« 三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その5) | メイン | 三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その3) »

2018年11月 2日 (金)

三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その4)

(『三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その3)』からの続き)

私事が絡むのだけど、最近、私の何十年か前に四国に居住したことに関する紀行文を書いている。

英語だけでは無く、幾つかのことを学ぶために、四国に行った。
むしろ、英語は補助的に学ぶものであった。

しかし、当時、私の英語の先生となってくれた方々は、よく私を褒めてくださった。
その理由と言うのも、私の翻訳文、特に英作文による日本語からの英語への翻訳に関して、非常に、私はお褒めを頂けたのだ。
アメリカから日本にやって来て、その学校で英語を教えている、アメリカ人の先生が私に言うことには、「おまえの英作文を読むのは、何かの英語の詩作文を読んでいるかのようだ」というものだった。

何十年かたった今でも、明るい記憶の一つとして私の胸中に残されている。

私は既に、高校時代から詩作をしていたので、英作文にもそのような影響がにじみ出ていたのかもしれない。

また、四国でのそのような、英語の先生達と出会う前に、既に出会っていた英語の先生達もいた。
ある英語の先生は、非常に英語が好きで、英語圏の人々と会話を交わすのが好きだった。
しかし、別の英語の先生は、試験のテストの点数を重視する先生だった。

前者の先生から学ぶことは多かった。
後者の先生から学ぶことは少なかった。

というのも、後者の先生の理屈だと、特に英語が好きでないことがわかる。
何らかの試験の点数さえ良ければ良いので、彼が専門とするのは、特に英語では無く、他の教科でも良いことに気が付くからだ。
だから、後者の先生の英作文は堅い感じのものが多かった。

前者の先生だと、英語が好きであり、日本の中にいても、外国人を見かければ、英語で話しかけるほどの英語好きだった。
つまり、前者の先生は、元々国際交流が好きなので、それに準じて英語が好きなのだ。
だから、英会話自体も好きであり、彼の口から出る英作文は非常に明解でわかりやすく、親しみの深い英文を語っていた。

しかし、後者の側の先生だと、試験のテストの点数重視だから、やたらと教科書でも見られるような、堅い構文を使用したものが多かった。
というのも、「教科書中によく見受けられる英語構文を多数使用していれば、採点者側が、その英作文に与えるであろう点数も、きっと高いだろう」というのが、彼の持論だった。

---------------------------------

また、ここからわかるのだけど、前者の先生が後者の先生の英作文を添削すると、かなりの量の赤ペンが入っていて点数が低い英作文となったと思う。
しかし、これとは逆に、後者の先生が前者の先生の英作文を添削すると、これまた同様に、かなりの量の赤ペンが入っていて点数が低い英作文となったと思う。

つまり、人柄や人格によって、私達も口から流れ出る文章にも堅い感じの文章を語ったり、あるいは、流麗な文章を語ったり、あるいは、俗語交じりで、屈託無く友人達と会話する時のような文章スタイルが幾つも、存在していることがわかる(その他、普通に私達が日本で生活していても、その場その時に応じて、かなりの量の、それぞれに違った文章スタイルを語っていることに誰でも気が付くだろう)。

この時、私は理解したのだが、要するに、学校などで習っている英語は、あまり意味の無いことに気が付いた。
なんとならば、上記で説明したような、2人のスタイルの違った英語の先生が、

  「ある一つの英作文があって、その英作文に与える点数が、2人の先生によって、それぞれ違っている」
  
と言うことに気が付いたのならば、学校教育で見られる「点数付けは無意味だ」とわかるからだ。

結局、日本の学校システムの中で「英語」という科目があるけれど、これに点数付けをすることは出来ないことがわかる。

なんとならば、例えば、英語圏の国々に行けば、その国の人々は何気なく英語を使っているけれど、日本内の英語の教官が、その英語圏の国に行って、その英語を語っているネイティブ・スピーカーと呼ばれる人々に対して、点数付けを出来ないのと同じだからだ。

(『三千三百四:翻訳事情や翻訳の面白さを考えて(その5)』に続く)


 

                                       坂本 誠

Powered by Six Apart
フォトアルバム