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2018年6月21日 (木)

三千二百六十五: 教育について_No.2

こんばんわ。

三千二百六十一:教育について』の2段目です。

前段からの続きのような話題を、つれづれなるままに書いてみたいと思います。

前段『三千二百六十一:教育について』でも、同様のことを書いているのですが、結局、現代の世の多くの人と言うのは、「私が社会に出て、世に多くの貢献が出来るよう、今、私は知を学んでいます」と言うよりも、「私が社会人になって、就職先において、より多くの給金を頂くために、今現在、私は学校で勉強しています」という方の方が、圧倒的に、多いと思います。

これは、悲しいことに、前段でも紹介したように、過去の為政者達によって、世の中が、お金だらけの社会にさせられてしまったからです。

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お金だけとは言わず、どちらかと言うと、学校の競争精神に呑みこまれてしまったがために、学校の勉強において、競争の結果、「トップに近い成績を納めるために、今現在、勉強している」という人も、多いと思います。

どうしてかと言いますと、学校の中の試験の中で、トップの成績に立てば、成績優秀にて、賞状などをもらえるかもしれません。
そのように、周囲の人々から、チヤホヤされるかもしれません。
また、そのような成績を納めますと、将来的に、より上の学校に進むことが有利になる条件が整えられている、学校システムも多いことでしょう。

ですから、世の多くの生徒達が、「自分が、その成績優秀の状態を獲得したい」というのが、真の動機となって、学校の勉強を頑張っている人も多いのではないでしょうか。

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このようになってきますと、その人の勉強の真の動機というのは、例えば、よくマスメディアに立たされた生徒達の発言内容であるところの、「私は、将来、社会の役に立つために、今から勉強を、、、」という動機を詐称していることになります。

「詐称(さしょう)」というのは、「嘘をついている」ということです。

というのも、私の学生時代等も、既に、偏差値教育ばかりが重視されており、競争礼賛の世界となっていたため、同様の状況が、多くの学生達の間に存在していたからです。

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ですから、真の動機として、「私は他の人々よりも優越感を得たい」と言う方が、私のところにやって来て、「坂本さん、どうやったら、あるジャンルの学問を好きになれるでしょうか?」と、質問してきても、それはお門違い(おかどちがい)となるでしょう。

なぜならば、「あるジャンルの学問を好きになりたい」という方向と、「他の人々よりも優越感を得たい」という狙いの方向は、完全に違っているからです。

仮に、「他の人々よりも優越感を得たい」という方が、「あるジャンルの学問を好きになりたい」と言って来ても、その人の
真の狙いは、「他の人々よりも優越感を得たい」ということです。

ですから、その人の真の狙いを考慮してみると、彼(あるいは彼女)の真の狙いを達成するためには、あるジャンルの学問を好きにならなくても良いわけです。

「他の人々よりも優越感を得たい」という願いを達成したいのならば、特に、何かの学問を好きにならなくても、その他の達成手段は存在するかもしれません。

何とならば、世には学問以外にも様々なジャンルがありますので。

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しかし、そのような人は、心の奥底に、「自分は優越感を得たい」という願いを持っているのですから、そのような動機を持ちたいと言うこと自体が、「学問を如何にすべきか」という問題よりも、完全に別問題と言えるでしょう。

このブログの読者の方でも、周囲の人で、「私は他の人々よりも優越感を得たいのです」と公言する人を見かけたら、読者の方も、現在実行している何らかの作業を中断して、その公言している人の肩を叩きながら、「ちょ、ちょっと、あなた、、、」という類の会話が始まると思います。

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しかし、実際には、そのような人は多いと思います。
なぜならば、現代の偏差値教育などで、競争礼賛の世界が成り立っていれば、競争に勝つことによって、今まで、周囲の人からチヤホヤされ続けていたら、自ら、そのような、競争を愛する人になり、強いては、優越感を得たい人になっている可能性が高いからです。

これなども、現代の競争教育による犠牲者と言えるでしょう。

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■:『競争に打ち勝ちたい人』の場合

日頃、注意深く、周囲を見回すと、「学問を愛する人」と「競争に打ち勝ちたい人」との違いに気が付くようになると思います。

後者の方の「競争に打ち勝ちたい人」の勉強に対する姿勢と言うのは、たいていの場合、刻苦勉励(こっくべんれい)するような勉強の姿勢が見られるようになります。

なぜならば、上にも書いているように、その人の心の奥底では、本当に学問を愛していないからです。
「競争に打ち勝つ」というのが彼(あるいは彼女)の本当の願いですから、周囲の人から見て、彼が、刻苦勉励しながら、勉強をしている姿を見ても、彼の雰囲気に苦痛を感じ取ることでしょう。

