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2018年5月

2018年5月28日 (月)

三千二百五十九: 現代社会事情に関する想定ドラマを想像してみて

本題に入る前に、前段『三千二百五十八:ある医療統計データを考えて』に記載し忘れていたことを書きます。

前段『三千二百五十八:ある医療統計データを考えて』では、
(以下、『InDeep』様、2018/5/13記事より引用)
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●抗ガン剤の起源が化学兵器マスタードガスだったことを思っているうちに、私たちが開いた「人類と他の生物の完全絶滅への道」が一瞬で見えたような
https://indeep.jp/going-extinction-now-with-anti-cancer-drugs/
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(引用終わり)

で、抗ガン剤の起源は、第一次世界大戦で使用された毒ガスが起源であり、現在でも、がんそのもので死ぬよりも、抗がん剤使用によっての、死亡者数の方が多いのでは、という概略の記事でした。

書き忘れた内容というのは、私の知人に薬剤師がいて、上記の件について伺った事でした。
知人の薬剤師も、抗がん剤を使用している患者に接する看護婦達のことを知っていました。
もちろん、その患者に接する看護婦達は、患者が一人変わる毎に、手袋、マスク、あるいは、エプロンを、即座に廃棄するそうです。

つまり、それほど、抗がん剤の毒性は強いのを、看護婦達は知っているそうです。

ですから、逆を考えれば、「日本人の死因の第一はがんである」という、統計データも、間違っている可能性は高いと思います。

ここまでが追加記事であり、以降は、今日の記事です。
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こんばんわ。

三千二百五十:世の多くの手抜き事業を考えて』の続きのような記事です。

『三千二百五十:世の多くの手抜き事業を考えて』で書いたように、会社の監査役の方々は、「会社の違法を調べ、それがあれば阻止・是正するのが職務」である、というのが私達に理解できました。
そしてまた、会社の取締役の方々にも、「法令・定款違反行為に関する責任を負わされています」から、自社内での違法があれば、それを阻止・是正しなければいけないことがわかります。
何とならば、会社の「就業規則」というのを、全ての会社は、労働基準局に納めなければいけないことが労働基準法で定められているからです。
そして、全ての会社の「就業規則」というのは、労働基準法の配下に置かれているので、全ての会社の「就業規則」というのは、労働基準法を守ることが定められているからです。

ですから、全ての会社は、労働基準法を実行及び守らなくてはいけません。
その、労働基準法の中に、長時間労働を禁じる条項があるので、世の全ての取締役の人々は、自社内での、違法長時間労働が実施されないように、阻止や是正をしなければいけないことがわかります。

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堅い言葉で書いてしまったので、ちょっとわかりにくかったかもしれませんが、わかりやすく書けば、社内の監査役とか取締役の人は、自社内で、違法長時間労働が実施されないように働く事が、彼等の仕事の一部であることが私達にわかります。

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会社の取締役の方は、社長とか専務とかの人が多いです。
ですから、社内の社長とか専務の仕事は、その配下の従業員の業務でもあります。
なので、以下のように、想定できるシーンもあるのではないでしょうか。

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あるブラック企業内での、ある社員が、定時(※筆者注:この記事内での「定時」とは、夕方5時や夕方6時ぐらいを想定しています)で帰社しようとしています。
その光景を見た、そのブラック企業内での、その社員の上司が、その定時で帰社しようとしている社員を捕まえて、「なぜ、おまえは定時で帰社しようとしているのか?」と、尋ねたと仮定します。

すると、呼び止められた、定時で帰社しようとしている社員は、上司に以下のように答えるかもしれません。

  「うちの社の監査役や取締役(※筆者注:この記事内では『社長』を意味します)、つまり、社長の仕事として、社内の違法長時間労働を禁止・是正・阻止する業務内容が彼等にはあります。そして、私が社員だから、つまり、社長の業務は、私の仕事でもあります。ですから、社長業務の一環を、平社員である私は実行しないといけないでしょう。ですから、違法長時間労働をしてはいけないので、業務の一環として、定時で帰社しようとしているところです。」

ですから、世の定めとされていることを考慮すれば、上記のようなドラマ・シーンが実際の現実社会に展開されても、不思議は無いのではないでしょうか。

ですので、上記の想定したドラマ内での、そのブラック企業内での、その上司は、その定時で帰社しようとしている社員に、何も言えなくなるのではないでしょうか。

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しかし、上に書いた想定ドラマの続きを、読者の方々は、更に想像することが出来るでしょう。

それは、次のような、ドラマかもしれません。

定時で帰社しようとした平社員に何も言えなかった、そのブラック企業内での、その上司は、定時で帰社した社員のいない間に、他の社員達に、次のように言います。

  「定時で帰社した、あいつを、みんなでハブるんだ!」

と。

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この「ハブる」という単語ですが、これは、現代の若者の間で使用されている俗語の一つとされていて、この「ハブる」という単語の意味は、「仲間外れにする」という意味だそうです。

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ですから、この記事の読者の方々は、更なる、想定ドラマの続きを想像できることでしょう。

定時で帰社をするようになり始めた社員の、その後の日常を、彼(あるいは彼女)が感じることには、

  「私は、社のみんなから、ハブられている!」

と。

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読者の方々も、更に更に、この想定ドラマの続きを想像することが出来るかもしれません。
それは、上記の想定ドラマを、横から、つぶさに眺めている、そのブラック企業の監査役と取締役(※筆者注:この記事内では『社長』を想定しています)の心中です。

色々と、読者の方々も想像できないことはないでしょうが、何か、私の方で、記述するに値する想定ドラマが思い付けば、書き足すことにします。

読者の方も、ぜひ御自身で、上記の想定ドラマの続きを想像してみて下さい。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『三千二百五十:世の多くの手抜き事業を考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/05/post-5697.html
(Wikipediaより引用。太字にしたり、アンダーラインを引いたのは筆者)
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●監査役
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A3%E6%9F%BB%E5%BD%B9

Photo

会社経営の業務監査および会計監査によって、違法または著しく不当な職務執行行為がないかどうかを調べ、それがあれば阻止・是正するのが職務である。(、、、以下、省略)

最終更新 2018年3月5日 (月) 08:44 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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(引用終わり)

『三千二百五十一:『街道を行く 9』の再解釈_No.1』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2018/05/_no1-923a.html
(上記記事より再掲載分)
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この段落の記事とは違っているのですが、先に更新した『三千二百五十:世の多くの手抜き事業を考えて』の追加を、ここに書かせて下さい。

前段落から続いて、会社の監査役の簡単な手抜き行為として考えられる行為があります。
会社の監査役というのは、複数の会社を兼任することが出来ます。
ですので、ある監査役の方のセリフを想定するならば、

  「私、幾つかの会社を兼任しているという忙しい状態でありまして、件(くだん)の会社の社員の労働時間を、つぶさに監査する機会がありませんでした」

というものでしょう。

このような逃げとも思われるようなセリフが出たとしても、こちらの方から、

  「それでしたら、いつも、あなたが多目に出勤している会社があるでしょうから、その会社の従業員の労働時間状況は、どうでしたか?」

とか、

  「それは、もう、監査役が、自分の業務を実行しているとは言い難いのでは? 幾つもの会社を兼任していたとしても、それらを調べるのが、そちらの業務でしょうから、それこそ、部下を使うとか」

等のように、幾らでも手段はあることでしょう。

会社の取締役も同じようなものですし、この状況で、日本の数多くの企業が違法長時間労働をしているとあるならば、、、

ねえ、、、それこそ、、、
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(引用終わり)


                                       坂本 誠

2018年5月27日 (日)

三千二百五十八: ある医療統計データを考えて

こんばんわ。

Img7d926010455f0

 

今日は、病気の話題をしますので、話題を和らげるためにも、私の撮影したスナップ写真を掲載しながら話題を進めていきます。

私の見かけた記事を紹介します。

私の気になった部分には、アンダーラインを引いたり、太字にさせてもらっています。

(以下、『InDeep』様、2018/5/13記事より引用)
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●抗ガン剤の起源が化学兵器マスタードガスだったことを思っているうちに、私たちが開いた「人類と他の生物の完全絶滅への道」が一瞬で見えたような
https://indeep.jp/going-extinction-now-with-anti-cancer-drugs/

投稿日:2018年5月13日 更新日:2018年5月14日

(、、、中略、、、)

その「概念」というのは、いわゆる薬の作用機序のことで、その成分は「ナイトロジェンマスタード」というものですが、これは兵器としても医薬品としても次のようなものです。
同じ Wikipedia からの引用です。

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人体への作用

マスタードガスは人体を構成する蛋白質や DNA に対して強く作用することが知られており、蛋白質や DNA の窒素と反応し、その構造を変性させたり、 遺伝子を傷つけたりすることで毒性を発揮する。

このため、皮膚や粘膜などを冒すほか、細胞分裂の阻害を引き起こし、さらに発ガンに関連する遺伝子を傷つければガンを発症する恐れがあり、発癌性を持つ。
また、抗がん剤と同様の作用機序であるため、造血器や腸粘膜にも影響が出やすい。
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というもので、これが抗ガン剤として機能する部分は、上の、

細胞分裂の阻害を引き起こし

という部分です。

非常に早く増殖していくガン細胞を「細胞分裂の阻害を引き起こす」ことによって、その細胞の増殖を食い止めるという作用です。

これが仮にガン細胞に対してとても有効に作用するのだとすれば、同時に、やはり当然ではあるのですが、「全身すべての細胞をも攻撃してしまう」という作用もあります。
これは副作用というより、抗ガン剤というものの作用そのものがそういうものですので「副」ではなく本作用です。

(、、、中略、、、)

立花隆さんは「知の巨人」などと呼ばれますが、この下りの表現は「痴の巨人」的なものともなっていまして、一部の単語が生々しすぎまして、私はブログで言葉を伏せることはほとんどないのですが、ここは一部「○○○」というように伏せさせていただいています。
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以前、月刊『文藝春秋』で、慶應義塾大学の近藤誠先生と対談された、ジャーナリストで膀胱ガンを煩っておられる立花隆氏が、

「投与された患者が体外に排泄するもの一切に抗ガン剤の毒が出る。患者のオシッコや大便にも出るから、看護する人は、排泄物が手についたら、すぐ洗い流さなければならない」

と述べ、さらには、

「抗ガン剤を投与した男性の精液にも毒が出る。だから、恋人の男性が抗ガン剤治療をしている時に、絶対にフ○○○○をしてはいけない。まして、飲んだりしたら、とんでもないことになる。女性の体内に射精すると、毒が粘膜を経由して吸収される危険もある」

と語っておられました。

(奥山隆三著『ガンはなぜ自然退縮するのか』より)
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(引用終わり)

