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2018年7月 1日 (日)

三千二百七十: 教育について_No.3

こんばんわ。

三千二百六十六:ある性格の人々を見て(独白)』と『三千二百六十五:教育について_No.2』を足し合わせたような記事です。

『三千二百六十六:ある性格の人々を見て(独白)』で、次のように書きました。
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>その人々の特徴とは「新しいことを学びたくない」という願いを持っていることである。
>その人々に、「あなたは、なぜ、新しいことを学んだり、知識を吸収しようとしていないのですか?」と聞いてみると、意外な答えが返ってくる。

>その答えとは、

>  「自分の方が年長者なので、新しいことを若い人に教えてもらうのが、恥ずかしいし、私のプライドが傷つけられるからだ」

>という返答等が返ってくる。
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このような方は、新しいことを学ぶのが嫌なので、次第に、頭を働かさなくなるので、認知症を手助けしているように感じます。

ここから、さらに疑問が進みました。

その疑問とは、

  「彼(あるいは彼女)は『年長者の方が偉いので、若い人に教えてもらうのが恥ずかしい』と信じ込んでいる。つまり、ある種のプライドが出来上がっているのだけど、このプライドは、どのように形成されたのだろうか?

という疑問です。

この種のプライドが、どのように彼の内部で形成されていったのかを、考えてみると、それは、やはり、社会全体に及んでいる教育システムとか、慣習が、彼をして、そのような性格作りを行っていったと私は見ています。

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私達の教育システムを振り返ってみましょう。

幼い頃から、学業的な知識を無理矢理、詰め込まれ、そして、彼等は徹底的にテストされています。
そのテストによって、彼等は(つまり、私達も)、競争と比較の世界に閉じ込められています。

そのスタイルや雰囲気を感じるに、学校側が「幼い人々に何らかの知識を与えよう」という、心の姿勢よりも、学校側が学問的な知識を使いつつ、多くの生徒達に「お前達に競争精神を植え付けてあげよう」という、心の姿勢を、私達は感じることでしょう。

つまり、私が感じるところ、現代の教育システムだと、「何らかのジャンルの知識吸収の面白さを伝えてあげよう」ということは無く、もっぱら競争重視のため、多くの生徒達は(他ならぬ私達そのものが)、「何らかの新しいジャンルを学ぶことは苦痛だ」という意識が、多くの人々の心の中に形成されていると思います。

つまり、多くの人々がテスト多用や競争原理のマイナスの効果によって、「本来、私は勉強が嫌いなのだ」と感じる人が多いと思います。

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人々の心の内部に、「私は勉強が嫌いだ」という苦痛の精神が形成されているとあるならば、どうして、その人が、学ぶことに楽しさや有意義さを感じることが出来るでしょうか?(いや、出来ないだろう)

ましてや、激しい競争の結果、さらに「自分より、年齢の下の人に教えてもらいたくない」という心も形成されることでしょう。

なぜならば、多くの学校では、学年の上のものが学年の下の人に知識伝達等を行う場合もあるからです。

ですから、これだと、「年齢の上の人の方が、年齢の下の人の方よりも、常に優秀であったり、あるいは、常に教え導いたり、あるいは、何らかのことで、常に年齢の上の人の方が有利であるに違いない」という、誤った観念が、彼(あるいは彼女)の内部に、固く形成されるであろうからです。

これだと、彼は勉強嫌いにもなった上に、かつ、年下の人にも教えてもらうのが恥ずかしくて苦しいから、彼がさらに年齢を重ねると、さらに、彼は苦しくなることでしょう。

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つまり、これだけの苦痛を形成した原因を見ると、私が上に書いたように、現在の私達の教育精神とか、社会概念などに、強力に刷り込まれている「競争」と「比較」の精神でしょう。

実際には「何らかの新しいジャンルの知識を吸収する」ということは、誰にとっても、楽しいことなのです。
喜びです。

「何らかの新しいジャンルの知識を吸収する」というのは、私がそのような表現をしたいから、そう書いたのですが、一般にわかりやすく書くと、「新しい知識を学ぶ」ということです。
私自身は、「学ぶ」とか「学問をする」という表現自体も、非常に堅苦しいものを感じますので、「甘い空気を吸うが如くに、自然に、新しい知識を吸収する」という表現を好むので、「何らかの新しいジャンルの知識を吸収する」という表現をしています。

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本来、何かを学ぶのが面白くてしょうがない筈の人間なのに、「なぜ、学ぶのが嫌になったのか」を考察すると、幼い頃からの大量のテストによって、比較され続け、競争精神を心の底に植え付けられた結果、人が学ぶことが嫌いになったと思います。

つまり、私がこの記事の主旨を、見つめ続けてみると、私達の社会に根ざしている「競争」と「比較」の精神に問題があると言えるわけです。

この記事で挙げた問題の原因を、私なりに書いたわけですので、この問題の解決を行う方向とは、つまりは、私達の社会に根ざしている「競争」と「比較」の精神を、私達が捨て去って、私達は新たに「協調」や「協力」の精神を養うことが、問題解決の回答の一つとなると思います。

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報道を見ても、彼等が以下のような熱弁等をふるっている光景を、私達はしばしば見かけることでしょう。

  「競争が大事だ。何よりも、我々は競争を愛すべきだ」

と。

ちょっとばかり、例を挙げてみると、小学校ぐらいの同年齢の生徒達で、同一のテストを受けさせており、そのテストの結果を、世界各国に伝えています。
そして、その年齢の生徒達で、「どこの国が一番か」とか「どこそこの国が最下位だ」と、報じています。

