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2018年5月 6日 (日)

三千二百五十三: 詩の思い出_No.2

こんばんわ。

今日は、4回目のブログ更新です。
三千百七十九:詩の思い出』の2段目です。

まず、最初に掲載しているのは、『長崎』です。

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            長崎

                    聖母に

    屋内の人々が 心を清めている。
    組み合わされた両の掌。
    そこから 一つの線が 天に向かって
    羽ばたき 飛び立っている。
    それらの多くの線を
    街の上に立つ
    巨大な女性が
    胸で受け止めている。

    洋風の館から 流れ出す気。
    カステラの味が 宙に漂っているかのよう。
    孔子の廟から 線香の匂いが流れている。
    北京ダックの味が 舌をかすめる。
    社(やしろ)の中で龍が踊って遊んでいる。
    龍の動きの線が 社の外に流れ出す。

    西洋から来た時と
    中華から来た時と
    日本から来た時が 流れている。
    何本かの時が 交錯し続けて
    大和(やまと)している。

    おわんのような大地に
    夜 家々の放つ 光が共鳴し合い
    何本もの時が行きかう様を
    街の上から
    巨大な女性が 静かな笑みを浮かべて
    見守っている。


    かつて
    その女性は
    やさしさ故にか 甘んじて
    プルトニウムの臭いも嗅いだ。

    しかし
    プルトニウムの臭いは
    人々の心までも
    毒することは出来なかった。

    今、幾つもの笑顔が 行きかい
    混じり合う様を
    彼女は 静かに 見ている。

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この作品は、2009年2月8日に出来ています。

掲載している写真は、大浦天主堂の聖母マリア像です。

Photo_3

 

九州の長崎市は、風光明媚な観光都市として、昔から有名です。
私も幾つか、ブログで長崎に関する記事を書いています。

何と言っても、異国情緒の漂う街で、その雰囲気を、うまく記述することが出来ません。
いわゆる、この状態が、「絶句(ぜっく)」と呼ばれるものでしょうか。

日本の他の都市では、このような異国情緒を味わうのは難しいことでしょう。
長崎以外にも、日本には街があり、それらの街には、西洋風味の文化で飾られた物が多いです。

しかし、長崎の持つ西洋情緒を、日本の他の都市は持っていません。
というのも、多くの人の知るとおり、江戸時代において約300年間も、海外に開かれた街は、ここ長崎のみであり、その時代分の西洋情緒が街と融合しているからです。
その約300年間分の差異を、日本の他の都市が表現できないのです。

例えば、掲載している写真の聖母マリア像ですが、注意深く、街の中を歩いてみると、大浦天主堂だけではなく、街の様々な場所に、さりげなく、聖母マリア像があります。

その、聖母マリア像が街に何体あるかはわかりませんが、かなり多いようです。
また、そのように、「街全体の至る所に、聖母マリア像が飾られている」という点も、日本の他の都市には、一切存在しない光景です。

また、長崎の街では、キリスト像も飾られていますが、そのキリスト像よりも、遥かに多い数の聖母マリア像が飾られています。

他にも言えるのは、中華風味の建築、服装、お祭りなども、上記のマリア像のように、街に飾られています。
特に、中華街の近くにです。

ですから、日本の他の都市で、観光的に西洋風味の趣を多めに出そうとしても、やはり、ここ長崎の所有している約300年間分の時間的な差異を埋めることは出来ません。

これが、「長崎は異国情緒溢れる街」と言われるゆえんです。

詩の方に、そのような異国情緒を描いたつもりですが、感じて頂ければ幸いです。
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              波紋


    僕は春の公園にいる。
    そこは深い水の底。
    空気と言う名の水の底。
    息の詰まることもなく、
    更に清冽な大気の水を吸う。

    散りゆく桜の花びらに、広げた両の手の人差し指で触れてみる。
    そこから波紋が広がる。
    宙に広がる波紋。
    僕は走る。
    次々と指が触れてゆくたびに、いくつも、いくつも、波紋ができてゆく。
    桜の花びらが両手の五指に触れるごとに
    空中に幾つもの波紋が重なり、広がってゆく。

