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2018年12月31日 (月)

三千三百十七:年末の一日(独白)

こんばんわ。

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年末の日となると、なぜかはわからないが、自宅周辺を散歩することが多い。
特に意味は無い。

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ただ、自宅の周囲の土地の上を、年の区切りの日に踏みしめてみると、何がしかの大地とのつながりを、ことさら感じてしまう。
もちろん、晴れた日なら、ことさらだ。

理由はわからないけれど、かなり後々になっても、大晦日の一日の出来事を思い出すことが多い。

何処に足を向けるかも決めず、ただつれづれなるままに、足を運びながら、今日のブログにアップしたいような記事をとめどなく考えていた。
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最近は、文体を気にしつつ、筆を運ぶことが多い。

そこで、今日の記事を書く前に、文体のことを考えてみた。
今、私が書いている、この記事は、自分で言うところの「独白調」というものである。

日本語には他にも「です・ます調」という文体がある。

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もちろん、この「です・ます調」という文体の語尾には、「独白調」と違い、「です」、「ます」が付く。
そして、この「です・ます調」の場合、文体を、その「です・ます調」で通すためには、全文にわたって語尾を「です・ます調」で統一する必要がある。

これ自体が日本語の不思議の一つでもあることに気が付く。
日本語には「独白調」の他にも、「です・ます調」がある。
海外で日本語を学ぶ外国人の方々にとっても、これほど、難しい外国語は無いのではないだろうか。

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普通、英語の文章だと、日本語で言うところの「独白調」のみで良いことに気が付く。
英語の場合の「です・ます調」というのは、強いて言えば「would(~でしょう)」とか「could(~でしょう)」を用いた丁寧表現のことを指すだろうか。

しかし、日本語の「です・ます調」とは、ちょっと違うと思われる。

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さらに、日本語の多用さを、歩きながら、考えていると、老人世代、つまり、おじいちゃんやおばあちゃんのことだが、この老人世代での、表現もあるようだ。

例えば、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんが語る時には、「何々じゃ」とか「何々じゃのう~」等のような文体を私達は聞くことがある。

これなどは、今、名付けてみると「おじいちゃん・おばあちゃん調の文体」と言えるだろうか。

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比較的若い世代の女性、女性だけでは無いかもしれないけれど、比較的若い世代の女性がよく使用していると思われる文体もある。

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これは、「何々よね?」とか「何々じゃない?」の表現である。

これは、学校時代の英語の時間でも習ったように、「付加疑問文」と言われるものだろう。
つまり、私達が習ったところだと「~, isn't it ?」とか「~, isn't he ?」である。

つまり、このような文体の違いを現す文法規則も英語には存在していることがわかる。

しかし、日本語の場合だと、上に書いたように、「おじいちゃん・おばあちゃん調の文体」もある上に、探し出してみると、方言以外にも、数多くの文体が潜んでいると思う。

だから、海外で日本語を学ぶ外国人の方々も、あるいは、日本国内で日本語を学んでいる最中の外国人の方々も、日本語を学ぶのには苦労すると思う。

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日本語というのは、ある意味、「雰囲気を現す言語」として知られている。

だから、英語で「私」という単語を意味するのは「I」のみだけど、日本語で「私」を意味する単語は、かなり多くある。
例えば、「我(われ)」とか、「私(わたし)」ではなく「私(わたくし)」とか、「僕(ぼく)」とか、「あたい」とか、「俺(おれ)」とか、「朕(ちん)」とか、「うち」とか、「拙者(せっしゃ)」とか、、、、

探せば、まだまだ出てくるかもしれない。

「ヨーロッパ語族」と言われている言語は、どちらかというと、周囲の出来事や、「伝えたい内容を正確に相手に伝えたい」という機能が備わっている、と聞いた事がある。

だから、相手に伝えたい内容を正確に伝えたいのだから、上に書いたような、日本語で見られるような「私(わたし)、I」を表現する、数多くの単語(「1人称単数」と言う)が、数多くあったら困ることになる。

この辺りが、日本語が「雰囲気を現す言語」として知られているゆえんだと思う。

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日本語が「雰囲気を現す言語」だと仮定して考えてみると、上に書いたように、「伝えたい内容を正確に相手に伝え」にくい、という欠点を持つことになる。

しかし、これ自体が、一つの長所であることに私達は気が付く。

なんとならば、日本語が「雰囲気を現す言語」なので、喋っている相手の雰囲気を現すためには、上述したように、多くの単語を使い分ける必要が出てくる。

上の例をそのまま使ってみよう。
分かりやすい例で言えば、「拙者(せっしゃ)は、、、」と書くと、これだけで既に、読者の頭の中には、江戸時代以前のサムライの姿を思い浮かべることだろう(この辺りは日本人で無いとわかりづらい部分であり、もし、今、日本語をあまり知らない外国人の方が、これを読んでもわかりづらい部分であるので、どうかお許しください)。