なぜならば、彼の真の目的とは、「あるジャンルの知識を身に着けたい」ではないから、無理矢理にこそ、そのジャンルの知識を身に付ける必要があるからです。

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ですから、多くの人も、テレビや漫画や小説の中に描かれているのを、よく見かけたこともあると思うのですが、ある生徒が、額にハチマキを巻いて、夜遅くまで、勉強机について、勉強しているシーンを見たことでしょう。
そして、眠気を払うために、幼少の頃から、多くのコーヒーを飲んでいます。

つまり、このような勉強スタイルだと、彼は、幼少の頃から、苦痛を噛みこらえながら、あるいは、身に降りかかって来ている苦痛を噛み殺しながら、自分の学ぼうとしているジャンルと格闘しているわけです。

自分の学ぼうとしているジャンルと、既に「格闘」しているので、つまり、彼は、自分の学ぼうとしているジャンルに対して、苦痛を感じているわけです。

これだと、「あるジャンルの学問を愛したい」とは、逆に、遠ざかっていることが私達にわかります。

わかりやすく書いてしまえば、「彼は無理矢理、その勉強をしている(或いは、させられている)」ということが、私達にわかります。

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そして、このような人の兆候としては、やはり、証(あかし)を求めている人が多いです。

証(あかし)というのは、例えば、どこそこ学校の卒業証書とか、全国テストでの何番の成績証書とか、その手の類のものです。

本当に、ある学問体系の求めるものとしては、例えば、その手のジャンルの知識の量とか、その手のジャンル上での、何らかの法則を解析する技量とか、その手のジャンル上での、法則を応用した、一般社会への技術とか、そのようなものです。

しかし、今私が話題としているような人の兆候としては、それらの学問の本質が第一に必要なのでは無く、卒業証書とか、何らかの成績証書を求める傾向があります。

わかりやすく書いてしまえば、「有名学校を出ていたら、カッコいいじゃないか」というものです。

なぜならば、有名学校を出ていることが、彼(あるいは彼女)の社会的なパスポートとなり、「様々な場所に行っても、そのパスポートを見せれば、何の御咎めも無しに、その門をくぐることが出来る」と、彼は考えているからです。

これなども、ずっと根拠をたどってみると、結局、私が冒頭に書いた「私は他の人よりも優越感を得たい」というのが、彼(あるいは彼女)の真の動機となっていることがわかるでしょう。

結局、この「優越感の追求」という願いは、「見栄(みえ)を張る」というのと、同じ行動になってくるのがわかるでしょう。

ですから、仮に、このような方が、「さて、何かの学問を学ぶ必要がある」と言うと、その直後には、「この手のジャンルの有名学校はどこにあるのか?」とか、続いて、「その有名学校に入るだけの軍資金は、足りているだろうか?」というセリフが出て来やすいものです。

なぜならば、彼が、その手のジャンルの学を学ぶに当たり、その手のジャンルの知識量なり技量よりも、その手の学校の卒業証書という肩書きの方を、彼は愛しているからです。

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■:『学問を愛する人』の場合

かなり、前者である『競争に打ち勝ちたい人』の説明が長くなりましたが、ここからは後者である『学問を愛する人』の、想定できる勉強風景を挙げてみたいと思います。

あるジャンルの学問を愛する人にとっては、肩書きというものは一切必要ありません。
彼(あるいは彼女)の欲しいものは、そのジャンル上での、知識量なり技量です。

テストの成績の数字も、彼(あるいは彼女)には一切必要ありません。
ですから、彼の勉強風景としては、頭にハチマキも締めていないし、額から脂汗が出てくることも無いでしょう。
確かに、その手のジャンルの知識を吸収すること自体が大好きですから、そのことによって、夜更かしすることもあるでしょう。
しかし、彼(あるいは彼女)は、喜びの最中にありますから、そのような時でも、その手のジャンルの話題をしながら、穏やかな微笑みを浮かべつつ、周囲の人々と談笑しているかもしれません(当然、彼の談笑している、その話題内容も、その手のジャンル上の内容だとわかります)。

多少、難問にぶつかっても、その難問を突破する事自体も、彼(あるいは彼女)の喜びですから、わき目もふらずに、彼は、ガリガリと進むだけです。

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しかし、現在の競争教育だと、よく報道で見かけるところだと、様々な外国の人々と比較されているのに気が付くでしょう。

このように、世を挙げて、あるいは、国を挙げてまで、学問上での競争が推奨されていると、次第に、世の多くの人々も、「競争こそが素晴らしいのだ」という考えに染まり始めます。

よって、この記事の冒頭から書いているように、「あるジャンルの学問を楽しく学ぼう」というよりも、「あるジャンルの学問によって、優越感を得よう」という、願いの人が増えてしまうことでしょう。

こうなってくると、学問というものの、本末転倒の状態が多発してしまうことでしょう。


                                       坂本 誠

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