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2017年11月 7日 (火)

三千百九十一: 身近に潜む不思議

こんばんわ。

ブログ更新の間隔が開いていますが、ご容赦ください。

私達の身近に潜む不思議の一つとして、以前の過去記事『三千十二:産毛(うぶげ)について』を書いたことがありました。

その段落の要約を書けば、「人間の髪の毛は、ずっと伸び続けるだけなのに、産毛(うぶげ)の方は、あらかじめ、自分の身長を計測できるかのように、自分の成長(産毛の成長)をストップさせることが出来る。これは一つの不思議だ」というものでした。

今回は似たようなもので、私達の旅行について書いてみます。

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私達は、様々な場所で、美しい旅先の風景を見たりします。

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本やテレビやインターネットの動画や写真、雑誌の中の探訪記とか、友人のアルバムの中の旅先の写真等、例を挙げたらキリがありません。

しかし、不思議なことに、「旅先全ての感覚を、何らかの媒体を使って、味わうことは出来ない」ということに気が付きます。

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例えば、動画や写真は視覚的ですから、かなりの量の旅先の情報を与えてくれます。
しかし、その、動画や写真の情報量といえども、実際の旅先に訪れた時の情報量と比較すると、驚くほど軽微なものであるのに気が付きます。
動画は、音声も含まれているし、数多くの連続写真を見ているのと同じです。
動画の記憶量は大きいのですが、それでも、旅人が旅先で感じた、その土地の全ての雰囲気の量には、はるかに及びません。

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山好きの人が、どこかの美しい山に登山した時のことを例として書いてみます。

全ての山には、それぞれの傾斜があったり、登山道の良し悪しがあります。
険しい道や緩やかな道の感覚を、あるいは、道の上に落ちている一つ一つの石を踏んだ時の感覚も旅の思い出の一つです。

或いは、傾斜の違いによって、汗のかき方も一つ一つ違っています。

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現代科学の手は、山の上にも伸びているかもしれませんから、山に行った時に、どこかの工場の煙を吸い込んだことにより、咳をしたかもしれません。
しかし、山頂に近づく頃には、そのような汚い空気の場所を抜けて、新鮮な空気を吸えるので、肺に健やかなものを感じるかもしれません。

そのような思い出すらも、旅人が旅先で味わう感覚の一つであることに気が付きます。

つまり、山好きの人ならば、その人の内臓である「肺」を使ってまで、旅先の思い出をストックしていることに気が付きます。
また、同様に、傾斜の急な山肌を登った時には、汗までかいていますから、その人の肌すらも、旅先の思い出をストックしていることに気が付きます。

あるいは、山頂付近の石清水を口に含んでみると、たいへん美味しかったので、そのまま、その石清水を飲み過ぎたことにより、ちょっとトイレの件で悩んでしまうとかもあるかもしれません。

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上の旅の例は、山を挙げました。

というのも、登山の旅は、現代の現実の旅行と、かなり違う面もあるので、その違いを感じやすいからです。

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ですから、普通の他の都会への旅も、上と同じように、「身体全身を使う」ことによって、私達は、旅先の全情報を、その体内にストックしていることがわかります。

上の例のように、私達の肺や肌の細胞、あるいは、内臓の細胞までも、旅先の雰囲気を味わい続けていることに気が付きます。

これは、いわゆる、人間の五感を超えてまで、旅先の情報をキャッチ、ストックしていることになります。

もう少しだけ、例を挙げてみます。
高層ビルが多い街か、あるいは、歴史的な景観を保つために、高層ビルの建てられない都市に訪れることもあるでしょう。

すると、高層ビルの多い街だと、日陰を多いことでしょう。
高層ビルの建てられない都市だと、日光を受ける機会が多いことでしょう。

すると、私達の肌、特に顔の肌だと、「ある街に訪れて、日陰が多かった」か、あるいは、「ある街に訪れて、多くの日光を受けた」という違いも出てきます。

このような違いですらも、私達は旅先の記憶として、キャッチ、ストックしていることに気が付きます。

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「肌が日光の量の違いを感じる」というのは、五感の内の一つの「触覚」というものに入るのでしょうか。

