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2018年8月22日 (水)

三千二百八十二: 現在の教育制度を考えて_その2(独白)

(『三千二百八十二:現在の教育制度を考えて_その1(独白)』の続き)

●1:先生の側が、学を望む生徒達のいる場所に行く

一つの解決方法として、考えられるのは、「先生の側が、学を望む生徒達のいる場所に行く」と言えるものだと思う。

江戸時代以前だと、義務教育が無かったにもかかわらず、寺子屋とか藩校の存在があった。
そこでは、学問的な知識の吸収を欲する子供達や青年達が集まって、知識吸収欲の求めるまま、自ら欲して、「先生」と呼ばれる先達の知識を学んでいた。
このように、「教育制度」というものが社会に存在しなくても、「学問が好きだ」という子供達は現れるものだ。
もちろん、「学問なんて嫌いだ」という子供達もいるだろう。

このように、いつの時代でも、どんな場所でも、「何らかのジャンルの知識を、痛切に手に入れたい」という子供達が一定数現れることが知られている。

そのような子供達が、自ら欲して訪ねる場所が、寺子屋とか藩校だったことがわかる。

このような寺子屋とか藩校に自ら訪ねてくる子供達は学びたくてしょうがないから、自ら、どんどん学ぶ。
(この段階だと、「学ぶ」という単語を使うのが不適切なぐらいである。「学ぶ」とか「勉強する」という単語は、額(ひたい)に、ねじり鉢巻きを締めて、こめかみから油汗を流しながらの、苦痛を感じながらの、知識を吸収している、という雰囲気があるのだから。だから、この状態での「学ぶ」という段階だと、『甘い空気を吸うが如くに、何の抵抗も無く、すらすらと、貪欲に知識を吸収している』状態だと言い換えれることだろう。)
だから、そのような場所の、そのような生徒達だと、高段に立っている先生の方が、口を酸っぱくしながらの「君達は、もっと勉強しなさい」という叱り言葉の一つも発する必要は一切無いことだろう。

つまり、このような場所だと、生徒達の側の需要と、先生の側の供給がピッタリとマッチしていることがわかる。
この場合、先生の側は「子供達に知識を教えたい」という需要もある。
だから、先生にとっては、需要も供給も、同時に満たされることになる。
また、無理に、生徒達を叱りつける必要も一切無い。
現代でも、このような学校が、おそらく幾つか残存していると思う。

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このような場所だと、そう、先生の側が生徒達に宿題すら出さずに済むことがわかる。
(ところが、この状態だと、もはや、生徒の側が、自ら関心のあるジャンルの知識を、自らどんどん吸収・解析・応用その他等を勝手に実行していくので、「そのような場所だと、教師というものの存在は一体必要だろうか?」という、更なる意見・疑問等が湧いて出てくることだろう。)

現代だと、塾のような場所でも、このような場所があると思われる。

そのような、生徒の側と先生の側の需要と供給のバランスの取れた場所に、先生が異動することが私の更なる疑問の解決方法の一つかと思われる。

どんな場所でも、需要と供給がピッタリとマッチしているような人々の集団というのは、問題を起こす事がほとんど無い。
なぜならば、需要と供給がピッタリとマッチすることによって、その集団の人心は安定するからだ。

(『三千二百八十二:現在の教育制度を考えて_その3(独白)』に続く)

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