ここからは私の文章となります。
かなり、抗がん剤自体が、猛毒であることが私達にわかります。

もし、がんになっても、抗がん剤の使用を控えよう」という話は、ここからも理解できます。

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さらに私が気が付いたことがあります。

それは、日本人の死亡率です。
日本人の死亡率で最も高いのは、がんとされています。

Img7d9269f54ebc


その次に、脳卒中と、心臓病だったでしょうか。

この、日本での、がんでの死亡率がトップとなったのは、現代に入ってからです。
私の記憶している限り、10年か、20年ぐらい前だったでしょうか。
それ以前は、がんでの死亡率が日本のトップではなく、確か、脳卒中が、日本人の死亡率で最も高いものでした。

しかし、「がんでの死亡率が高くなっている」ということで、抗がん剤の使用が増えたでしょうか。
しかし、上で紹介したように、ひょっとしたら、「人はがんで死ぬことが多い」というよりも、「人はがんで死ぬことよりも、抗がん剤を使うことにより死ぬことが多いかもしれない」という事態が発生しているかもしれません。

ですので、がんで亡くなられている方々の中で、「抗がん剤の使用によって亡くなられている方々の方が多いかもしれない」と、想定することも出来るでしょう。
そうなると、「日本での、がんでの死亡率がトップ」というのは、間違った統計データとならないでしょうか。

なぜならば、もちろん、「がんで闘病中の方が、抗がん剤の使用によって亡くなっている人々も多いかもしれない」となると、「日本での、がんでの死亡率が下がる」という結果になるからです。

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このようなことが想定できる以上、通常、私達が見聞きしている統計データである「日本人の死亡率で最も高いのは、がん」というデータも、見直す必要もあるでしょう。

また、個々の人も、充分、上記のデータを疑いつつも、日頃の自身の生活方針も立てなおす必要が出てくるかもしれませんね。


                                       坂本 誠

2018年5月20日 (日)

三千二百五十七: 忍耐強さとか我慢強さと言われているものを考えてみて

こんばんわ。

「忍耐強さ」とか「我慢強さ」と言われているものについて、自分なりの見解を書いて見ることにします。

「忍耐強い」とか「我慢強い」と言われていることは、私から見ると、そんなに美徳には感じません。

ちょっとした会話文を想定して、話題を進めてみたいと思います。

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●ある大人:
「君って、我慢強いのねえ。忍耐力が付くよ」

■ある子供:
「うん。僕って我慢強い、強い子だよ」
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上のような会話があったとしましょう。
だいたい、上のような会話は、どこでも、ありふれて聞いたことがあるかもしれません。

しかし、「忍耐強い」とか「我慢強い」という精神状態を、一緒によく考えてみましょう。
「忍耐強い」とか「我慢強い」という精神状態が起こっている、という状況は、その人の何らかの環境や境遇の状態について、その人がぐっと耐えている、と言うことになります。

ですから、その人の心の奥底の状態というのは、「本来、私がいる環境は、ここでは無い」と言っていることになります。

何とならば、何らかの困難な状況や、苦痛の状況が、その人に訪れているからこそ、その人には、「忍耐強い」とか「我慢強い」という状態が発生しているからです。

ですから、この状態だと「現在、その人に困難な状況や、苦痛の状況が訪れている」ということで、「現在、その人は不幸な状態にある」と、私達に理解できます。

そして、全ての人にとってそうですが、

  「現在、私は不幸な状態にあるけれど、その環境から逃れられない(あるいは逃れる手段が無い、あるいは、逃げたいという志が無い)からこそ、私は、現在の、この不幸で苦痛の環境に対して、忍耐・我慢している」

ということになる筈です。

ですから、例えば、

  「私は、この環境に対して、非常に我慢強い・忍耐強い」

という言葉の裏を返せば、

  「私は、この環境を非常に嫌っています」

と言い直せることに私達は気が付きます。

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ですから、冒頭に挙げた会話文も、私が説明した視点から書き換えてみると、以下のようにも書き直せるでしょう。

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●ある大人:
「君って、今、非常に苦痛の状態や環境にいるのねえ。大丈夫?」

■ある子供:
「うん。今、僕は、非常に苦痛を感じる環境にいます。心身のバランスが保てるかどうかはわかりません」
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と。

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一般的に言えば、私達は幸福を求める存在です。

ですから、「忍耐強さとか我慢強さを欲する」というのならば、それだけで、苦痛の環境にいることになるのだから、その人は、不幸の状態にいることになります。

ですから、たいていの人が「あなたが不幸の状態になることをお薦めします」というのは、ほとんどが無い話であろうかと思います。

なので、「我慢強い人間に、おなりなさい」とか「忍耐強い人間に、おなりなさい」という人は、その言葉を語りかけている人に対して、「あなたは不幸に、おなりなさい」と言っているのと同じになります。

ですから、「忍耐強い人間に、おなりなさい」と言ってくる人に対しては、私達は注意深くなる必要があるのではないでしょうか。

なんとならば、その言葉を言ってくる人に、どこかしら、「あなたに苦痛の環境を持って来て、あげましょう」というニュアンスが感じられるので。

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確かに、私達も生きていて、何らかの我慢とか忍耐を強いられたことはあると思います。

しかし、意図的に、我慢強さや忍耐強さを求めるとなると、そのような状態は、例えば、滝に打たれる滝行とか、荒行・難行を心身に与える行為となってくると思います。

こうなってくると、周囲の人が見て、「その人は、自ら不幸の環境を望んでいる」となるでしょう。

また、そのような荒行・難行を求める人は、自身の忍耐強さと我慢強さを得ようとしているのでしょう。

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宗教者の間では、そのような受難礼賛(じゅなんらいさん)を尊ぶ環境があったと聞いています。

このような方々の心底には、「苦痛が自らを清めたり、高めたりするだろう。その苦痛に清められた結果、私は、より高尚(あるいは幸福)になるだろう」という思いがあるようです。

この記事の冒頭からの流れを含めれば、「苦痛を経験することによって、私は忍耐強さを手に入れることが出来るのだ」と言えるでしょうか。

色んな人がいて、どのような方向を目指して歩くのかは、それぞれ各人の自由ですから、そのような方向を歩んでも、良いとは言えるのでしょう。

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しかし、読者の中には、上記のような受難礼賛の精神の中に矛盾を見い出していると思います。

なぜならば、上に書いたような受難礼賛を尊ぶ人は、常に、その人にとっての不幸な環境を望んで、選択していることがわかります。

彼(あるいは彼女)自身は、それらの不幸環境を入手し続けることにより、彼自身に何らかの得を掴めると思って、その不幸環境を選択し続けているのですが、いつまで経っても、その人が、彼自身に満足する何かを得ることは無いことが、私達にわかります。

なぜならば、その人自体は、常に不幸環境や苦痛環境を選択・入手しているでしょう。
ですから、もし、彼自身が、彼にとって満足する何かを得られたとしたら、それ自体が、「彼は常に不幸環境や苦痛環境を選択・入手している」という状態では無くなります。
つまり、矛盾してくるからです。

もうちょっと、詳しく説明して、二度ばかりまで書いてみると、彼自身は苦痛・不幸環境を求め続けることによって、彼自身を満足させるであろう、何らかの得点ポイントや得点状況を、どこかしら、なにかしら、得られる筈です。
しかし、既に、その状態というのは、彼にとっては、一つの幸福状態となります。

しかし、彼自身としては、その、なにかしらの幸福を手に入れるためには、ずっと、彼の認識している不幸・苦痛状態を手に入れ続けないといけないので、つまり、彼は世の終わりまで不幸・苦痛状態が続くことになります。

そして、もし、仮に、彼が、彼の続けていた不幸・苦痛状態から、何らかの得点ポイントや得点状況を手に入れたとしたら、それは彼にとっての幸福状態となりますので、彼の目指している、「常に不幸・苦痛環境を得続けよう」という目的が失敗するわけです。

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上の状態の矛盾を解消するためには、次の考えが必要となって来るでしょう。
つまり、

  「その人にとっては、不幸・苦痛こそが、彼の幸福なのだ」

と。

しかし、私達は次のことがわかるでしょう。

  「彼自身は、彼なりの不幸・苦痛状況を得ようとしている。つまり、それは彼にとっては、相変わらずの不幸・苦痛状況であるから、彼は永遠に幸福を掴むことは出来ない」

と。

つまり、、、この手の矛盾を解消するのは、、、やっぱり、無理です。

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つまり、私としては、ここまで説明を書かせて頂いたのですが、要は、

  「我慢強さや忍耐強さを求める狙いや行動は、基本的には、人を幸福にしないだろう」

という主張です。

なんとならば、上に説明させて頂いたのですが、矛盾が起きてきますので。

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確かに、ある程度の我慢強さや忍耐強さが、生きている間には、運命の手によって、それを学ばされたりするかもしれません。
それ自体も「粘り強さ」というものを身に付けたことにもなるでしょう。

しかし、長期間に渡るまでの「我慢強さや忍耐強さの養成」というのは、道から離れてくると思います。
人によって、「長期間」という時間の長さは変わってきますが。

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また、他にも言えるであろうことがあります。
例えば、長期間に渡って、全く不幸や苦痛の無い環境ですごせば、今度は、そのような環境では退屈が発生するでしょう。

その退屈自体が、その人にとって不幸となるでしょう。

ですから、その不幸・苦痛環境から逃れ出るには、ある意味、厳しい環境に出てくれば、その忙しさや対応状況によって、退屈からは逃れられるでしょう。

そのような意味での、「不幸・苦痛環境の選択」、つまり、上の流れから行けば、「我慢強さや忍耐強さの養成」というもの選択が起きるかと思います。

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しかし、上に書いたように、積極的なまでの「我慢強さや忍耐強さの養成」を目指すとなると、その状態は、つまり、「不幸を愛する」という状態になるでしょう。

つまり、いったん、その状態に入ると、そのマイナス状況から抜け出すのは難しくなると思います。

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ですので、積極的なまでの、自身への「我慢強さや忍耐強さの養成」という目的は避けた方が良いと思います。

もっとも、どんな人にでも自由がありますので、上記の目的を積極的に選ぶという人もいても良いのだし、もちろん、そのような人に、強くは言えないのですが。

まあ、私個人としては、「自身の我慢強さや忍耐強さの養成を積極的に行う」とか「受難礼賛」という目的は、止めた方が良いかと思います。


                                       坂本 誠

2018年5月14日 (月)

三千二百五十六: ある日の新聞記事を読んでの、疑問を感じたこと_No.2

こんばんわ。

三千二百五十五:ある日の新聞記事を読んでの、疑問を感じたこと』の追加です。

追加的に思い浮かんだことを書いてみます。
ですから、前段からの詳細を知りたい方は、『三千二百五十五:ある日の新聞記事を読んでの、疑問を感じたこと』を、どうか参照して下さい。