しかし、「内臓の受ける感覚」というのは、通常は、五感としては捉えにくいものがあります。

旅に訪れていない、通常の私達でも、日頃から、そのような、五感を超えるようなセンサーを発揮しつつ、生活しているわけですが、とりわけ、旅に出ると、通常とは違うライフ・スタイルに入りますから、そのような五感を超えるようなセンサーを使ってまでの、記憶のストック状態が鮮やかなものとなります。

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上に書いたように、私達は、私達の肉体全ての感覚を使いながら、旅先の雰囲気全てを把握していることになります。

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この量を考えると、ネット上の、どこかの旅先を紹介した動画で現された、旅先の情報というのは、「かなり少なめの情報量と言えるかもしれない」となるでしょう。

確かに、動画で紹介される、旅先の情報量は視覚・聴覚を使ったものですから、比較的、情報量は多いと言えるかもしれません。

しかし、上に書いたように、旅先に訪れた時の私達は、私達の全身を使ってまで、その旅先の全情報を把握しようとしているのであり、その全情報と比較すれば、動画で紹介された旅先の情報量は、かなり少ない、と言えるでしょう。

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確かに、旅先を紹介した動画や写真を見ることは、その旅先に訪れる際の、わずかな契機とはなるでしょう。

しかし、それらの媒体だけを使ってでは、旅先での全雰囲気を捉えることが出来ないことがわかります。

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つまり、やはり、旅の面白さを、本当に味わうためには、現代に発達した様々な情報機器でも無理ですので、「現地に訪れるしか、その方法は無い」ということがわかります。

昔から、旅のエッセイなどで、よく伝えられていることに、「(旅先の情報や雰囲気が)これまで聞いていたのとは、全く違っていた」と、旅人が報告するシーンが多いのですが、その旅人のセリフも、理解できます。

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このブログの中で、時々、SF映画『マトリックス』について紹介することがあります。

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映画『マトリックス』のあらすじは、今回、省略しますが、この『マトリックス』という、コンピューター・システムを、現実に使うことが出来れば、旅先の土地に訪れずとも、「仮想の旅」を行って、おそらく、私達は、その99%ぐらいの旅の実感を得られるかもしれません。

しかし、映画『マトリックス』に現れた、人類支配を実行しているコンピューター・システムを作れるほどの技術を、人々が手にするのは、かなり、遠い未来のことでしょう。

仮に、そのような技術の確立に成功して、ある人に、実際の現実の旅では無く、その現実の旅を、かなり精巧に偽造した「仮想の旅」を、その人に提供できたとしましょう。

本当の旅と比較して、その99%ぐらいが、精巧に偽造されており、ある人々は、その「仮想の旅」を味わいつつ、「これぞ、真の旅」と、錯覚するかもしれません。

しかし、「仮想の旅」は、あくまでも、仮想の旅に過ぎません。
残る1%が、「真の旅」とは違っています。

その、残る1%の不自然さに、人が気付き、「これは、まやかしの旅だ」と、主人公は気付きます。

その結果、主人公は、偽造の旅を捨て去り、真の旅を選ぶようになります。
これが、SF映画『マトリックス』のあらすじでもありますよね。

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話が横に反れ気味になったのですが、要は、旅において、写真や動画で味わう「仮想の旅」と、現実に、現地に訪れた際の「真の旅」に、私達は違いを感じることが多々あります。

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「その違いは、どこから発生しているのか」と、感じてみると、上に書いたように、「身体全体から発せらるる、五感を超える程のセンサー発揮によって、その違いが発生している」とわかります。

旅を行っていない、通常のライフ・スタイルでも、それらのセンサーは発揮されている筈ですが、特に、日頃と違った日々となる、旅先の思い出となると、それらのセンサーの発揮具合の詳細が旅の記憶としてストックされます。

ですから、それらのセンサーは、常日頃の私達でも持っているのだけど、通常のライフ・スタイルだと気が付きにくいものです。
なので、それらのセンサーについて、思いを巡らす事自体が、この記事のタイトルである『身近に潜む不思議』を実感しやすくなるかと思います。


                                       坂本 誠

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