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2017年10月26日 (木)

三千百八十九: 現代の公共放送やルールを考えて

こんばんわ。

昨今、「公共放送の組織と契約するかどうか」という問題が生じているようです。
これに関して、私なりの意見を書いて見ることにします。

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この問題の本質は何なのかと言うと、一つは公共放送の需要性が薄れてきていることにあります。

テレビというものが、始まった頃には、「民放」と呼ばれる民間主体の報道が、ほとんどありませんでした。

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しかし、意外にも、テレビ放送が始まって、まもなく、民放が増えてきました。

ですから、現代だと、テレビを利用している人でも、まったく、公共放送のチャンネルに合わせる人もいないかもしれません。

そのような人から見たら、「なぜ、公共放送と契約を結ばないといけないのか」という自然な疑問が湧くことでしょう。

また、最近では、民間経営のケーブル・テレビとケーブル放送も多々あります。

そのように、ケーブル・テレビとケーブル放送のみしか、テレビを使用していない人々も増えて来ているかもしれません。
そのような人は、確かに、テレビを活用しているのですが、公共放送を全く利用していないケースもあるかもしれません。
そうであるならば、「どうして、公共放送と契約を結ばないといけないのか」という自然な疑問が湧くことでしょう。

ですから、これは人々の間で、公共放送の需要性が徐々に薄れてきていることを意味しています。

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この問題を、さらに深く考えてみましょう。

私達の間で、通用しているとされているルールには、「テレビを所有する人は、公共放送と契約を結びなさい」というものがあるようです。

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このルールが制定された背景を考えていくと、さらに問題の本質追求が出来ます。

このルールが制定された当初、このルールを作った人の意向と言うのは、

  「我が国では、未来永劫に渡って、テレビ放送がなされる間、全ての人々が、半永久的に、公共放送を重視して、公共放送を見続けるに違いない」

という、強い思い込みが発生していたことに気が付くでしょう。

実際には、多々、民間放送局が出現し続けたことにより、多くの人々が、「半永久的に、公共放送を重視して、公共放送を見続ける」ことは無かったことがわかります。

現代では、民間放送局や民間のケーブルテレビや、その他諸々の放送媒体とも言えるものが出現したので、この国の大多数の人々が、半永久的に、公共放送を重視し、公共放送を毎日のように、必ず、チャンネルを合わせ続ける、ということも無くなってきているでしょう。

私だって、公共放送を見る日は、ほとんど無くなってきているからです。

ですから、上に書いた

  「我が国では、未来永劫に渡って、テレビ放送がなされる間、全ての人々が、半永久的に、公共放送を重視して、公共放送を見続けるに違いない」

という思い込みや、この状態想定は間違っていたわけです。

だから、いつの日にかは、全ての人々がテレビを全く見なくなる日だって、訪れるかもしれません。

ですから、上記のルールを作った人が、無理矢理、法律化までさせたことが、間違いであり、これが問題の発端だったと私は考えます。

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つまり、この手の問題はルールの問題でもあることに私達は気が付きます。

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ですから、ルールというものを、今少し、詳しく考えてみましょう。

「ルール」というものは、その地域に暮らす人々が、実際に生活するに当たり、多くの人々の間で、「このようなルールが私達の間で必要だ」と感じることから始まります。

つまり、「ルール」よりも大事なものとは、そのルールを定めるに当たっての、理由や必要性の方が、当のルールよりも重要なことがわかります。

ですから、ある一定の期間を過ぎた後で、人々の暮らしぶりが変わると、そのルールを作り、使っていたところの理由や必要性が無くなります。

簡単でわかりやすい例を挙げておきます。

「武士は帯刀しなくてはいけない」とか「武士は道路の上を左側通行しなくてはいけない」が挙げられるでしょう。

まず、「武士は帯刀しなくてはいけない」というルールですが、これはおわかりのように、現代は武士がいませんから、そもそも人が帯刀する必要性はありません。

そして、「武士は道路の上を左側通行しなくてはいけない」というルールですが、これは、武士でも右利きの人が多かったので、日本刀を抜きやすいように、多くの武士は腰の左側に帯刀していました。
この状態で、道の上を右側通行すると、武士同士の右側が触れる可能性があり、日本刀が触れ合うことがあります。
ですから、まかり間違ったら、ケンカとなり、そのまま日本刀を抜いて、争いが起きるかもしれません。
ですから、「武士は道路の上を左側通行しなくてはいけない」というルールがありました。
しかし、現代だと、「私は武士だ」と自らを武士だと自認する人は、いないでしょうから、このルールも、もはや存在していません。