この記事の話題の元となっている新聞記事は、次のものです。

(以下、『朝日新聞デジタル』、2018/05/04記事より引用)
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●記者は見た!警視庁が秘蔵の「武道館のビートルズ」記録
https://www.asahi.com/articles/ASL544F62L54OIPE009.html
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(引用終わり)

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前段からの続きだと解説的な雰囲気も出てくるのですが、ある人ならば、

  「坂本さん。それだと、約50年前のビートルズ公演にやって来た聴衆の方々の、『個人情報公開の意志があるか、どうか』の意向は、どのように確認したら良いのでしょうか」

という疑問が湧いてくるかもしれません。

私が想定できる、その、読者の疑問の答えが思い浮かんだので書きます。

  「それこそ、約50年前のビートルズ公演にやって来た聴衆の方々が、写真やテレビカメラに写されている事自体が、彼等の個人情報公開の意志を現している」

と言えるのではないかと思います。

もちろん、彼等が自分達の顔を写されたくなければ、当然、あの巨大会場そのものに行ってないでしょうから。
これなども、やはり、個人情報保護法のある現在で、野球場ドームで観戦している多くの聴衆の方々の意志と同じだと、私には見なせます。

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読者である、皆さんは、どのように考えたり、どのような意見を持つでしょうか。


                                       坂本 誠

2018年5月13日 (日)

三千二百五十五: ある日の新聞記事を読んでの、疑問を感じたこと

こんばんわ。

以下の新聞記事を読んで、疑問を感じたことを書いてみたいと思います。
読者の方で、その新聞記事を詳しく読みたい方は、以下のURLにジャンプして読まれて下さい。

(以下、『朝日新聞デジタル』、2018/05/04記事より引用)
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●記者は見た!警視庁が秘蔵の「武道館のビートルズ」記録
https://www.asahi.com/articles/ASL544F62L54OIPE009.html
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(引用終わり)

この記事の、あらましを書きます。

今から約50年前に、日本にビートルズがやって来て、ライブ公演しました。
警察が、その映像記録を撮影したそうで、一般には公開されていないそうです。
ですので、ビートルズ・ファンの方が、警察に対して、「公開して欲しい」との主旨を伝え、現在に至るまで話し合いが続けられているそうです。

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その話し合いの主なポイントと言えるのが、個人情報の保護の点です。
警察の側からすれば、「フィルムには、約50年前の人々の顔が鮮明に映っているので、個人情報保護の観点から、公開は出来ない」と言われているそうです。

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ですので、私も、個人情報の観点から、以下のような疑問が浮かびました。

まず、私達の個人情報に関することから書いてみます。
私でも良いですから、私を例に書いてみます。

私の現住所や、私の顔とか、私の電話番号とか、私の財布の中の所持金も、あるいは、私の銀行内の預金高も、私の個人情報と言えます。
その他にも、私の個人情報とは一杯ありますが、それらの個人情報というのは、公(おおやけ)にしたいと思えば、つまり、「多くの人が私の個人情報を知っても良いよ」という承諾があれば、それらの個人情報を出すことが出来ます。

具体的には、私の現住所や、私の顔とか、私の電話番号でも、「多くの人が知っても良いよ」と、仮に私が思えば、このブログに掲載することが出来ます。
また、ブログで無ければ、お金のある人ならば、新聞にそれらの情報を掲載しようとしたり、報道社から、してみれば、ニュース・バリューも無いでしょうから、やはり、お金を出して、テレビで報道してもらう、とか。

それとは、逆に、「これらの個人情報を世に出したくない」と願えば、当然、それらの個人情報をブログに掲載しなかったり、あるいは、ネット上の、どこかのコミュニティ・サイト上の日記に、それらの情報を出さなければ済む話です。

要は、「個人情報」というのは、その情報を持っている人の、その意向次第によって、公にも出来るし、また、公にしたくないと思えば、原則として、公にはなりません。

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ここから本題に返りましょう。

現代でも、プロ野球の試合とか、プロ・サッカーの試合とか、あるいは、何らかの有名な歌手達のコンサートがあって、それらの会場には、マスメディアの方々が、よく取材・報道をしています。

それは、非常に多く見かける機会があるので、とりたてて、私が例を挙げるまでもありません。

で、現代でも、そのような、野球ドーム場内とかサッカー場等の試合などでは、観客達がテレビ・カメラに写されていたり、応援者達や、サポーター達の状況が写されています。
また、有名な歌手達のコンサートでも、同様のことがあるのを、私達はテレビで見かけています。

で、そのような、観客達や、応援者達や、サポーター達というのは、ある意味、「自分の顔がテレビに出たり、翌朝の新聞の写真の片隅に写っていても仕方ない」という、思いの下で、野球ドーム場内とかサッカー場とかコンサート会場に行っていると思います。

もし、本当に、「野球ドーム場内とか野球場の観客席とかサッカー場の観客席での、自分の顔が万が一でも写っていたくない」と願うならば、そのような人々は、最初から、そのような会場には行っていないでしょう。

ですから、私でもそうですが、「あのようなマスメディアも集まるような巨大会場に行けば、テレビカメラなどに写されて、自分の顔も世の人に見られても仕方ない」という思いで、多くの人は、あのような巨大会場に向かうと思います。

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警察の側の人は、「個人情報を守らねば」という思いの下に、約50年前の映像の一般公開制限をしているようです。

上の流れから、私が何気なく感じた疑問としては、「それらのフィルムに写っている筈の、多くの人々の『個人情報を出すか、否か』の意向の確認はなされているだろうか」というものです。

個人情報保護法の制定される以前の、約50年前の話ですが、やはり、あのような巨大会場に行く人ならば、最初から、「テレビカメラに写されても良いよ」という思いで、あのような場所に行くでしょうし、もし、本当にテレビカメラや新聞社の写真の片隅にでも載りたくなければ、最初から、あのような巨大会場には行かないのではないでしょうか?

そして、上記URL先の記事中にも、約50年前の観客達の顔の写されている写真がありましたが、「私を写してくれるな」といわんばかりの怖い形相をした人は、一人もいないように私には見えます。

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もっとも、当時のビートルズのメンバーである、ポール・マッカトニーさんやリンゴ・スターさんやジョン・レノンさんやジョージ・ハリソンさんにも、50年前の日本には存在していなかった個人情報保護法は無かったのですが、現代に置き換えても、同様の話が出来ます。
50年前の日本でのライブの際に、「私達(ビートルズのメンバー)の、個人情報を考えた結果、このライブで、私達の顔を撮影するのは止めてください」と言える権利も、彼等にもあったことでしょう。

ライブが始まって、マスメディアがやって来て、彼等の顔を撮影していた段階で、メンバーである彼等の方から、「どうか、私達の顔を撮影しないで下さい」と言えたことでしょう。

その状態でしたら、現代の日本にある個人情報保護法で考えたら、「このライブでのビートルズのメンバーの顔を撮影してはならない」となっていたことでしょう。

それと同じように、約50年前のビートルズ・ライブに集まった観客達でも、当時のライブ中にテレビ・カメラや、新聞社のカメラが向けられた時に、「どうか、私達の顔を撮影しないで下さい」と言えたことでしょう。
そのような聴衆達の発言があれば、現存している写真や動画フィルムに、彼等の顔や姿は残されていないのではないでしょう。

むしろ、現存している写真や動画フィルムに、大量の聴衆達の顔や姿が何気なく、写されているとあるならば(それを確認出来るのですが)、あのビートルズ・ライブに集まった当時の人々の意向として見れば、「私の顔や姿や服装や発言は、個人情報のものだけれど、公開しても良いよ」と、言っているのと同じだと判断できないでしょうか。

それに、それらの写真に写っている顔の表情を見ても、「(約50年前の昔風で言えば、)私の顔を写してくれるな」あるいは「(個人情報保護法のある現代風で言えば、)私の顔も個人情報であり、それを公に出したくないので、私の顔を写してくれるな」と言っているようには、見えません。

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要は、私達の間で使用されている個人情報というのは、私を例に挙げてみると、「私が公に出しても良い」という個人情報ならば、それを公に出しても、誰からも何も言われません。
また、「私が公に出したくない」という個人情報ならば、公に出さないことになります。
そして、その、「私が公に出したくない」という個人情報を、どこかの誰かが使用しますと、個人情報保護法に触れてきます。

ですから、話が冒頭に返すと、「警察などの公務員の方が、これらの映像やフィルムに現れている人達の意向の面を考慮しているだろうか」という疑問が湧きました。

この記事を読んでいる、あなたでもそうですが、「私の個人情報を世に出しても良いよ」と言えば、周囲の人が、「それは、あなたの個人情報だから、あなたにとって、非常に非常に大事なものであり、云々の、かんぬんの、それこれの非常に大きな悪と思える問題があり、、、」と言いながら、その個人情報を世に出そうとしている人を止め立てする必要は無いわけです。

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ですから、個人情報の問題を考える上では、「個人情報を世に出そうか、出すまいか」と考えている人の意向の問題が、個人情報を考える上で大事なわけです。

ですから、私の疑問としては、その「個人の意向を確認しようとしているだろうか?」という点が1点目。
そして、2点目としては、その1点目を考えても、写真に写っている人の顔の表情を見ても、「自分の顔も個人情報だから、私は、その個人情報を世の多くの人々に見てもらいたくない」という、意向は、私から見て、感じないのだが、、、という点です。

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要は、あの50年前のビートルズ・ライブに集まった多くの聴衆達は、「自分達の顔や姿や服装が写っても良いよ」という思いで、あの会場に行ったと、私は思います。
だからこそ、当時のビートルズ・ライブの状況を撮影した写真や動画フィルムに、あの、多くの聴衆達の顔が写っているのではないでしょうか。

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また、この個人情報の点から考えるのならば、「当時のビートルズ・ライブに集まった多くの聴衆達の顔は、個人情報だから、テレビカメラ等で撮影してはならない」という、方針も立つのではないでしょうか。

しかし、そのような方針が約50年前に立ったとしても、現実には、『ビートルズ・ライブ撮影』という方針の下に、多くの聴衆達の顔が撮影されていたことになります。

これだと、矛盾が生じていることにならないでしょうか。

それだったら、現存している『ビートルズ・ライブ公演』のフィルムを廃棄しないといけなくなるのでは(個人情報保護を考慮するのならば)?

