼみに軽く手を触れながら、その桜の巨木の枝ぶりを見てしまう。

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その枝の広がりを見ても、ゆうに一軒の家の敷地分は超えている。

地面から出ている幹の太さを図ろうとして、大人が手をまわしても、二人は必要だ。

周囲に誰もいない状態で、その桜の先端の枝先のつぼみを触りながら、その巨大さにしげしげと見とれてしまう。

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私は、その巨木に何かの巨大なパワーを感じてしまうのだ。

その「パワー」と言っても、人が物を動かす時に使うパワーとは、ちょっと違う。

何と表現して良いかわからないのだけど、とにかく、何かのパワーを想像してしまう。

そのパワーとは「生命力」と言われるものかもしれない。

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もちろん、桜は植物だけど、目の前の桜の巨木を見ていると、どことなく、眼前に鯨がいるように感じてしまう。

そして、もちろん、桜は植物だけど、私はその桜の巨大さからか、威圧感を感じる程なのだ。

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100年か、どれぐらいの時間かもわからないのだけど、今でも、少しずつ成長しながら、ずっと遠方に広がる海を見続けているのだろう。

巨大な桜の老木を目の前にして、その桜と語る一時というのは、何か深遠なものを感じてしまう。

それも日常生活から抜け出る一時なのかもしれない。

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「桜の巨木」というと、阿蘇の一心行の大桜を思い出してしまう。

先年の地震が起きた際にも、その桜の報道は聞かなかった。

だから、今でも阿蘇の一心行の大桜は阿蘇のすそ野に鎮座していると思う。

そして、また今年の春も一心行の大桜は、人や生き物を楽しませてくれると思う。


                                        坂本  誠

2017年2月13日 (月)

三千七十五: 私達の世界で起きている様々な比較を見ていると(独白)

以前のどこかの記事にも書いたかもしれないのだけど、他の人と比較をすると、たいてい、その比較をした人は不幸になってしまう。

なぜなら、隣の人の年収を知って、自分の年収額を気にしたり、隣の家の子供のテストの点数の方が高く、我が子のテストの点数の方が低いとなると、人は、すぐにも嫉妬を起こしてしまい、その嫉妬の心があるので、不幸感覚を得てしまうことがほとんどだ。

だから、私達の処世術の一つとして、「他人と比較しない方が良い」と言えると思ってしまう。

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ところが、私達の身の回りを見てみると、如何に比較する行為ばかりで占められいるかが実感できてしまう。

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上の例で行くと、「隣の人の年収額」が出てきたから、お金の数値によって、私達は生活の至る所まで、大量の比較行為が行われていることに気が付く。

上の例で行くと、「隣の家の子供のテストの点数」が出てきたから、学生に限らず、私達は社会の至る所まで、大量の比較行為が行われていることに気が付く。

私達の身の回りに、大量の比較行為が行われているので、冒頭からの流れによって、他の人を見て、容易に大量の嫉妬を起こしてしまい、その嫉妬の心が、私達の心の内部に不幸感覚を作ってしまうことがほとんどだ。

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すると人は、「だったら、私達の身の回りに、大量の競争を置かなければ良いだろう」と気が付くだろう。

そして、ほとんど多くの人は、自分の身の回りに大量の競争を自ら、あえて実行しようとしていないのに私達は気が付く。

だから、私達の身の回りに何気なく置かれている大量の競争行為は、いわゆる、お上(おかみ)と呼ばれる存在達が意図的に私達に与えていることに私達は気が付く。

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例えば「世界の子供の学力テスト」と言われるものが、世界中の数多くの教育に関する役所が共同で、同一のテストを作り、各国の子供達に、そのテストを受けさせるのだ。

そして、役所はその結果を報道会社に回して報道させて、多くの人々に見せているのだ。

その報道中には、例えば、「E国が1番であり、J国が2番であり、C国が3番であり、A国が4番であり、、、」と、こんな感じで報道されているのを、多くの人は見かける。

このような報道を見せつけられた世界の多くの人々は、いまだ自分の目では見ていない、世界の他の人々と競争させられたので、嫉妬心が起こり、多くの人が不幸感覚を得る(また、このような競争の報道によって、世界の人々の競争意識を無理矢理に高めさせられていることに私達は気が付く)。

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また、「世界の国々の内で、どの国が最も富んでいるか」の競争の結果を人々に知らせるためにも、経済関係の人はGDP(国内総生産)の数値を作り、このGDPの値を毎年毎年、広く報道させて、世界の人々を経済競争に巻き込んでいることにも、私達は気が付く。

この競争の結果からも、世界の多くの人々は、競争心を高めさせられたので、嫉妬心が生まれ、世界の多くの人が不幸感覚を得てしまうだろう。

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上に挙げた幾つかの例以外にも、私達は様々な競争を見つける事が出来る。

例えば、会社の売上高の成績とか。
数字だけではなく、会社の内部で、様々な役職名を作り、それがいわゆるランク付けされているので、会社の内部構造でさえも、競争だ。

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結局、私達の社会の中で「多くの人の目に付かぬように、イニシアティブを握ろう」としている人々は、地球上の多くの人々に競争させようとしていることに気が付く。

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多くの人々に競争心を植え付けるためには、様々なものを数値化した方が良いことがわかる。

例えば、子供達にテストをさせるのだけど、そのテストの結果は数値で表される。

また、個々の人々が「所有している」と思わされている、いわゆる「個々の人の富」の額を表すために、お金がある。
そして、上の例のように、そのお金の額の多寡により、隣の人との所持金の多寡を比較させられている。
私達の心の中に、競争から来る嫉妬心により、私達がいともたやすく不幸感覚を抱かせるようにしむけられていることに私達は気が付く。

