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2018年8月23日 (木)

三千二百八十三: 苦労や困難を自ら望む人々を見て(独白)

以前のブログ記事では、独白調で書くことも多かった。
最近までは、「です・ます調」である丁寧表現で書くことが多かったのだけど、筆の走り具合から見て、独白調も良いように思えるので、これから独白調も増えるかもしれない。

世には、受難礼賛とか苦難礼賛と言われる行動がある。

私個人としては、受難礼賛とか苦難礼賛と呼ばれる行動を理解できないし、勧めることは出来ない。
この受難礼賛とか苦難礼賛の現れとして、副次的に「忍耐は素晴らしい」とか「苦労は買ってでもせよ」という風潮が生み出されているのに気が付く。

先に書いておくけど、確かに、受難礼賛とか苦難礼賛を望む人々がいるので、私はそれらの人々を止めるつもりは無い。
どんな人にも自由があるのだから、自分の信じたことを追求すれば良いと思う。
自分の信じたことを追求したら、納得できる何かが掴めるのだから。

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ただ、受難礼賛とか苦難礼賛の行動を行う人々や、「忍耐は素晴らしい」とか「苦労は買ってでもせよ」という人々の方針や心理を、申し訳ないけど、あまり理解することが出来ない。

P4220152

 

というのも、「忍耐とか苦労を所有しよう」という考えは、つまりは「不幸を所有しよう」という考えとほぼ同じ事だと言えるからだ。

「忍耐」とか「苦労」というのは、苦痛の一種である。
苦痛であるから、つまり、その「苦痛を所有する」ということになる。
よって、「苦痛を所有する」ということは、他ならぬ、「不幸を所有する」ということになるからである。

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私が間違っているかもしれないのだけど、多くの人間というのは、幸福を目指して生活していると思う。
ひょっとしたら、私が間違っていて、現実的には、「多くの人間は不幸を目指して生活している」という状況なのかもしれない。

ただ、私見では、多くの人間は幸福を目指して生活していると思う。

だが、上記の人々、つまり、受難礼賛とか苦難礼賛の人々や、「忍耐は素晴らしい」とか「苦労は買ってでもせよ」という人々は、自らの内部に、苦痛や抵抗を所有し続けるのだから、不幸を目指していると思う。

だから、その手の人々は、当然のことながら、不幸な人々になると思う。

私個人の正直な気持ちから言うと、私は幸福になりたい。

だから、基本的には、彼等を責めるわけではないのだけど、受難礼賛とか苦難礼賛の人々を理解できない。

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そこで、私なりに受難礼賛とか苦難礼賛の人々の、その苦痛を求める動機を考えてみた。

P4220155

 

「忍耐」とか「苦労」というのは、生きていて、何らかの我慢を求める何かが発生している状態である。
障害物競走のように、人生行路の上で、何かの障害に当たっている状態だろう。

そして、その障害を乗り越える際に、障害物競走で考えると、ジャンプ力が高まると思われる。
実際に、障害物競走をしていない人と、障害物競走を毎日行う人だと、後者の方が、はるかに高いジャンプ力を所有すると思われる。

なので、その障害物競走のランナーは、「自分は、人よりも高いジャンプ力を所有したい」という願いがあるとわかる。
その結果、自分の人生に、その障害を自ら与えるのだ。
その結果、ずっと、障害物競走を行えば、人よりも高いジャンプ力を所有できるかもしれない。

私見では、受難礼賛とか苦難礼賛の人々の、その苦痛を求める動機はここにあると思える。
自分自身に、「苦労」を与えれば、その苦労を乗り越える際に、何らかのちからを所有できるかもしれない。
「忍耐」というものにしても、全く同じ事が言えると思う。

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何らかの能力の向上が見込まれるのだけど、そのためには、永遠に自分に対する抵抗や苦痛を求め続けることにもなる。
結果、永遠の不幸を所有することにもなると思う。

それが更にエスカレートすれば、受難礼賛とか苦難礼賛を追求する人々になると思う。

受難礼賛とか苦難礼賛を追求する人になると、常に、自分自身に対して、自ら苦労する環境を与えたり、自らに困難事情を課せたりする。

有名な例で言うと、キリスト教の、中世などに見られる殉教者と言えようか。

映画や小説やドラマで見たところによると、その殉教者は以下のような行動を取るのだ。

  「主が十字架に架かって死んだぐらいだから、それにならって、私も十字架に架かろう」

というものだ。
そして、映画や小説やドラマ中の、殉教者は自分の願いが叶い、十字架にはりつけられて死んでしまう。

このような、受難礼賛とか苦難礼賛を求める人々というのを私が見て、、、残念だけど理解できない、、、。
しかし、私が上にも書いたように、どんな人にも自由があるので、そのような状況を追求しても良いとも言える。