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ある日の新聞記事を読んでの、つれづれなるままに、感想なり疑問なりを書いてみました。


                                       坂本 誠

2018年5月11日 (金)

三千二百五十四: 透明性のある政治・行政を考えて

こんばんわ。

私の見かけたニュースから紹介させて下さい。
私の気になった部分には、アンダーラインを引いたり、太字にさせてもらっています。

(以下、『朝日新聞』、2018/05/09記事より引用)
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●天声人語

P5100180

首相秘書官だった柳瀬唯夫氏の国会招致が決まった。
「私の記憶のある限りでは、今治市の方とお会いしたことはない」。
昨年来、国会審議の焦点だった面会をついに認めるのだろうか

この問題が浮上したのは昨年6月、加計学園の誘致をめぐる愛媛県今治市の行政文書の存在が明らかになってからだ。
住民が一昨年の暮れ、開示を求めて入手した。
残念ながら大部分は黒く塗られている。
だが、かろうじて読める部分をたどると、2015年4月2日付の市課長らの出張旅程に「15:00~16:30」「千代田区永田町 首相官邸」とあった

ところが、学園をめぐる疑惑が国会で取り上げられると、事態は一変する。
昨年暮れ、同じ住民らが出張報告書に絞って再度開示を求めると、今度は全面非開示となってしまった

いったん市民に明らかにされた情報が、翌年には隠される。
その経緯に驚く。
しかも愛媛県、文化省、農水省の調査で面会が否定できなくなった現在、面会相手を明かさない今治のかたくなさは際立つ

市長は先月、その理由を地元記者団にこう説明した。
「国や県は一緒に取り組んできた仲間だから迷惑はかけられない」。
では柳瀬氏が前言を翻したら今治はどう出るのか。
よもや「廃棄した」とは言うまいが

行政が不都合な文書を出し渋るのは今治に限った話ではない。
それでもこの国の公使の情報公開の姿勢には寒々しさを覚える。
山形県金山町が自治体として初めて情報公開条例を施行して、36年になる。
2018・5・9
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(引用終わり)

政治的な話題で、以前にも書いているのですが、再び書きます。

よく、政治や行政の現場から、「開かれた政治・行政を作っていこう」あるいは「透明性のある政治・行政をしていこう」というセリフが聞かれます。

この「開かれた政治・行政」とか「透明性のある政治・行政」というのは、わかりやすく書きなおせば、「国民の誰もが見ることの出来る政治・行政」を意味しています。
つまり、テレビ・新聞・ラジオ、その他の媒体によって、多くの人々が政治・行政のしていることを確認出来る状態のことが、「開かれた政治・行政」とか「透明性のある政治・行政」のことです。

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なぜ、その「開かれた政治・行政」とか「透明性のある政治・行政」でないといけないかというと、大きな理由があります。
それは、私達の社会システムが民主主義政治だからです。
「全ての国民が政治に参加している」というのが、私達の実行している民主主義政治です。

ところが、役所とか立法機関の人間が、自分達のやっていることを、多くの人々の目から隠そうとする政治システムを認めてしまうと、その状態だと、役所とか政府とか立法機関の人間達のみが、彼等だけに都合の良い政治・行政・何らかの法律を作ることが出来ます。

つまり、わかりやすく書くと、そのような政治システムは「独裁政治」となります。
なぜならば、大多数の人間のことを考えなくて、自分達だけに都合の良いことを決めて、実行することが出来るからです。
(あるいは、そのような政治システムのことを「寡頭(かとう)政治」と言います。「寡頭政治」というのは、極めて少数の人間で一国の政治を実行する政治システムのことです。この「寡頭政治」のことを、わかりやすく書きかえると「貴族政治」です。ですから、現代の「代表民主制」と言われる選挙で、代議士達を選出する政治システムは、ほとんど「寡頭政治」と言えるでしょう。)

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ですから、私達の実行している民主主義政治というのは、「全ての国民が政治に参加している」ので、代議士とか、公務員に委ねている公務とは、全ての国民のしていることなので、そのような、たった一部の人々に委ねている、それらの業務を、常に監視して、不正が起きていないかどうかを確認しないといけません。

なので、「開かれた政治・行政」とか「透明性のある政治・行政」というのは、「全ての国民が、それらの公務を見て、人々に納得の出来るような政治・行政をしましょう」と言っているわけです。

このように書けば、誰が見ても、「それはその通りでしょう。誰もが、そのような政治・行政状態を望むことでしょう。なぜならば、私達の社会システムは民主主義なので(決して王政や貴族政や独裁制ではないので)」と言うことでしょう。

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なので、逆を言えば、王政や貴族政や独裁制というのは、ほんの一部の人間が、国内の大多数の人間を無視して、法律を作ったり、あるいは、彼等だけに都合の良い、行政内容を実行することが出来ます。

なんとならば、そのような王政や貴族政や独裁制というのは、国内の大多数の人間達が、国王(あるいは女王)や貴族達や独裁者の実行しようとしている内容を見たり聞いたり、調べたりすることの出来ない一方的な社会を作ることが出来るからです。

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だから、私達の住んでいる社会でも、政治や行政の現場から、「黒塗りの文書ばかりが出て来て、多くの人々に隠そうとしている」となると、上に書いたことを思い出しながらも、ある人ならば、

  「公務内容なのに、どうして、あなたがたは、その内容を隠そうとするのですか?」

という、怪訝な顔をしながらの、疑問の言葉を口に出すことでしょう。

もちろん、その言葉の背後には、

  「隠そうとしている背後には、不正が隠されているのでは?」

の疑問が心中にあることでしょう。

元々、心や身辺に、何もやましいものを持っていないのならば、何を見せても恥ずかしい事は無いでしょう。

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また、個人情報というのと、公務情報というのは、これは違っています。

個人情報というのは、個人的な悩みだったり、あるいは、個人の資産だったりするので、言ってもいいし、知られたくなかったら、言わなくてもいいし、それらの情報を公開する自由は個人に委ねられています。

しかし、公務情報というのは、これは個人情報ではなく、公の財産つまり、「市民全員の所有する情報」とか「国民全員の所有する情報」となります。

この公務情報を扱っているのは、御存じのように役所だったり、政府だったり、何らかの行政機関です。

ですから、逆に言えば、「公務情報を市民や国民に見せることは出来ない」という状況は、かなり著しく変な話になっていることがわかります。

ですから、ある人ならば、役所等に対して、

  「公務情報を市民や国民に見せられない、理由とは何ですか?」

という質問が出ることでしょう。

もちろん、上のセリフを言う人の心中には、「役所や政府や行政機関が、多くの人々に見せられないものとは、何なのか? そこに不正が寝ていないか?」という、更なる疑問が湧いていることでしょう。

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ですから、民主主義システムの立場からでは、「色々な公務情報を隠蔽せず、開かれた政治・行政とか透明性のある政治・行政を目指しましょう」と、当然なるのです。

また、当然、ほんの一部の人間達に、政治システムという巨大組織を運営させず、上からの理由によって、それらの巨大組織である、役所とか、何らかの行政機関とか、政府の不正を起こさせないようにも、「開かれた政治・行政とか透明性のある政治・行政を目指しましょう」となっているわけです。

なので、逆を考えれば、それだけ、行政機関の方から、黒塗りの文書が、出されるようになると、「世の中が民主主義政治から離れて、独裁制や貴族政に逆戻りしようとしている」ということがわかるでしょう。

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「役得、役得、役得」という言葉があります。
これは良い意味では使用されません。
「役得」の言葉の意味を書くと、「自分の仕事の権利を使って、自分が得する方向に持っていく」というのが、その言葉の主旨だからです。

民主主義政治の日本で、良く流通しているルールブックがあります。
そのルールブックの著者とは、そのルールブックの前後をよく見ると、主語が「日本人全員」とありますから、つまり、私自身も、そのルールブックを書いた本人であると受け止められるので、「誰それの、何という文書からの引用です」という、引用時の決まり文句を使わないで良いとも考えられますが、そのルールブックには、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とされています。

つまり、「世の公務員というのは、自分一人に益があるような業務を行ってはならない」ことがわかります。

言い換えると、「世の公務員というのは、何らかの不正を行って、自分一人に益が入るようなことをしてはならない」というわけです。

ですから、この「役得」というのは、公務員には、あってはならない単語となるでしょう。

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当然ながら、以前、「秘密保護法」というのが制定されましたが、これなども、制定前から、激しく世間で言われていたように、上の流れからもわかるように、民主主義政治の根幹の一つである「開かれた政治・行政」あるいは「透明性のある政治・行政」からは、著しく、離れたものであるとわかるでしょう。

なので、世の公務員の人で、「私は多くの市民や、多くの国民に知られてはならない公務情報を持っている」という人ならば、それは最初から、そのような仕事には就かない方が賢明だと言えるでしょう。

また、民主主義政治の根幹から考えれば、「情報公開条例というものを制定する必要がある」となった時点で、「民主主義政治そのものが、既に差し迫った状態にあるのだ」と、人は気付くことでしょう。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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三千百:私達の本来の政治システムである「直接民主制」について
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2017/03/post-6474.html

三千二百:私の見かけたニュース_No.105
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2017/12/_no105-1504.html
(以下、『朝日新聞』、2017/11/27記事、4面より抜粋引用)
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●360°民意 直接住民からくみ取る

360_3

地方議員 なり手不足

地方議会は、町村議員のなり手が不足するなど、地盤沈下が進む。
議会に代わって、住民から直接、民意をくみ取ろうと模索する動きが出てきた。

ネットが議場 町民全員会議

人口約1万2千人の栃木県塩谷町。
インターネットを使って住民の意見を集約しようという試みが続いている。(、、、以下、省略)
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(引用終わり)


                                       坂本 誠

2018年5月 6日 (日)

三千二百五十三: 詩の思い出_No.2

こんばんわ。

今日は、4回目のブログ更新です。
三千百七十九:詩の思い出』の2段目です。

まず、最初に掲載しているのは、『長崎』です。

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            長崎

                    聖母に

    屋内の人々が 心を清めている。
    組み合わされた両の掌。
    そこから 一つの線が 天に向かって
    羽ばたき 飛び立っている。
    それらの多くの線を
    街の上に立つ
    巨大な女性が
    胸で受け止めている。

    洋風の館から 流れ出す気。
    カステラの味が 宙に漂っているかのよう。
    孔子の廟から 線香の匂いが流れている。
    北京ダックの味が 舌をかすめる。
    社(やしろ)の中で龍が踊って遊んでいる。
    龍の動きの線が 社の外に流れ出す。

    西洋から来た時と
    中華から来た時と
    日本から来た時が 流れている。
    何本かの時が 交錯し続けて
    大和(やまと)している。

    おわんのような大地に
    夜 家々の放つ 光が共鳴し合い
    何本もの時が行きかう様を
    街の上から
    巨大な女性が 静かな笑みを浮かべて
    見守っている。


    かつて
    その女性は
    やさしさ故にか 甘んじて
    プルトニウムの臭いも嗅いだ。

    しかし
    プルトニウムの臭いは
    人々の心までも
    毒することは出来なかった。

    今、幾つもの笑顔が 行きかい
    混じり合う様を
    彼女は 静かに 見ている。

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この作品は、2009年2月8日に出来ています。

掲載している写真は、大浦天主堂の聖母マリア像です。

Photo_3

 