あるいは、彼等は、私達の心に、多くの競争心を持たせようとしていることに私達は気が付く。

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ここから思い浮かぶ、彼等への対策の一つとしては、「数値で表現されているものに気を取られないようにする」ということだろうか。

私達の身の回りの多くの物や事柄を、数値化されてしまうことにより、その表現された数値によって、簡単に大量の比較行為が実行出来るようになっているのだ。

だから、私達の周囲に数多く存在している数値化された表現を、ほとんど無視する行為を実行すれば、良いことに気が付く。

確かに、今現在、私達の周囲に存在している大量の数値を、全て無視することは出来ないので、私達は極力意図的に、特に、人間に関わることが数値化されたものを、見ないようにした方が良いだろうと思ってしまう。

「人間に関わること」とは、たいていの場合、「個々の人間の能力を表せるもの」とか「個々の人間の所有している何かを数値的に表せるもの」と書けるだろうか。

大量の数値化が大量の競争を生む。
そして、大量の競争が私達の心の内部に多くの嫉妬心を作る。
そして、その多くの嫉妬心の結果、多くの私達が不幸感覚に陥る。
と、あるならば、私達は彼等の意図の逆を行わないといけない。
だから、私達は、身の回りに数多く書き表された大量の数値を軽視した方が良いとわかる。

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もっとも、「彼等は、なぜ、私達に大量の競争をさせようとしているのか?」という疑問が人の心に浮かぶ。

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彼等は人類支配をしたがっていた。
つまり、彼等は地球人類を奴隷にしたかった。
つまり、彼等の狙いで行くと、彼等は奴隷マスターの地位にある。

彼等が奴隷マスターであるので、本来ならば、どこかの何かの映画で見かけたような1シーンのように、奴隷マスター達が、その奴隷達に、激しく言葉を浴びせて、強制労働をさせていることになる。

ところが上記の映画のようなシーンを実行すれば、「彼等は奴隷マスターなのだ」と、簡単に誰もが気が付いてしまう。

だから、誰にも気が付かれないようにするには、彼等としては、以下のように考えただろう。

 「奴隷達が自分自身で、競争に励めば、良いだろう。だから、奴隷達の競争意欲を高めよう」

と。

こうすることにより、彼等は直接手を出さずとも、良くなる。
だから、彼等としては、私達の間に、競争意識を煽る(あおる)ような宣伝文句を、彼等なりのスピーカー(マスメディアとかだだろう)で、毎日、絶えず叫び続ければ良いことになる。

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その結果が「今、私達が眼前に見ている光景なのだ」と、人は気が付く。

「今、私達が眼前に見ている光景」とは、上で挙げた幾つかの例も含むし、様々なテレビや新聞でも伝えられているし、その他、日常生活で出会う様々な競争だろう。

彼等が多くの私達に競争意識を高めさせるには、何らかの報酬なり、あるいは、何らかの脅しを言わないといけなくなるだろう。

その競争意識を高めた結果の報酬としては、

 「あなたは、その競争に勝ったので、他の人々よりも優位に立っているので、気持ちが良いでしょ?」

とか。
あるいは

 「あなたは、その競争に勝ったので、その報酬により、他の人よりも多くの金銭を得たので、あなたが飢える心配はないでしょう」

とか。

そして、彼等としては、その競争社会から人が抜け出てもらっては困るので、脅しの文句としては、

 「あなたは他の人との競争に敗れたので、あなたの生活は苦しくなりますよ」

とか。
あるいは

 「あなた以外の外国人が技術競争に勝ったので、あなたの会社や国は、世界の技術競争に負けて、生活が苦しくなるでしょう。」
 
とか。

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このように改めて書いてみると、私達は16世紀ぐらいから20世紀まで続いていた「ヨーロッパ各国による、植民地拡大の時代」とか「帝国主義の時代」というのを思い出すだろう。

結局、私達は経済や技術面で、世界各国の人々と競争させられているのだが、その競争に勝った国が、負けた国を支配したり、経済的な植民地にする、という構図が、そのまま残されていることに気が付く。

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要するに、私達の間にばらまかれた大量の競争によって、世界の多くの人々は、その競争によって、互いを(経済的な或いは技術的な)敵と見なす癖を付けられてしまっている。

要するに、「多くの人の目に付かぬように、イニシアティブを握ろう」としている人々は、私達の心の内部に大量の争いを持ち込んだのだ。

大量の競争をもたらすことによって。

要は、彼等は大量の競争をもたらすことによって、多くの人の結束や絆を弱め、分断を図っている。

人は、互いの心の泉の内に滾々(こんこん)と湧き出づる、尽きることの無い友愛精神によって、我等自身の結束と幸福感と安らぎを高める筈であろうのに。

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要は、私のブログに時々出てくる彼等は、他の多くの人に欲の心を芽生えさせたり、あるいは、妬みの心を生まれさせるのに長けていた、というわけだ。

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日記のつもりで書いていた文章が、いつの間にか長くなってしまったので、あまり冗長になってもいけないので、この辺で筆を置きます。

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追加として。

あまりにもテレビを見過ぎない方が良いと思います。
なぜならば、テレビ中に出てくる「素晴らしい」と言われているような人物を見たり、華やかそうな生活ぶりを見たり、或いは、豪華そうな物品を見させられることにより、知らず知らずの内に妬みとか悔しさという感情を煽られるからです。

妬みや悔しさ或いは、それとは逆の優越感等を感じることによって、上記のように、不幸感覚を感じる方も多いと思われますので。


                                        坂本  誠

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