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確かに、ある程度は、自分の能力向上のために、何らかの障害物や苦痛物を自らに与える時間とか機会を持っても良いかもしれない。
ただ、永遠に、その状況を求めるのはいかがなものかと思ってしまう。

「忍耐は素晴らしい」とか「苦労は買ってでもせよ」という考えの下に行動していると、やがてはエスカレートして受難礼賛とか苦難礼賛を追求するようになると思う。

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また、この手の「苦しみを求める」という人は、その何らかの苦しみや困難を乗り越える際に、身に付けるであろう能力獲得を目指す結果、上にも書いたように、常に自分自身に与えるための、困難状況を探し求めていることになる。

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その結果、常に常に、苦しみを所有していることにもなる。
それらの人々は、苦しみや困難を乗り越える際に、身に付けるであろう能力獲得を目指しているので、それらの人々は、その困難状況を得ていることになり、その状況をもって、「現在、私は幸福の状態にある」というかもしれない。

彼(あるいは彼女)の目指す目的の途中にあるからだ。

「苦しみや困難を得ている状態そのものが、私の幸福である」と言っていることになる。
つまり、「今現在、私は苦しみや困難を得ている」という状況を、彼(あるいは彼女)自身が知っていることが周囲の人々にはわかる。
つまり、その状態だと、彼は苦しみを得ている真っ最中なのだが、「それ自体が幸福でもある」とも言っていることになる。

読者である、あなたが彼の上の状態を見るに「これは矛盾している」と感じないだろうか。
「矛盾しているので、彼は永遠に幸福にならないだろう」と、あなたは感じないだろうか。

また、周囲にいる私達が、彼の姿を見て、「現在、彼(あるいは彼女)の状態は幸福なのか不幸なのか判別できない」と言わないだろうか。

しかし、何度も書いているように、人には自由があるので、彼がその状態を求める自由もあるのだから、周囲にいる私や、読者である、あなたが彼を止める権利は無いとも言える。

私や、あなたが言えるところでは「彼は永遠に幸福になれないだろう」とは言えるかもしれない。
少なくとも、彼(あるいは彼女)に対して、「苦しみを求めることは止めた方が良いのでは」と助言することは出来るかもしれない。

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冒頭にも書いているけれど、人間というのは、基本的には、幸福を求める存在だと思う。
もちろん、私がここで書いている幸福の状態とは、快楽主義とか享楽主義と呼ばれるものではない。

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また、今一つ言えるであろうことがある。
この手の「自ら困難を求める人」というのは、ある程度、人に騙されやすいと思う。

なぜならば、世に見かける幾つかの詐欺行為というのを思い浮かべながら、読んでほしいのだけど、何らかのことで、ある他人に騙されると、その騙された人というのは、ある程度の何らかの不幸状態を得ることになる。

しかし、その「自ら困難を求める人」というのは、元々、不幸環境を望んでいるのだから、騙されて何らかの不幸状況に陥ったとしても、彼にとっては、「私が求めるところの不幸環境を得ることが出来た」となるのだから、彼にとっては、その「騙された」という自体すら、彼(あるいは彼女)にとっては、幸福な出来事の一つとなってしまう。

外部にいる私が彼のその状況を見て、、、やはり、、、基本的には賛成したり、賛美することは、、、ちょっと出来ない、、、。

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「忍耐が肝心だ」とか「苦労は買ってでもせよ」という感じで、苦痛を美化するような美談の文章も多いけれど、この私のエッセイの視点から、今一度、それらの文章を見直しても良いのではないかと思う。

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この手の、受難礼賛とか苦難礼賛を求める人々に対して、何らかの形での、別のアプローチで、何らかの見解を出している人もいるかもしれない。

時間や機会があったら、その手の見解や文献や報告を読んで、別の見方が出来たり、より広い見方が出来るために、学習するかもしれない。

しかし、それをすることによって、受難礼賛とか苦難礼賛に対する私の視野や見解が広がったとしても、、、私が基本的に賛成すると言うことは、、、無いと思う。


                                       坂本 誠

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