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このように、他のルールも、時代が変わり環境が変われば、そのルールを定めたゆえんの理由が消えたり、そのルールを支えるだけの理由や必要性が消失することがわかります。

つまり、その社会で暮らす人々の間で、社会生活を営む上での、共通の理由や需要の方が、ルールを超えて、重要なことがわかります。

人々の間で、社会生活を営む上での、共通の理由や需要があったからこそ、始めて、その、共通の理由や需要に沿った、ルールが作成されたのですから。

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多くの人々の間で、決められていたルールといえども、その多くの人々が、そのルールを支えているだけの理由や需要を感じなくなり始めると、そのルールには意味が無くなり始め、やがて、そのルールは消失していきます。

ですから、私達の社会生活の間では、「ルールこそが絶対だ」とか「ルールこそ先にありき」と考えるのは、これは間違っていることに気が付きます。

上に書いたように、ルールを支え、そのルールが作成された理由や需要性の方が重要だとわかるので。

もし、現代でも、多くの人々が、「公共放送は重要であり、毎日のようにチャンネルを公共放送に合わせる」のように、多くの人々が公共放送に対して、強い需要性を感じていたり、強い必要性を感じていれば、件の問題は発生していなかったことでしょう。

どうして、この問題が発生しているかというと、これは、その出来事を抱えている人々にとって、「公共放送に重要性を感じない」と感じているからです。

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もし、それらの人々が、「現代でも公共放送に強い需要性や強い必要性を感じる」となっていれば、そのような問題は発生していないからです。

つまり、このように、「公共放送に重要性を感じない」という人々が、確実に存在していることがわかります。

ですから、公共放送の側が、「現代でも、多くの人々が公共放送に重要性を感じている」と、主張するには無理があるとわかります。

なぜならば、本当に、公共放送が重要ならば、まず、「公共放送に重要性を感じない」という人々に対して、充分に改心させるだけの納得・得心できるだけの内容を、未然に与えている筈だからです。

その、改心させるだけの内容を、その人々に与えていないからこそ、その人々は、「公共放送に重要性を感じない」と主張しているのでしょうから。

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現代に暮らしている、私達の周囲に存在している、他の数多くのルールにしても、同じ視点で見ることが出来ます。

「あれほど大量のルールが、私達に必要だろうか?」という疑問が湧くでしょう。

これは、私の以前の過去記事にも書いているのですが、私達の社会に通用・使用しているとされているルールブックが書店にも置かれています。

その、ルールブックのかなりの厚みも知られていますが、その、ルールブックの厚みが、年々増加していることも知られています。

ですから、人は、やがて次のように感じ始めることでしょう。

  「この、ルールブックの厚さが、富士山の高さを超えたり、あるいは、エベレスト山の高さを超えるのは、いつの日になるだろうか? そして、そのような状態は、私達の暮らしぶりに、何かの意味があるだろうか?」

と。

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ルールを考えていますから、ついでながら、憲法の事についても加えておきます。

現代の憲法というものは、日本国憲法に先立つに当たり、大日本帝国憲法というものが、明治時代に制定されました。

この大日本帝国憲法というものを、時の明治政府が制定した理由というのは、紹介してみます。
当時、ヨーロッパ諸国が強大な権力をふるっており、世界中に進出(侵略)して、世界各国を植民地化していました。

そして、そのヨーロッパ諸国を見てみると、各国の間では、憲法という名のルールが制定されています。

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その国民共通のルールを定めていることにより、その国の内部の人々が一致団結して、一つの目的を達成しようとしているように見えました。
ですから、時の明治政府の人間達としては、「我が国にも、憲法というものを定めて(輸入して)、多くの人々を一致団結させれば、我が国も強力になり、ヨーロッパ諸国の進出を防ぎ、あるいは、我が国もヨーロッパ諸国のように強烈な国家となるに違いない」というものでした。

要は、「欧州を見習え」ということでした。

ですから、この憲法制定の理由を考えるに、私達の間でも、「憲法というルールも、私達にとっては必要ないかもしれない」と考える人が出て来ても不思議ではないでしょう。

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上にも書いているのですが、ルール絡みの問題を考える時には、ルールばかりを持ち出して考慮するのではなく、そのルールが定められたゆえんである、ルール作成の理由や必要性を捉えて、考えることが重要です。

なぜならば、そのルールが定められた理由こそが、そのルールそのものの実体ですので。

何らかのルールが定められた、その理由や必要性こそが、そのルールを超えて重要なものだと、私達にわかりますので。

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ですから、ある人々にとっては、憲法というルールですらも絶対的なものではなく、多くの人々を拘束できるようなものでは無い、と、わかり始めることでしょう。


                                       坂本 誠

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