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2017年12月31日 (日)

三千二百六: 苦手なもの

こんばんわ。

苦手なものについて考える機会がありました。
誰にでも苦手なものがあるものです。

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「苦手なもの」というか、「自分の興味関心の無いもの」というか、表現方法に苦しむのですが、誰にでも、この手の分野を持っているので、私の書きたいことが伝わると思います。
どのような表現をしていいのか、多少苦しむのですが、以降は「苦手なもの」と表記します。

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誰でもそうだと思うのですが、誰にとっても「苦手なもの」がやって来ると、その人にとっては、あまり良い気持ちにならないかと思います。

なぜならば、通常、その人が考えないものだし、その手のジャンルの方面を考えても面白く無いし、また、それらの理由から、備えもほとんどしていません。

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私の学生時代の経験ならば、わかりやすいので例を挙げて書き進めます。

例えば、私の学生時代に苦手なものは化学でした(科学[Science]では無く化学[Chemistry]ですね)。
苦手教科の一つでしたから、当然、成績も良くありませんでした。
今でも、化学のジャンルは、あまり好みません。
ですから、日頃、化学的な事柄を考えることは、ほぼ、ありません。

なので、ボンドとか、セメントとか、その他の素材などについては、ホームセンターのお店に置いてあるものだけしか考えませんし、また、用をそれだけで済ませます。

しかし、化学好きの人も、世にはいます。
そのような、化学好きの人は、常日頃、あるいは、余暇の時間なども「ある素材の上で、新しい化学的な組み合わせを作れないだろうか」と考えながら暮らしているかもしれません。
また、それがその人の喜びかと思います。

ですから、私から見たら、そのような人の存在を不思議に感じてしまいます。
「誰しも、興味と関心が、それぞれに違っている」ということですね。

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また、私の苦手教科の一つは、スポーツ、つまり、体育の時間でした。
もちろん、今でも、あまりスポーツを好んでいません。

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ですから、私のブログを過去から読んでくださっている方などはおわかりでしょうが、私の過去記事の方で、「スポーツ」に関する話題が、ほぼ皆無であることに気が付くでしょう。

例外として、フィギュア・スケートならば、少しは見たりします。
なぜならば、フィギュア・スケートには、芸術性を感じるので、私から見ると、フィギュア・スケートをスポーツと見なしていないからです。

野球とかサッカーとかの団体戦で、「複数のプレイヤーと組んで、スポーツを行えば、それは楽しい出来事なのだ」と、世のスポーツを愛好する人は感じているようですが、私にしてみたら、あまり理解出来ない事なのです。

ですから、スポーツを愛好する人は、自分の暇な時でも、ひょっとしたら、「新しい団体戦を案出して、それを世に出せないだろうか」という思いの下に、何かの新しい団体競技を考えている人もいるかもしれません。
また、それがその人の喜びかと思います。

団体競技では無く「走る」とか「ジャンプする」とかのような、陸上競技もありますが、これも、私には、あまり理解できません。
しかし、人は誰しも健康を求めるので、スポーツとまでは行かないものの、健康増進のために、道路を走ったり、マラソンをしたり、ジャンプをしたり、、、等の、「肉体を動かす」という行為はわかるのですが、それらを競技にしているところが、わかりません。

ですから、「自分で健康管理のために、身体を動かすことを欠かしていない」という状況ならば、あえて、「体育」という教科を設ける必要は無いのではないかと感じます。

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ですから、上の例から言えるように、自分の興味関心の無い分野あるいは自分好みで無い課題が、あえて、何かしら、日々の自分の暮らしの中に現れる時、その人は、ある意味、苦痛を感じると思います。

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これは、他の人もそうでしょう。

そのような自分の苦手分野としているジャンルが、自分の生活上に現れる時、素直に人に頼むと、それを得意としている人が受けて、それを上手にこなしていくのに気が付きます。

なので、私達は「自分がピンチに陥っている時に、得意な人がそれを受けてくれて、それをこなしてくれた」というのを見て、その人に感謝と有難味を感じるものです。

やはり、全てが全て、自分一人ではできません。
かといって、何もかも分業を押し進めていくのは、正しいことのようには私は感じません。

また、もし、全てのことを自分一人でこなせるというのであるならば、その人は、他の人の得意分野とかを求めることが無いので、周囲の人に対する有難味が薄れるかもしれません。

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そして、ある人にとって、何らかの苦手分野が生活上に現れている場合、その人は、結構、慌てていますから、その苦手分野を処理している人に対して、感謝の思いを即座に思い浮かべるのも、困難な時もあります。

例えば、医者で無い人が、病気にかかった時に、治療を医者に頼む時でしょうか。

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しかし、一歩進んで考えることがあります。

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例えば、ある人の人生行路中に、全く何も困難が起きなかったら、上の話の流れから、その人は周囲の人に対する感謝の思いが薄れるようになるかもしれません。

だからこそ、もし仮に、運命設定者のような存在がいるとするならば、

  「彼(あるいは彼女)の人生中に何の困難も起きなかったら、(上の話の理屈から)困るだろうから、あえて、彼の人生行路中に苦痛を発生させれば、他の人に対する有難味を感じ、周囲の人々との一体感や幸福感も味わえるだろうから、彼の苦痛が終わって、しばらく経った時に、彼は幸福感を得られるに違いないだろう」

という狙いの下に、あえて、苦難困難を発生させるのは、「いかがなものだろうか」と、私は感じてしまいます。

なぜならば、これだと、一種のスパルタ教育と感じられなくもないからです。

世の人々の議論にもあるように、「スパルタ教育は素晴らしいものなのか?」という疑問の声もあります。

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今年、最後の筆の流れの締めくくりを、上のものとしました。
年の瀬に合ったような雰囲気を湧出できたかと感じています。

今年も、お世話になりました。
来年も、どうか、よろしくお願いいたします。

                  2017年12月31日

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                                       坂本 誠

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