    走るのをやめる。
    大きな息を吐く。
    大きな波紋になってゆく。
    春の深い水の底で。

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この作品は、2008年12月10日に出来ています。

作った季節は、冬でしたが、暖かい春の陽射しを想像して書きました。
私も子供の頃は、冬も好きでしたが、年齢を重ねると同時に、春の方が好きになって来たでしょうか。

詩の景色としては、春の青空の下に私がいるのですが、その「春の青空」そのものを、「春の青い水」と感じているところが気に入っています。

「春の青空」を、ちょうど、春の小川の底を泳いでいる魚のような気持ちになって、描いた作品です。
芸術作品を描く際には、想像力、イマジネーションが、かなり要求されると言われますが、私もそうだと思います。

詩のジャンルでは、その想像力は、主に比喩表現で現されます。
しかし、他の芸術ジャンルでも、想像力が必要とされ、その想像力が比喩表現や絵画表現、最近では、映像表現に開花されると思います。

この想像力を豊かにするには、やはり、美しい自然に触れたり、静かな空間の中で、自分のお気に入りの音楽を聞くことでしょうか。
当然、これらをする間にも、心が清まるので、一石二鳥のような部分が、創作活動にはあると思います。
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        歌と刃(やいば)


    激しい 戦いの中で、
    刃が 交わされる中、
    やわらかい 女の歌声が
    私達の 心の中に
    やさしく 響きわたる。
    やがて その歌声は
    冷たい 刃の中にも
    届いてゆく。

    それは
    愛の奔流(ほんりゅう)が
    数多(あまた)の
    刃を折る ちから か。

    一人の女の歌声が
    翼を広げ、
    軽々と 空に 舞い上がる時、
    一人の男の 勇気が
    一つの闇を 裂(さ)いてゆく。


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この作品は、2011年3月24日に出来ています。

最近の芸術家の方々も、色濃く、アニメの影響を受けていると思います。
アニメというのは、一種の総合芸術と言えるので。

ですから、私の方でも、アニメの影響を無視することは出来ません。
アニメの中でも、特に、人々を感動させるものには、当然、心が、うるわしい方向に振れますので、そのような影響を受けた作品が仕上がって来るものです。

昔から時折、『超時空要塞マクロス・愛・おぼえていますか』を、見る機会がありまして、見終えた後に、「これ(マクロス)、いいよねぇ」と何度でも、一人で、うなずく私でした。

しかし、単純に、感動しただけでは私なりに不足であって、その感動を別の形で表現しようと、瞑想しながら、努めることが大事だと感じます。

(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『三千百七十九:詩の思い出』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2017/09/post-6c15.html

          遠い星へ向かう時


    遠い星へ向かっている時、
    その星から 一つのやわらかい声が聞こえてくる。
    慈雨のように 上から降り注いでくるよう。
    その星が僕を迷わぬようにしてくれたのだ。

    僕の両腕は二つの音か。

    星に向かっている時の
    凄いスピードが 遅いスピードのようだ。

    僕は一つの音楽。
    音楽が音楽の上に乗っている。


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          音


    雲海が やわらかく広がる朝
    一つの音が 宙を漂う。
    音は 翼を 羽ばたかせ、雲の上を 静かに舞う。
    穏やかな ほほえみを持って。

    羽毛のような 音の響きが 翼そのものか。
    音と音が 宙を 軽く すれ違う時
    触れ合う 彼等のその笑顔に
    暖かい 光を感じる。

    音が ほほえむ時
    音そのものが
    かすかに 光る。
    蛍のように。

    その淡い光が 音の周囲に
    きらめきわたる。
    芳香(ほうこう)が漂うかのように。
    また 虹のかけらが流れるかのように。

    竪琴(たてごと)に 触れる指と その絃(げん)から
    光と音が 靄(もや)のように にじみ出し
    春の せせらぎのように
    遠方(おちかた)に 流れていくかのように。


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『三千百五十五:詩作の思い出』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/.s/blog/2017/08/post-c72d.html

      愛と光


    愛が光となり、光が愛となり、
    光と愛が結ばれ合い、
    羽毛のように 触れ合い、
    お互いの中で響き合う。

    光と愛が 織(お)り合わされる中、
    速くもあり 遅くもある
    一つの やわらかな音楽が流れ続ける。

    その音楽に のせて
    光と愛が
    私達の胸に やって来る。
    一組の男と女のように。


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                                       坂本 誠

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