九州の長崎市は、風光明媚な観光都市として、昔から有名です。
私も幾つか、ブログで長崎に関する記事を書いています。

何と言っても、異国情緒の漂う街で、その雰囲気を、うまく記述することが出来ません。
いわゆる、この状態が、「絶句(ぜっく)」と呼ばれるものでしょうか。

日本の他の都市では、このような異国情緒を味わうのは難しいことでしょう。
長崎以外にも、日本には街があり、それらの街には、西洋風味の文化で飾られた物が多いです。

しかし、長崎の持つ西洋情緒を、日本の他の都市は持っていません。
というのも、多くの人の知るとおり、江戸時代において約300年間も、海外に開かれた街は、ここ長崎のみであり、その時代分の西洋情緒が街と融合しているからです。
その約300年間分の差異を、日本の他の都市が表現できないのです。

例えば、掲載している写真の聖母マリア像ですが、注意深く、街の中を歩いてみると、大浦天主堂だけではなく、街の様々な場所に、さりげなく、聖母マリア像があります。

その、聖母マリア像が街に何体あるかはわかりませんが、かなり多いようです。
また、そのように、「街全体の至る所に、聖母マリア像が飾られている」という点も、日本の他の都市には、一切存在しない光景です。

また、長崎の街では、キリスト像も飾られていますが、そのキリスト像よりも、遥かに多い数の聖母マリア像が飾られています。

他にも言えるのは、中華風味の建築、服装、お祭りなども、上記のマリア像のように、街に飾られています。
特に、中華街の近くにです。

ですから、日本の他の都市で、観光的に西洋風味の趣を多めに出そうとしても、やはり、ここ長崎の所有している約300年間分の時間的な差異を埋めることは出来ません。

これが、「長崎は異国情緒溢れる街」と言われるゆえんです。

詩の方に、そのような異国情緒を描いたつもりですが、感じて頂ければ幸いです。
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              波紋


    僕は春の公園にいる。
    そこは深い水の底。
    空気と言う名の水の底。
    息の詰まることもなく、
    更に清冽な大気の水を吸う。

    散りゆく桜の花びらに、広げた両の手の人差し指で触れてみる。
    そこから波紋が広がる。
    宙に広がる波紋。
    僕は走る。
    次々と指が触れてゆくたびに、いくつも、いくつも、波紋ができてゆく。
    桜の花びらが両手の五指に触れるごとに
    空中に幾つもの波紋が重なり、広がってゆく。

    走るのをやめる。
    大きな息を吐く。
    大きな波紋になってゆく。
    春の深い水の底で。

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この作品は、2008年12月10日に出来ています。

作った季節は、冬でしたが、暖かい春の陽射しを想像して書きました。
私も子供の頃は、冬も好きでしたが、年齢を重ねると同時に、春の方が好きになって来たでしょうか。

詩の景色としては、春の青空の下に私がいるのですが、その「春の青空」そのものを、「春の青い水」と感じているところが気に入っています。

「春の青空」を、ちょうど、春の小川の底を泳いでいる魚のような気持ちになって、描いた作品です。
芸術作品を描く際には、想像力、イマジネーションが、かなり要求されると言われますが、私もそうだと思います。

詩のジャンルでは、その想像力は、主に比喩表現で現されます。
しかし、他の芸術ジャンルでも、想像力が必要とされ、その想像力が比喩表現や絵画表現、最近では、映像表現に開花されると思います。

この想像力を豊かにするには、やはり、美しい自然に触れたり、静かな空間の中で、自分のお気に入りの音楽を聞くことでしょうか。
当然、これらをする間にも、心が清まるので、一石二鳥のような部分が、創作活動にはあると思います。
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        歌と刃(やいば)


    激しい 戦いの中で、
    刃が 交わされる中、
    やわらかい 女の歌声が
    私達の 心の中に
    やさしく 響きわたる。
    やがて その歌声は
    冷たい 刃の中にも
    届いてゆく。

    それは
    愛の奔流(ほんりゅう)が
    数多(あまた)の
    刃を折る ちから か。

    一人の女の歌声が
    翼を広げ、
    軽々と 空に 舞い上がる時、
    一人の男の 勇気が
    一つの闇を 裂(さ)いてゆく。


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この作品は、2011年3月24日に出来ています。

最近の芸術家の方々も、色濃く、アニメの影響を受けていると思います。
アニメというのは、一種の総合芸術と言えるので。

ですから、私の方でも、アニメの影響を無視することは出来ません。
アニメの中でも、特に、人々を感動させるものには、当然、心が、うるわしい方向に振れますので、そのような影響を受けた作品が仕上がって来るものです。

昔から時折、『超時空要塞マクロス・愛・おぼえていますか』を、見る機会がありまして、見終えた後に、「これ(マクロス)、いいよねぇ」と何度でも、一人で、うなずく私でした。

しかし、単純に、感動しただけでは私なりに不足であって、その感動を別の形で表現しようと、瞑想しながら、努めることが大事だと感じます。

(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『三千百七十九:詩の思い出』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2017/09/post-6c15.html

          遠い星へ向かう時


    遠い星へ向かっている時、
    その星から 一つのやわらかい声が聞こえてくる。
    慈雨のように 上から降り注いでくるよう。
    その星が僕を迷わぬようにしてくれたのだ。

    僕の両腕は二つの音か。

    星に向かっている時の
    凄いスピードが 遅いスピードのようだ。

    僕は一つの音楽。
    音楽が音楽の上に乗っている。


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          音


    雲海が やわらかく広がる朝
    一つの音が 宙を漂う。
    音は 翼を 羽ばたかせ、雲の上を 静かに舞う。
    穏やかな ほほえみを持って。

    羽毛のような 音の響きが 翼そのものか。
    音と音が 宙を 軽く すれ違う時
    触れ合う 彼等のその笑顔に
    暖かい 光を感じる。

    音が ほほえむ時
    音そのものが
    かすかに 光る。
    蛍のように。

    その淡い光が 音の周囲に
    きらめきわたる。
    芳香(ほうこう)が漂うかのように。
    また 虹のかけらが流れるかのように。

    竪琴(たてごと)に 触れる指と その絃(げん)から
    光と音が 靄(もや)のように にじみ出し
    春の せせらぎのように
    遠方(おちかた)に 流れていくかのように。


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『三千百五十五:詩作の思い出』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/.s/blog/2017/08/post-c72d.html

      愛と光


    愛が光となり、光が愛となり、
    光と愛が結ばれ合い、
    羽毛のように 触れ合い、
    お互いの中で響き合う。

    光と愛が 織(お)り合わされる中、
    速くもあり 遅くもある
    一つの やわらかな音楽が流れ続ける。

    その音楽に のせて
    光と愛が
    私達の胸に やって来る。
    一組の男と女のように。


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                                       坂本 誠

三千二百五十二: 『街道を行く 9』の再解釈_No.2

今日は、3回目のブログ更新です。

三千二百五十一:『街道を行く 9』の再解釈_No.1』の続きです。

私が、よく引用する、司馬遼太郎氏の明治初期に行われた地租改正について、再び解釈したことや疑問に思ったことを書こうとしているところです。
しかし、さすがに、読書感想文を書くならば、引用したい箇所を挙げないと、読者にわかりづらい部分もありますので、よく引用している文章を、再び引用します。

『三千十一:現代と中世の商業事情を考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/11/post-05f9.html
司馬遼太郎『街道を行く 9 信州佐久平みち、潟のみちほか』(朝日文芸文庫)より文章と写真を引用
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明治維新後、太政官の財政基礎は、徳川幕府と同様、米穀である。

維新で太政官は徳川家の直轄領を没収したから、ほぼ六百万石から八百万石ほどの所帯であったであろう。

Photo_2


維新後、太政官の内部で、米が財政の基礎をなしていることに疑問をもつむきが多かった。


欧米は、国家が来期にやるべき仕事を、その前年において予算として組んでおく。
ところが日本ではそれができない。
というのは、旧幕同様、米が貨幣の代りになっているからである。
米というのは豊凶さまざまで、来年の穫れ高の予想ができないから、従って米を基礎にしていては予算が組み上がらない。
よろしく金を基礎とすべきであり、在来、百姓に米で租税を納めさせていたものを、金で納めさせるべきである

明治五年、三十歳足らずで地租改正局長になった陸奥宗光が、その職につく前、大意右のようなことを建白している(※筆者注:この私のエッセイ内では「右」ではなく、「上」となります)。
武士の俸給が米で支払われることに馴れていたひとびとにとっては、この程度の建白でも、驚天動地のことであったであろう。

が、金納制というのは、農民にとってたまったものではなかった。
農民の暮らしというのは、弥生式稲作が入って以来、商品経済とはあまりかかわりなくつづいてきて、現金要らずの自給自足のままやってきている。

『米もまた商品であり、農民は商品生産者である』というヨーロッパ風の考えを持ちこまれても、現実の農民は、上代以来、現金の顔などほとんど見ることなく暮らしてきたし、たいていの自作農は、米を金に換えうる力などもっていなかった。

どうすれば自作農たちが金納しうるかということについては、政府にその思想も施策も指導能力もなにもなく、ただ明治六年七月に「地租改正条例」がいきなりといっていい印象で施行されただけである。

これが高率であったこと、各地の実情にそぐわなかったことなどもふくめて、明治初年、各地に大規模な農民一揆が頻発するのだが、木崎村は、このときには一揆を起こしていない。
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(引用終わり)

前段『三千二百五十一:『街道を行く 9』の再解釈_No.1』に紹介済みの牧 祥三氏の思い入れもありましたので、私の方も自然に考える機会があったわけです。

では、ここから、私が新たに感じた疑問を書いてみたいと思います。
明治五年にあったとされる、「太政官会議(だじょうかんかいぎ)」と呼ばれる会議で、陸奥宗光氏が、当時建白したとされる発言内容に、疑問を感じました。
司馬氏をして、明治初年の段階で、驚天動地程度の発言とされている発言内容です。

「欧米は、国家が来期にやるべき仕事を、その前年において予算として組んでおく。ところが日本ではそれができない」と、当時の陸奥氏は言ったそうです。

彼の発言をそのまま考えてみると、「国家というものは、来年も、絶対に仕事をするべきだ」と、私達は受け取れることでしょう。
そこで、人は次のような疑問を持たないでしょうか。
国家という組織が、来年あたり、やるべき仕事が無さそうだ。だから、特に、国家という組織の内部の人々は労働せず、休暇を丸々、取っても良いのではないのか」と。

「するべき仕事が無いのにも関わらず、それでも、むやみやたらに、何らかの仕事を見つけて、それをすべきだ」という発想自体に、おかしなものを感じないでしょうか。

これは、現代の例を挙げて考えてみれば、理解しやすくなると思います。

昨今、私達の日本社会では人口減少が進んでいます。
このまま進めば、今、私達の見ている多くの施設や多くの建物が、使用されなくなることでしょう(人が少なくなるので)。
ですから、建設業務を減らしたりする必要が出てくるでしょう。
つまり、それだと、「来年以降あたり、仕事が無いかもしれない」という状況が発生するかもしれません。
で、この状態で、「それでも仕事をすべきだ」となると、目的も無く、地球を穴だらけにしている状況となってしまうでしょう。
つまり、「思い当たる仕事内容が無いにも関わらず、無理に何かの仕事をすべきだ」というのは、これは不自然な状態であることが私達にわかります。