あるいは、「僕は、まだ、この年齢だから、、、」と書くと、これだけで既に、読者の頭の中には、年齢の幼い少年の姿を脳裏に思い浮かべていると思う。

あるいは、「あたいはね、こんな育ちだからさあ、、、」と書くと、これだけで既に、読者の頭の中には、街の中を現代風のファッション・スタイルで着飾った、若い女性の姿を脳裏に思い浮かべていると思う。

あるいは、「我々は、、、」と書くと、これだけで既に、読者の頭の中には、ちょっと威張った雰囲気のある、ある程度の年齢をしたイルミナティのような人物像を思い浮かべているかもしれない。

あるいは、「うち」という単語を使ってみると、「うちはね。ダーリンのことを、とっても好きだっちゃ!」と書くと、これだけで既に、読者の頭の中には、完全に、ある特定の人物の姿を思い浮かべているかもしれない。

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まだまだ例を考えつけるような気がするのだけど、ここまでにして、本題に帰りたい。

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つまり、このように、日本語だと、単語そのものが多くなるので、その日本語によって書かれた文章自体に、より多くの情報量を含めることが出来る。

試しに、上に挙げた多くの例を、英語に訳してみると、ほとんど一つの単語であるところの「I(私)」を使わないといけないので、その文章を語っている人の雰囲気や、しぐさや、性格を伝えるためには、それ以降に数多くの補助的な文章を付けることによって、語っている人の雰囲気や性格を、補うことになる。

しかし、日本語の場合だと、「私(わたし)」を現す単語が豊富なので、その「私(わたし)」に相当する、その1人称単数を示す単語を使っただけで、それを使った当人の雰囲気そのものを、文章だけで、かなりの量を伝えることが出来る。

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つまり、日本語という言語は、他の言語と比べて、より絵画的であることが私達にわかる。

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言語をより絵画的に使うためには、このように、上に挙げた例のように、例えば、「私(わたし)」に相当する、幾つもの単語を作成してみたり、あるいは、「独白調」とか「です・ます調」とか「おじいちゃん・おばあちゃん調の文体」のように、より多くの文体とかバージョンといわれるものを作成する必要があることがわかる。

また、日本語は絵画的だけでなく、音楽的でもある。
言語に、これらの目的、つまり、言語に絵画的であったり、音楽的な雰囲気を与えるためには、一つのものを現す単語に、数多くのバージョンを作成してみたり、それ相応のものを作る必要があることがわかる。

つまり、日本語は、他の言語と比べて、より右脳的である。
日本語は、世界の多彩さを表現するのに、より適した言語と思われる。

英語の場合だと、「私」を現す単語は「I」一つだ。
英語圏の人々は男も女も老人も若人も、その「I」を使って、「自分は、、、、、、」と表現する。
しかし、その英語の文章からは、男と女の違いもわからないし、老人が語っているのか、幼い人間が語っているのかも、その文章からは、その情報が欠落していることが第3者から見てわかる。

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確かに、英語の場合だと、より簡潔に「私」を現すことが出来る。
しかし、英語で、様々な世界を表現する際に、日本語のように絵画的に、あるいは、音楽的に、あるいは、多彩に、世界を表現できないことがわかる。

これが英語の長所でもあり短所でもあり、同時に、日本語の長所でもあり短所でもあることがわかる。

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一般に、世界では、日本語の難しさが知られているので、日本語学習は評判が良くないようだ。

しかし、ここに書いたように、日本語の面白さを掘り下げて書いてみると、日本語の奥深さがわかる。
つまり、日本語の研究をしてみると、日本語の素晴らしさがよくわかる。

かつ、このように、右脳的な言語の特徴が、日本語の中に残されていたことがわかる。
そして、このような右脳的言語の存在は、あまり世界を見ても少ない。

だから、日本語は貴重だし、世界の多くの言語調査に携わる人が、もっと、日本語の奥深さを調べても良いと思う。

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さて、このPC筆を流しつつも、大晦日の夕暮れ時が過ぎ、夜に入った。
2018年も、あと、数時間となった。

除夜の鐘が鳴りだす前の宵(よい)の口、静かな時間の中で、PC筆を流す際の、タッチタイプの音だけが木霊(こだま)する。
タッチタイプの音が、ピアノの音のように、キーボードの上から流れ出て、夜の静寂の中に溶け込んでいくかのよう。

この雰囲気は、なんと、大晦日の夜にマッチしていることか(いと、いみじ)。

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この辺りで、PC筆を置き、夕食に向かうつもりなのだけど、私が書き忘れていたことには、

    今年も、お世話になりました。
    来年も、どうか、よろしくお願いいたします。

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          2018年12月31日


                                       坂本 誠

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