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2018年5月 6日 (日)

三千二百五十二: 『街道を行く 9』の再解釈_No.2

今日は、3回目のブログ更新です。

三千二百五十一:『街道を行く 9』の再解釈_No.1』の続きです。

私が、よく引用する、司馬遼太郎氏の明治初期に行われた地租改正について、再び解釈したことや疑問に思ったことを書こうとしているところです。
しかし、さすがに、読書感想文を書くならば、引用したい箇所を挙げないと、読者にわかりづらい部分もありますので、よく引用している文章を、再び引用します。

『三千十一:現代と中世の商業事情を考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/11/post-05f9.html
司馬遼太郎『街道を行く 9 信州佐久平みち、潟のみちほか』(朝日文芸文庫)より文章と写真を引用
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明治維新後、太政官の財政基礎は、徳川幕府と同様、米穀である。

維新で太政官は徳川家の直轄領を没収したから、ほぼ六百万石から八百万石ほどの所帯であったであろう。

Photo_2


維新後、太政官の内部で、米が財政の基礎をなしていることに疑問をもつむきが多かった。


欧米は、国家が来期にやるべき仕事を、その前年において予算として組んでおく。
ところが日本ではそれができない。
というのは、旧幕同様、米が貨幣の代りになっているからである。
米というのは豊凶さまざまで、来年の穫れ高の予想ができないから、従って米を基礎にしていては予算が組み上がらない。
よろしく金を基礎とすべきであり、在来、百姓に米で租税を納めさせていたものを、金で納めさせるべきである

明治五年、三十歳足らずで地租改正局長になった陸奥宗光が、その職につく前、大意右のようなことを建白している(※筆者注:この私のエッセイ内では「右」ではなく、「上」となります)。
武士の俸給が米で支払われることに馴れていたひとびとにとっては、この程度の建白でも、驚天動地のことであったであろう。

が、金納制というのは、農民にとってたまったものではなかった。
農民の暮らしというのは、弥生式稲作が入って以来、商品経済とはあまりかかわりなくつづいてきて、現金要らずの自給自足のままやってきている。

『米もまた商品であり、農民は商品生産者である』というヨーロッパ風の考えを持ちこまれても、現実の農民は、上代以来、現金の顔などほとんど見ることなく暮らしてきたし、たいていの自作農は、米を金に換えうる力などもっていなかった。

どうすれば自作農たちが金納しうるかということについては、政府にその思想も施策も指導能力もなにもなく、ただ明治六年七月に「地租改正条例」がいきなりといっていい印象で施行されただけである。

これが高率であったこと、各地の実情にそぐわなかったことなどもふくめて、明治初年、各地に大規模な農民一揆が頻発するのだが、木崎村は、このときには一揆を起こしていない。
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(引用終わり)

前段『三千二百五十一:『街道を行く 9』の再解釈_No.1』に紹介済みの牧 祥三氏の思い入れもありましたので、私の方も自然に考える機会があったわけです。

では、ここから、私が新たに感じた疑問を書いてみたいと思います。
明治五年にあったとされる、「太政官会議(だじょうかんかいぎ)」と呼ばれる会議で、陸奥宗光氏が、当時建白したとされる発言内容に、疑問を感じました。
司馬氏をして、明治初年の段階で、驚天動地程度の発言とされている発言内容です。

「欧米は、国家が来期にやるべき仕事を、その前年において予算として組んでおく。ところが日本ではそれができない」と、当時の陸奥氏は言ったそうです。

彼の発言をそのまま考えてみると、「国家というものは、来年も、絶対に仕事をするべきだ」と、私達は受け取れることでしょう。
そこで、人は次のような疑問を持たないでしょうか。
国家という組織が、来年あたり、やるべき仕事が無さそうだ。だから、特に、国家という組織の内部の人々は労働せず、休暇を丸々、取っても良いのではないのか」と。

「するべき仕事が無いのにも関わらず、それでも、むやみやたらに、何らかの仕事を見つけて、それをすべきだ」という発想自体に、おかしなものを感じないでしょうか。

これは、現代の例を挙げて考えてみれば、理解しやすくなると思います。

昨今、私達の日本社会では人口減少が進んでいます。
このまま進めば、今、私達の見ている多くの施設や多くの建物が、使用されなくなることでしょう(人が少なくなるので)。
ですから、建設業務を減らしたりする必要が出てくるでしょう。
つまり、それだと、「来年以降あたり、仕事が無いかもしれない」という状況が発生するかもしれません。
で、この状態で、「それでも仕事をすべきだ」となると、目的も無く、地球を穴だらけにしている状況となってしまうでしょう。
つまり、「思い当たる仕事内容が無いにも関わらず、無理に何かの仕事をすべきだ」というのは、これは不自然な状態であることが私達にわかります。

しかし、それでも「思い当たる仕事内容が無いにも関わらず、無理に何かの仕事をすべきだ」という発想になってしまうのは、お金が必要だからだ」というのが原因となってくるでしょう。

あの、太政官の陸奥氏の発言内容によって、日本がお金社会となってきたのでしょうが、自らの環境にお金社会を導入した結果、その、お金そのものに苦しめられることがわかります。

お金社会で無ければ、お金の心配をする必要が無いので、上の例で挙げたように、国家という組織が、来年あたり、やるべき仕事が無さそうであれば、国家という組織の内部の人々は労働せず、休暇を丸々、取れたのではないでしょうか。

この状況ですと、「自分で自分に苦しみを与えた」ということになるでしょう。

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以前、お金に関した記事で、私は、「資本主義社会というのは矛盾システムであるから、自分で自分の尻尾を食べている蛇(へび)のようなものである」と書きました。

私が上に書きました、新たな疑問や、それから生じる考えを読んでも、再び、読者の方は、自分で自分の尻尾を食べている蛇を想像するかもしれません。

(ちなみに、上記のような人口減少の進む社会で、そのまま、多くの施設や多くの建物を建設していると、将来的には、それを利用する人間がいなくなるので、相当な赤字そのものを生むだろう、とも予想出来ますが。黒字を生み出そうとして、何かを作るわけですが、その黒字を生みたい願望が、巨額の赤字を生むと予想できるので、現代人はお金に関しての発想の転換を求められていると感じます。)

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仕事や業務内容が無ければ、そのまま、仕事をしなくても良い筈ですが、お金社会というのは、その自然さを破壊し、無理矢理にでも、人を働かせようとする、つまり、不自然な道具だとみなせるでしょう。

この「不自然さ」というのは、「いびつさ」とも言えますから、自然の流れをマッチしないのです。
この「自然とマッチしない」という点も、現代社会の問題点を増やしている原因の一つだと感じます。

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ここからは、ちょっとした別件です。

私のブログの方の、幾つかの記事も、ネット検索での検索対象から除外されているようです。
まあ、どこかの誰かが、そのような処置をするのでしょうが、そのようなことをしてしまいますと、あなた御自身が、良心の痛む日々を送ってしまうのではないかと思います。

誰でもそうですが、良心の痛まない日々を送り続けることが、幸福な生活を生み出すと思います。

ですから、あなたが良心の痛まない行為に切り替えれば、あなたの人生は幸福なものへと変化し始めると思います。

どうぞ、良心の痛まない行為に切り替えて、あなたも心さっぱりとしたライフ・スタイルを始めてみませんか。


                                       坂本 誠

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