しかし、それでも「思い当たる仕事内容が無いにも関わらず、無理に何かの仕事をすべきだ」という発想になってしまうのは、お金が必要だからだ」というのが原因となってくるでしょう。

あの、太政官の陸奥氏の発言内容によって、日本がお金社会となってきたのでしょうが、自らの環境にお金社会を導入した結果、その、お金そのものに苦しめられることがわかります。

お金社会で無ければ、お金の心配をする必要が無いので、上の例で挙げたように、国家という組織が、来年あたり、やるべき仕事が無さそうであれば、国家という組織の内部の人々は労働せず、休暇を丸々、取れたのではないでしょうか。

この状況ですと、「自分で自分に苦しみを与えた」ということになるでしょう。

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以前、お金に関した記事で、私は、「資本主義社会というのは矛盾システムであるから、自分で自分の尻尾を食べている蛇(へび)のようなものである」と書きました。

私が上に書きました、新たな疑問や、それから生じる考えを読んでも、再び、読者の方は、自分で自分の尻尾を食べている蛇を想像するかもしれません。

(ちなみに、上記のような人口減少の進む社会で、そのまま、多くの施設や多くの建物を建設していると、将来的には、それを利用する人間がいなくなるので、相当な赤字そのものを生むだろう、とも予想出来ますが。黒字を生み出そうとして、何かを作るわけですが、その黒字を生みたい願望が、巨額の赤字を生むと予想できるので、現代人はお金に関しての発想の転換を求められていると感じます。)

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仕事や業務内容が無ければ、そのまま、仕事をしなくても良い筈ですが、お金社会というのは、その自然さを破壊し、無理矢理にでも、人を働かせようとする、つまり、不自然な道具だとみなせるでしょう。

この「不自然さ」というのは、「いびつさ」とも言えますから、自然の流れをマッチしないのです。
この「自然とマッチしない」という点も、現代社会の問題点を増やしている原因の一つだと感じます。

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ここからは、ちょっとした別件です。

私のブログの方の、幾つかの記事も、ネット検索での検索対象から除外されているようです。
まあ、どこかの誰かが、そのような処置をするのでしょうが、そのようなことをしてしまいますと、あなた御自身が、良心の痛む日々を送ってしまうのではないかと思います。

誰でもそうですが、良心の痛まない日々を送り続けることが、幸福な生活を生み出すと思います。

ですから、あなたが良心の痛まない行為に切り替えれば、あなたの人生は幸福なものへと変化し始めると思います。

どうぞ、良心の痛まない行為に切り替えて、あなたも心さっぱりとしたライフ・スタイルを始めてみませんか。


                                       坂本 誠

三千二百五十一: 『街道を行く 9』の再解釈_No.1

今日は、2回目のブログ更新です。

この段落の記事とは違っているのですが、先に更新した『三千二百五十:世の多くの手抜き事業を考えて』の追加を、ここに書かせて下さい。

前段落から続いて、会社の監査役の簡単な手抜き行為として考えられる行為があります。
会社の監査役というのは、複数の会社を兼任することが出来ます。
ですので、ある監査役の方のセリフを想定するならば、

  「私、幾つかの会社を兼任しているという忙しい状態でありまして、件(くだん)の会社の社員の労働時間を、つぶさに監査する機会がありませんでした

というものでしょう。

このような逃げとも思われるようなセリフが出たとしても、こちらの方から、

  「それでしたら、いつも、あなたが多目に出勤している会社があるでしょうから、その会社の従業員の労働時間状況は、どうでしたか?

とか、

  「それは、もう、監査役が、自分の業務を実行しているとは言い難いのでは? 幾つもの会社を兼任していたとしても、それらを調べるのが、そちらの業務でしょうから、それこそ、部下を使うとか

等のように、幾らでも手段はあることでしょう。

会社の取締役も同じようなものですし、この状況で、日本の数多くの企業が違法長時間労働をしているとあるならば、、、

ねえ、、、それこそ、、、

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三千二百五十:世の多くの手抜き事業を考えて』の追加は、ここまでであり、以降は別件です。

私は、しばしば、司馬遼太郎『街道を行く 9 信州佐久平みち、潟のみちほか』(朝日文芸文庫)の中から、『潟のみち』「木崎村今昔」中の、明治初年に実施された地租改正についての文章を引用しています。
下記のURLのもの部分ですね。

『三千十一:現代と中世の商業事情を考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/11/post-05f9.html

私の手にしている文庫本は、朝日文芸文庫が1997年5月30日に、第13刷として発行されたものです。

文庫本の再版以降となると、出版社が変わる可能性もあるし、ページ中のフォントが変更されたりします。
また、たいていの文庫本の最後には、『解説』が付いたりします。

この『解説』には、まれには、著作者自身が書くことがありますが、たいていの場合は、著作者以外の人が選ばれて、その『解説』を書きます。
しかし、版を重ねるにつれて、どこかの時点で、『解説』を書いた人が変更されて、新しい『解説』が添えられることもしばしばです。

私の手にしている第13版では、「牧 祥三」という方が、その『解説』を書いています。
この「牧 祥三」という方も、自身の『解説』の筆頭に、私も頻繁に引用する地租改正について語っています。
しかも、何ページも割いて書いています。

ですから、この「牧 祥三」という方も、私と同じように、この地租改正部分の司馬氏の文章に異様な光を感じていると思われます。
その「牧 祥三」氏の、本文庫本に捧げられた解説部分から、以下の引用をしてみたいと思います。

司馬遼太郎『街道を行く 9 信州佐久平みち、潟のみちほか』(朝日文芸文庫)の本文終了後の解説より引用
-----------------------------------

(文庫本の本文終了後の解説)

牧 祥三

P5060176

 

(、、、前略、、、)

このような一部の農村状況のなかで、当時の農民運動は、近代化にとりのこされた半封建的部分としての農村の解放運動であって、体勢改革などをもとめるものではなかった。
司馬氏が伝える、若き日の池田徳三郎氏が「私ドモハタダ人間トシテ認メテ欲シイダケダ。・・・」と争議の壇上で叫んで絶句した、のも旧い体制からの人間解放のさけびであった。

この地の教員の野口伝兵衛氏は、教職をなげうって、木崎村の争議に参加し、いくたびか逮捕されたりして早く亡くなった。
この人の未亡人キセさん(昭和五十年取材当時七十歳)も教員だったが、夫の亡きあと数人の子供たちを立派に育てあげたあと、胸を打つ言葉を述べている。
「どうして(夫が)教員を辞めるのかわからなかったし、農民運動もよく理解できなかった。しかし農民運動の話になるとうれしそうに語る夫をみていると、運動をやめてくれ、とはいえなかった」(『庶民の歩んだ新潟県五十年史』)。

(、、、後略、、、)
-----------------------------------
(引用終わり)

新しい引用文中の(昭和五十年取材当時七十歳)とありますが、これは、司馬遼太郎氏が取材した年なのか、それとも、解説を書いた牧 祥三氏が取材したのか、どうかは、私はわかりません。

しかし、牧 祥三氏も、この本の地租改正の部分には、かなり興味をそそられたことが、上の引用文の紹介で、読者の方々もわかると思います。

司馬遼太郎氏の、この『街道を行く 9 信州佐久平みち、潟のみちほか』は、おそらく重版はなされ続けていると思いますので、現在の文庫本には、私が挙げた牧 祥三氏の解説は掲載されていないかもしれません。

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上に書いたように、私自身も、久々に、同書の解説部分を読んでいて、いつも引用している部分を、再び別の角度から考える機会を持ちました。

その、「別の角度から考え」たことを書こうとしているのが、この段落です。
ですが、この段落では、前段落『三千二百五十:世の多くの手抜き事業を考えて』の追加も書きましたので、区切りの良さも考えて、残りの部分は、次の段落で書いてみたいと思います。

(次段落に続く)


                                       坂本 誠

三千二百五十: 世の多くの手抜き事業を考えて

こんにちわ。

最近の報道にあるように、手抜き事業により、品質不足の商品が大量に世に出回っていることが、問題として挙げられています。

この点について、私の気づいたことなりを書くことにします。

どんな会社の中でも「監査役」と呼ばれる重役がいます。
この、監査役と言われる会社の役が、各会社内部の不正なりを発見して、それを正す役目をしています。

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ただし、私が見て、現代の監査役自体に問題があると感じます。

この記事の私の書き方を見て、口調が激しかったり、怨嗟の声で書いているわけではないのに、気付かれるでしょう。
ですから、私自体も、鬼の怒った時のように、声を荒げて、わめき散らすように、「世の不正を正せ」という手合の激しい感情を載せているわけではないことがわかると思います。

ですが、世に多くあると思われる、また、私が感じるところの「監査役自体の問題」というのを淡々と書いてみることにします。

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会社の中の監査役というのは、インターネット上の百科事典「Wikipedia」によると、

(Wikipediaより引用。太字にしたり、アンダーラインを引いたのは筆者)
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●監査役
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A3%E6%9F%BB%E5%BD%B9

会社経営の業務監査および会計監査によって、違法または著しく不当な職務執行行為がないかどうかを調べ、それがあれば阻止・是正するのが職務である。

Photo

最終更新 2018年3月5日 (月) 08:44 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
-----------------------
(引用終わり)

とあります。

そして、現代の日本社会では、数多くの企業が、サービス残業とか違法長時間労働の点で、問題視されています。
ですから、会社の監査役というのは、「会社の違法を調べ、それがあれば阻止・是正するのが職務」なのですから、現代の日本社会の数多くの会社が、違法長時間労働を実施しているとあるならば、自社の社員達が、日常的に、違法長時間労働をしているのを、日々に、目撃をしているでしょう。
ですから、現代の日本の数多くの会社の監査役の方々が、当然、それらの違法を「阻止・是正」していない、ということになります。
なので、相当、大量の監査役の方々自身に、大量の問題があると言えると思います。

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また、監査役だけでなく、会社の中には「取締役」と言って、自社内の責任を負う立場の人々もいます。
通常は、社長とか専務と言われるような、会社の中枢部にいる方々がこの「取締役」になることが多いです。

この「取締役」の方々も、法令・定款違反行為に関する責任を負わされていますから、当然、自社内の違法長時間労働を見逃している、ということで、これもまた、上記に挙げた監査役と同じく、大量の問題があると言えると思います。

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ですから、日本内部の、ほとんどかもしれない、数多くの企業が、長時間労働を見逃している、とあるならば、新聞やテレビに出たら、「日本総倒産」とか「日本総辞職」という見出しの下に、それらが書かれる可能性もあるかもしれませんね。