そして、その成績結果を世界中の人に見せて、

  「さあ、我々は、あの国の学力レベルに負けてはならない。だから、我々は一生懸命勉強するんだ」

と、まるで、高い壇上から拡声器を使って、多くの人々に伝えている光景を、私達は見かけたことも多いことでしょう。

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そして、私達は、次なる疑問を抱くでしょう。

  「なぜ、私達は競争しないといけないんだ?」

と。

そして、世を詳細に見つめ続けていると、資本主義原理が多くの国に導入されており、その資本主義原理が競争原理そのものだからこそ、私達に競争精神が幼い頃から、強要されていることに気付くでしょう。

ですから、彼等としては、

  「ほら。私達は競争原理の経済原理を導入しているから、私達は競争しないといけない。もし、その競争に負けると、お前達も知っていると思うが、競争に負けて、倒産した会社の元社員のように、みすぼらしい雰囲気をまといつつ、困窮の生活と共に苦しまなければならないからだ。お前達が、その苦しみの生活を味わいたくなければ、お前達は我々の言うように競争し続けるんだ」

と言っていることに気が付くでしょう。

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そして、その競争の結果を、多くの人々にわかりやすくするためには、数値の多用が必要となってきます。
ですから、私達が幼い頃より受け続けたテストも数値だらけだし、私達の日常生活の中で、必要物資を手に入れる際にも、お金の使用ばかりを推奨されています。

この「お金」というものが、少なくとも、日本社会の大勢の人々に強要された件については、私がよく引用している以下の文献を、どうか、再読してください。

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『三千十一:現代と中世の商業事情を考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/11/post-05f9.html
司馬遼太郎『街道を行く 9 信州佐久平みち、潟のみちほか』(朝日文芸文庫)より文章と写真を引用
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つまりは、為政者の人々が、「あなた達は、日常生活の中で、必要物資を手に入れる際には、お金というツールを使用しなさい」と、強要してくるわけです。

これにより、お金というツールが、やがては「人間社会の間で必要不可欠なツールだ」と、多くの人々が思い込み始めると、お金というツールが、そのコミュニティの間では、絶対権力を持つようになってきます。

その結果、私達の人間社会でも、よく見受けられるような、「お金が無ければ、人は生きていけないのだ」という考えが定着するようになります。

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今でも、多くの人々は、お金を愛する人が多いかもしれませんが、その「お金を愛する」という、お金への愛の心は、「お金が無ければ、人は死んでしまう」という、恐怖心から生じている、と、人は気付くでしょう。

早く言えば、「お金への愛」というのは、言い換えれば「お金が無ければ死ぬ」という恐怖心の裏返しなのです。

要するに、上の引用文献『三千十一:現代と中世の商業事情を考えて』に見られるように、為政者の人々が「あなた達はお金というツールを使用しなさい」と言いながら、私達にお金を与えたのですが、これによって、多くの人々を、お金によって、拘束することが出来る、ということがわかるでしょう。

いわば、彼等は過去から今日に至るまで、私達を恐怖によって、支配しているということになります。

彼等としては、

  「あなた達がお金を失うと、あなた達は、みすぼらしく苦しい生活を送り、あるいは死にますよ。そうなりたくなければ、歯を食いしばって、競争に励みなさい」

と、彼等は、そのようにしていることがわかります。

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また、そのようにお金が人間社会の中で絶対権力を持っていると、そのお金を大量に持っている、彼等としては、大いに威張ることが出来る、ということが、私達にわかるでしょう。

そして、その絶対権力である、そのツールを、彼等の方が大量に持っているのだから、彼等以外の多くの人々を、盲目的に召使いとして扱えることに気が付くでしょう。

だからこそ、彼等としては、

  「多くの人々よ。お前達は、もっともっと多くのお金を愛しなさい(なぜならば、お前達がお金を愛すれば愛する程、私達が、お前達を支配することが出来るのだからな)。」

と言っていることがわかるでしょう。

ですから、さながら、多くの人間とは、言ってしまえば、蟻地獄の中に吸い込まれていく、多くのアリ達のことであり、蟻地獄の中心で、待ち構えているのは、彼等だ、とも表現できるでしょう。

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つまり、私達の生活の隅々に至るまで、上記のように、多くの人々を恐怖心で煽ることによって、この世界が成り立っていることがわかります。

ここから、私達の社会の隅々に至るまで、極端な数に至るまでの競争が起こされているので、「私達の社会は競争づくめになっている」と、私達は理解することが出来ます。

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ですから、この記事の冒頭で挙げた問題点であるところの、現在の私達の教育精神とか、社会概念などに、強力に刷り込まれている「競争」と「比較」の精神から解放されるには、「競争」と「比較」の精神を放棄して、「協力」や「協調」の精神の追求、ということになるでしょう。

こうすることにより、私達の心の内部に形成された見栄(みえ)とかプライドも消えるでしょう。

また「何歳になっても、何らかの新しいジャンルの知識を吸収する」ということが、喜び、この上ない、私達の幸せの一つとして、私達の心中に蘇ってくるかと思います。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『三千二百六十六:ある性格の人々を見て(独白)』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/06/post-c3d9.html

『三千二百六十五:教育について_No.2』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/06/_no2-117e.html

『三千二百六十一:教育について』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/06/post-8bea.html


                                       坂本 誠

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