だけど、私のこの記事にしても、ある人々ならば、読んでも、見て見ぬふりをされている方もいると思います。

結局、まあ、そのような方ならば、良心の痛む日を送るかと思うのですが。

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なので、現代社会で、「私は、本当に、誠心誠意、完全なまでに監査役(あるいは取締役)を行う」と思っておられる方ならば、この私の記事を読んで、今後、良心の痛む日々を送るのではないでしょうか。

なぜならば、日本内部で、日常的に、違法長時間労働を見逃されている、とあるならば。

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ここで、冒頭に挙げた問題点に帰りましょう。

私が冒頭に挙げた問題点とは、「手抜き事業による、品質不足の商品の大量流出」でした。

この「品質不足の商品の大量流出」と違法長時間労働が関係してくるわけです。
他の方が言いにくいようですが、現代のほとんど、多くの企業が、売上高増加のみを狙っているわけです。

かなり、わかりやすく書けば、世の多くの人々が「私は、もっと、お金が欲しい」と言っているわけです。
つまり、「私は、もっと、お金が欲しい」とあるならば、当然、多くの従業員達に、長時間労働をさせれば、それに見合った売上高の増額が得られるかもしれません。
その狙いを持って、多くの従業員達に、長時間労働をさせている結果、多くの人々が、その長時間労働に疲れた結果が、多くの手抜き事業を生むのです。

多くの手抜き事業がなされた結果、当然、「品質不足の商品の大量流出」が起こるのです。

ですから、現代社会の、この問題の本質を考えるのならば、「私達の道具の一つである、お金に問題があるのだ」と、わかるわけです。

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そして、普通の記事とか話題ならば、この段階で話が終わるわけです。

なんとならば、

  「世の数多くの手抜き事業は、お金のために、仕方なく、行われたのだ」

という、手合いの回答が、世に数多く出回っているでしょう。

通常の記事とか話題を書く方ならば、「そうだ。お金こそは、この世の中で絶対視されるべきものだから、この段階で、この話題を打ち切る必要がある」と考えて、この段階で、この話題をストップさせたりするわけです。

ですから、そのようなストップは「問題の本質に迫る、努力がなされていない」と言えるようなものです。

私なぞは、「世に出回っている、お金という道具には、こんなに問題がある」とか「お金という道具への絶対視或いは崇拝視を止める」という視点から、お金という道具の問題点を、このブログに長々と書いているのを、読者の方々は知っておられるでしょう。

ですから、「お金を絶対視しない」あるいは「冷静に、お金という道具の問題点を把握しようとする」他の方々でも、上に挙げた、ストップ・ポイントを軽々と越えて、そのストップ・ポイントの背後に存在する、更なる問題点の原因を追究していくことでしょう。

お金に関する問題点ならば、長くなりますので、すいませんが、当ブログの過去記事を読まれて下さい。

お金という道具に対する絶対視や崇拝視を外して、客観的に、冷静に、お金という道具を見直せる方ならば、逆に、以下の文章を容易に理解できると思います。

  「お金欲しさのために、世の多くの会社で、数多くの長時間労働が行われ、その結果、数多くの従業員が疲労して、その疲労の結果、品質不足の商品の大量流出が起きるのだ」

と。

結局、「現在の、世のほとんどの問題は、お金の問題から発生しているのだ」とわかるでしょう。

まあ、まだ書きたいことはあるのですが、それらは別記事に譲りまして、まずは、上に書いたようなことを、あっさりと軽く、受け止めて、冷静に、落ち着いて、御自身の周囲を見回してみることを、私はお薦めします。


                                       坂本 誠

2018年5月 3日 (木)

三千二百四十九: 宇宙人誘拐説を考えて_No.2

こんばんわ。

前段『三千二百四十八:宇宙人誘拐説を考えて』の続きです。

前段中に、息抜きとして、アニメ『うる星やつら』をご紹介しました。

この記事を書いている2018年の5月だと、もう、若い世代の方々では、アニメ『うる星やつら』を知らない方もおられるかもしれません。

ですから、ユーモアを交えつつ、アニメ『うる星やつら』を紹介させて下さい。

以下の文献を読まれても、『うる星やつら』が詳しく紹介されています。

ラム (うる星やつら) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A0_(%E3%81%86%E3%82%8B%E6%98%9F%E3%82%84%E3%81%A4%E3%82%89)

掲載している写真は、同HPからの引用です。

_

漫画家の高橋留美子さんが原作です。

最高視聴率を調べてみると、以下のHPでは、

うる星やつら (アニメ) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%82%8B%E6%98%9F%E3%82%84%E3%81%A4%E3%82%89_(%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1)

最高視聴率は27.4%」とあります。

現代で、これほどの視聴率が出る番組で、一週間に一回の放送のものは無いのではないかと思います。
また、同アニメの放送開始は、1981年10月14日からです。
ですから、今から37年も前の話ですね。

時の経つのは早いものですね。

この『うる星やつら』の中で、宇宙人の鬼娘であるラムちゃんが出て来て、地球人である諸星あたるの押しかけ女房となって、様々な奮闘記やギャグが描かれているわけです。

同作品中で、ラムちゃんが自分のUFO(宇宙船)を持っていまして、様々な所へ出掛けて行きます。
そして、その宇宙船の搭乗口と思えるような部分から、科学的な光線が出て来ると、その光線中の人間等は、ラムちゃんの宇宙船に吸い上げられます。

ですから、そのような光景を、地球人が目撃するならば、「宇宙人が地球人を誘拐している」のような光景になるわけです。

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前段『三千二百四十八:宇宙人誘拐説を考えて』で考えてみた宇宙人誘拐とも思えるシーンを、『うる星やつら』風に表現してみると、

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(ラムちゃんが、自分の宇宙船で、諸星あたるを吸い上げた後、)

▲諸星あたる:

  「おい! ラム! 今、おまえは、地球人である、この俺を誘拐したのだ!」

●ラム:

  「そんなことないっちゃ! うちは、ただ、愛するダーリン(諸星あたる)を、うちの宇宙船に招待しただけだっちゃ!!」

----------------------

上の例のような場合も考えられます。

ラムちゃんにしてみれば、彼女の一途で、ひたむきな、ダーリンに対する愛情の現れです。
しかし、地球人である、諸星あたるからしてみれば、「誘拐」と感じてしまうこともあるでしょう。

もう少し考えてみると、ラムの母星である、生活の慣習とか、常識なども、地球のそれらと違っている場合もあり、それらを考慮する必要もあるかもしれません。

/////////////////////////////////

ただ、地球人の側から見ると、いまだ、物体を吸い上げる科学的な光線を知らないので、未知の科学技術等を使用されると、地球人としては、かなり驚くことでしょう。

驚きの感情が、恐怖の感情を導いてしまい、余計な混乱を起こしてしまうかもしれません。

しかし、『うる星やつら』に出てくるような宇宙人の技術というのは、私達は、あまり考慮しない方が良いかもしれません。
なぜならば、地球でずっと、生活していても、少しずつ科学技術は発展するのですから、いつの日にか、同アニメに出てくるような、科学的な光線を使えるようになるからです。

ちょっと考えてみると、現代人が、現代の電気シェーバーを持って、1000年前か2000年前の環境に訪れたのと同じです。
1000年前か2000年前の人間は、未来人である地球人が電気シェーバーで髭を剃るのを見ると驚くでしょう。
しかし、その過去の人間も、現代に訪れてみて、人々の様子を見ると、男性ならば、その多くが電気シェーバーで髭を剃りますから、彼は「この光景が当たり前なのだ」と思うでしょう。

時間的な差異というのは、意外に埋め合わせることが簡単だとわかります。
単純に、時間に沿って、科学技術が発展するのですから。

/////////////////////////////////

ただ、ラムちゃんのような可愛い、宇宙人の女性が地球の男性を誘拐しようとしても、ある程度の数の男性は喜ぶのではないでしょうか。

しかも、ラムちゃんのような宇宙人が、宇宙旅行に連れて行ってくれるのです。

ですから、ある程度の数の男性は、「この招待(誘拐)は、非常に素晴らしい出来事だ!」と、賞賛する男性達も出てくるのではないでしょうか。

私なんかも、言わせてもらえれば、「ラムちゃんのような宇宙人が、私を宇宙へ誘拐(招待、救済)してくれないだろうか」と、願わないわけではありません。

/////////////////////////////////

なので、前段『三千二百四十八:宇宙人誘拐説を考えて』でも書いたように、宇宙人が地球人を、そのUFOに乗せようとする光景を見て、一概に全て、「誘拐だ」とは決めつけず、「誘拐の路線も考えられる。また、救済の路線も考えられる。また、招待の路線も考えられる」と、幾つもパターンを考えた方が良いと思います。

また、その、幾つもパターンを考えることによって、私達の視野は良い方に広がると思います。


                                       坂本 誠

2018年5月 1日 (火)

三千二百四十八: 宇宙人誘拐説を考えて

こんばんわ。

時々、テレビのゴールデン・タイムでのスペシャル番組や、ネット上の、あるグループの間で、「宇宙人が地球人を誘拐しているかもしれない」というタイトルに沿った、報告や議論や感想等をまとめた番組が流されたり、HPが掲載される時があります。

これについて、私が感じる機会がありましたことを書いてみたいと思います。

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それらの番組やHPが伝えるところでは、「UFO、つまり、宇宙人の乗り物らしい物体が現れて、そこから、宇宙人のような存在が現れたりして、地上の人を誘拐しているらしい」と言っています。

以外にも、この宇宙人誘拐説が多く流れているのに気が付きます。
それらのものの中では、確かに、強制的に、宇宙人が地球人を誘拐しているかのようなものもあるようです。

ちょっと、息抜き程度に表現するならば、アニメ『うる星やつら』で出て来た、宇宙人ラムちゃんのUFOが、何かの科学的な光線を発して、諸星あたるを吸い上げているような光景を、私達は思い出すでしょうか。

これについて、何か、違った角度から再び考えられることが出来ないでしょうか。

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というのも、私の知り続けてきた情報を総合的に判断すると、「地球というのは、これは一種の強制収容所と言えるかもしれない」ということです。

そうですね、先に、息抜きをしたので、ちょっと、ネガティブな表現も使えると思うのですが、私達の住む、地球はアウシュビッツに似た強制収容所に似ているとも言えるわけです。

誰が、強制収容所の管理者かというと、この地球を支配しようとしているカバールやイルミナティと言えるでしょう。
なぜならば、彼等は、彼等以外の全地球人を奴隷にしようとしているからです。

当然、その奴隷達を強制労働させている現場ならば、その現場を強制収容所と表現できるでしょう。

私がネット上で見かけたビデオを資料とするならば、以下の(私が気になった部分には、アンダーラインを引いたり、太字にしています)、

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『七百八十六:ディスクロージャーについて_No.46』
●元カナダ防衛大臣によるUFOエイリアン情報開示
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2014/01/_no46-ffce.html
http://www.youtube.com/watch?v=dpWPRd56D-0



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(YouTube概要より引用)
ポール・ヘリヤー:ポール・ヘリヤーはカナダ議会の最年少議員になった人物であり、ル-イ・サンローラン政権下で最も若くして閣僚となった人物である。
彼は2005年9月25日に、「UFOは飛行機が上空を飛んでいるのと同じくらい現実的なものである」と公に発表し、国際的に大きく報じられた。
この事により、彼はG8国家の閣僚レベルでUFOの存在を認める発言をした最初の人物となった。
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(上記ビデオより抜粋引用)
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今から私の関心は完全なる情報開示です。
それから・・・私の唯一の注意点ですが、おそらく95から98%の完全な情報開示になります。

それは私達が様々な種類の生命で一杯の宇宙に住んでいるという事です。
それは存在し、私達の運命を支配する同じ既得権益により秘密にされているのです。
外交問題評議会、ビルダーバーグのメンバー、三極委員会、国際銀行カルテル、石油カルテル、様々な諜報組織のメンバーおよび軍事政権の選ばれたメンバー達です。
彼等は共にアメリカのみならず、欧米世界の多くの影の政府となっているのです。
ゲームの目的は世界政府であり、秘密結社のメンバーが含まれていて、誰からも選ばれていない人物であり、誰に対しても責任を持たない人物なのです。
そしてロックフェラー氏によると、計画は上手く進んでいるのです。

何故、私達の市民権が奪われているのかこれで理解するのに役立ったでしょうか?
"私達"と言いました。
何故ならカナダも壮大な計画に含まれているからです。
---------------
(引用終わり)
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****************************************************

この上記のビデオ内容から、私達の生活環境は、一つの強制収容所であるとも、みなせるでしょう。

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そして、収容所の中で、どのような形で、強制労働がなされているのかと考慮すれば、これは、私が以前から書いているように、彼等の作っている「お金」を使って、私達を無理に労働させていると気が付きます。

あっさりと書かせて頂くのですが、今現在、「労働」と言うことに関して、「働くということは、つまり、お金を得ることなのだ」と思って、労働している人が圧倒的多数ではないでしょうか。

普段、私達が心の中で感じていることでも、あっさりと語ることに、躊躇される方も多いと思いますが、さらりと書いてしまえば、私達の労働というものに対して、「私達は、お金を得るために働いている」というのが、実際のところではないでしょうか。

ですから、かなり多めの人数が予想されますが、「私達は、お金を得るために、仕方なく、今の職場で働いているのであり、実際は、今の職場で働きたくない。苦痛だ」と感じている方々も多いのではないでしょうか。

「なぜ、そのような状況が多発しているのか」というと、これも、私のブログの方に過去から書いていますが、私達の社会全体に、お金というものがバラまかれ、「お金を使ってでしか、私達の生きる道が無いからだ」と、カバールやイルミナティやイルミノイド達に、社会をセットされ続けて来たからです。

私が、頻繁に引用する文献の一つとして、

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『三千十一:現代と中世の商業事情を考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/11/post-05f9.html
司馬遼太郎『街道を行く 9 信州佐久平みち、潟のみちほか』(朝日文芸文庫)より文章と写真を引用
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明治維新後、太政官の財政基礎は、徳川幕府と同様、米穀である。

維新で太政官は徳川家の直轄領を没収したから、ほぼ六百万石から八百万石ほどの所帯であったであろう。

Photo


維新後、太政官の内部で、米が財政の基礎をなしていることに疑問をもつむきが多かった。


欧米は、国家が来期にやるべき仕事を、その前年において予算として組んでおく。
ところが日本ではそれができない。
というのは、旧幕同様、米が貨幣の代りになっているからである。
米というのは豊凶さまざまで、来年の穫れ高の予想ができないから、従って米を基礎にしていては予算が組み上がらない。
よろしく金を基礎とすべきであり、在来、百姓に米で租税を納めさせていたものを、金で納めさせるべきである

明治五年、三十歳足らずで地租改正局長になった陸奥宗光が、その職につく前、大意右のようなことを建白している(※筆者注:この私のエッセイ内では「右」ではなく、「上」となります)。
武士の俸給が米で支払われることに馴れていたひとびとにとっては、この程度の建白でも、驚天動地のことであったであろう。

が、金納制というのは、農民にとってたまったものではなかった。
農民の暮らしというのは、弥生式稲作が入って以来、商品経済とはあまりかかわりなくつづいてきて、現金要らずの自給自足のままやってきている。

『米もまた商品であり、農民は商品生産者である』というヨーロッパ風の考えを持ちこまれても、現実の農民は、上代以来、現金の顔などほとんど見ることなく暮らしてきたし、たいていの自作農は、米を金に換えうる力などもっていなかった。

どうすれば自作農たちが金納しうるかということについては、政府にその思想も施策も指導能力もなにもなく、ただ明治六年七月に「地租改正条例」がいきなりといっていい印象で施行されただけである。

これが高率であったこと、各地の実情にそぐわなかったことなどもふくめて、明治初年、各地に大規模な農民一揆が頻発するのだが、木崎村は、このときには一揆を起こしていない。
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(引用終わり)
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このように、世界中の国々をお金のみで充満させれば、その内部の人々は、「この世で生きていくためには、お金が、絶対に必要だ」という、強い思い込みを抱けば、お金を作っているカバールやイルミナティの側からすれば、あなたを思いのままに操れることが出来るのです。

例えば、カバールやイルミナティの側から、イルミノイド達に対して、増税を指示したり、あるいは、中央銀行の利上げ・利下げを行えば、世の多くのお金を操作できるので、その行為は、つまり、多くの人々の労働環境を左右させることになるのです。

あるいは、カバールやイルミナティ達が、人為的に、意図的に、株の大暴落等も起こせば、同様のことが起きます。
暴落の起こし方の一つとしては、以下のようなものでしょう。

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『七十六:News_No.238』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2013/06/news_no238-04de.html
(以下、『朝日新聞』朝刊、2013/6/15記事。6ページ目の経済欄に掲載の記事を引用します。)
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●5・23暴落「すべて想定通りだった」 米ヘッジファンド暗躍

日経平均株価の終値が13、14の両日に1万2千円台になり、日本銀行が4月に大規模緩和を始める前の水準に戻った。
一時は1万5600円を超えたが、5月23日に1143円暴落し、下落に転じた。
背後にいたのは、米国のヘッジファンドだった。

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米西海岸に拠点を置くヘッジファンドの首脳は実は、23日の1週間も前から大規模売りの準備に入っていた。
「日本株は急激に上がりすぎだ。逆回転があってもおかしくない」
社内のチームを呼び集め「日本株の急落に備えろ。勝負は数日以内」と指示。
割安だった時期から買ってきた大量の日本企業株式を売る計画をたてた。
下落の兆しを察知したら、売り始める権限を現場に与えた。

ファンドの重要顧客には「もう、日本株の投資はタイミングが遅い。あとは下落するだけ」と連絡した。
周到な根回しだった。

日本時間5月23日(西海岸時間の前日夕)。
日本の株式市場が大きな下落に転じた。
準備が整っていた社内には驚きはなかったという。
日経平均が映し出されたモニターをみながら、事前に打ち合わせた通り持ち株を粛々と売っていった。

■主戦場は日本

東京市場は大荒れになり、日経平均株価の下落幅は1千円を超えた。
しかし、このヘッジファンドの西海岸のオフィスは平穏そのものだったという。
首脳が混乱を避けるため、「電話は緊急時のみ。それ以外はメールなどで済ませろ」と指示していたからだ。
最後まで社内では電話が鳴らなかった。
首脳はこう語る。
「すべて想定通りだった。今の日本は投資には最高の場所。ヘッジファンドの主戦場だ。」

首脳は、日本株投資を10年以上続けていた。
日本でのマグロの消費量から、百貨店・三越の高級腕時計の売れ行きまで、日頃から細かくチェックしているという。
その中で、上げ幅を拡大していた東京株式市場は、実体経済との隔たりが限界にきている、とみた。

■手口明かさず

いくら儲けたのか、具体的にどの企業の株を、どんな手口で売ったのか---は明かさなかった。
ただ、日本株の上下で今後も儲けるつもりだという。
「数ヶ月たてば、日経平均は再び1万6、7000円をつけるだろう。それを見越して、割安な株式は買っている。また利益が得られると思う」

他のヘッジファンドも日本に注目している。
別の米ヘッジファンド幹部のアダム・グロスマン氏は「国の政治や経済の政策が変わるとき、株式や債券の市場は、振れ幅が大きくなりやすい。まさに日本はそれが起きた」。

米調査会社によると、米国を中心に世界のヘッジファンド業界の運用資産は、3月末時点で約2兆3700億ドル(約240兆円)。
1年前より1割以上増え、過去最高を更新した。
この巨額のお金はいま、日本の株式市場に流れこみ、海外投資家の買い越し額は約10兆円にふくらんだ。
そのお金がいま売りに転じて、相場を下落させている。

一方で、あるヘッジファンド幹部は「かなり著名なヘッジファンドが、日本株をさらに大量に売ろうとしていると聞いた。動きが気になる」。
ヘッジファンドどうしの綱引きは、日本株の乱高下を継続させるおそれもある。
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(引用終わり)
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ここまで、題意に沿って、「私達の住む星、地球は一つの収容所とみなせる」と言うために、資料を交えながら、書きました。

ここからは本題に返りましょう。

上記のような地球の状態だと、地球の外に待機していると思われる、宇宙人の方々ならば、次のように考えるのではないでしょうか。

  「数多くの地球人が、カバールやイルミナティ達によって、苦痛の檻の中に収容されている。私達(宇宙人)は、ぜひ、数多くの地球人を救済したい」

という願いから、地球人に対して、救済の手を差し伸べているのではないでしょうか。

その、「救済の手」というのが、冒頭に書いたように、地球人の側からは「誘拐」のように見えるけれど、それは、より広い視点から見れば、収容所惑星、地球からの「解放」ということになってはいないでしょうか。

私が上に書いた情報を、吸い上げられた宇宙船の中で、宇宙人から伝えられたら、宇宙船に吸い上げられた人は、今までの認識と常識がくつがえり、「宇宙人が私を救ってくれたのだ」とならないでしょうか。

/////////////////////////

実際、カバールやイルミナティ達の仕打ちに、疲れている人々の、その数は多いと予想します。

ですから、色々な、世のしがらみが無くなっている人々ならば、宇宙人からの救済の手を願う人々も、後に出てくるのではないでしょうか。

/////////////////////////

この段落では、「一般に、『宇宙人の地球人誘拐』と言われている現象を、別の角度から考えられないか」という視点で書いてみました。


                                       坂本 誠

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