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2017年8月 6日 (日)

三千百五十八: 土偶からわかる縄文時代の生活

こんばんわ。

最近、書店に立ち寄ってみると、縄文時代に作られた土偶(どぐう)に関する書籍を見かけます。

日本の縄文時代には、様々なヴァリエーションのある、数多くの土偶が作られました。
縄文時代の遺跡が発掘されると、当然、縄文式土器とか土偶なども発見されます。

この段落は、その土偶に関する記事です。

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縄文時代には、日本には文字がありませんでした。
ですので、縄文時代は先史時代とされています。

また、縄文時代の後に、大陸から稲作が導入されたので、縄文時代には、日本には稲作が存在していませんでした。
現代の日本人の主食は、米とされていますが、米が主食では無い時代もあったのです。

文字も無かった頃の日本の生活ですが、その時代の遺産、つまり、縄文時代の遺跡が発掘されることにより、その時代の様相が現代によみがえります。

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最近、書店の棚の上には、この縄文時代の土偶の写真を集めた本が並んでいます。

その本を開いてみると、様々な姿形をした土偶を見れます。

この記事では、百科事典のWikipediaから、幾つかの土偶の写真を引用しました。

写真の引用先のURLは、以下のものです。

土偶 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%81%B6

写真の土偶を見てもわかるように、実に、様々な土偶があるとわかります。

Dogu_1

 

「芸術的な要素が強い」ともわかるでしょう。

「これらの土偶は宗教的な意味があって、作られたのではないのか」という説もあります。
確かに、宗教的な意味合いがあって、縄文時代には大量の土偶が作られたのかもしれません。

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しかし、縄文時代には、まだ、日本には「国(くに)」という概念に相当する、団体も無かったことを思い出して下さい。
当然、「国(くに)」という組織も無いぐらいですから、現代の宗教団体のような、組織化された、組織的な宗教団体は、ほぼ無かったことでしょう。

ですから、宗教的な意味合いを持って、数多くの土偶が制作されたとは考えにくいと思います。

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それに、数多くの土偶を見てもわかるように、かなり数多くの製作者がいたことがわかります。

ですので、土偶というのは、縄文時代の人々のアートだったと私は考えます。
現代に、アートの好きな方々ならば、主に、キャンバスと絵筆を使って、絵画的な表現をするでしょうか。

しかし、縄文時代には、そのようなキャンバスも無いし、絵筆もありません。

ですから、縄文時代のアート表現とか、アート表現の媒介物とされるのは、主に、土をこねて、火で焼いた、このような土偶だったのではないでしょうか。

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また、「大量の土偶が発見される」というのは、「土偶の大量の製作者が存在した」ということを意味しています。

Dogu_2

 

「稲作や農業も存在しない、縄文時代に、大量の縄文人が、大量の土偶を制作した」という事実を考えると、比較的に、縄文時代には食料も安易に入手できて、時間の余裕があったので、人々が自己の余暇の自己表現として、アートであるところの、土偶制作にいそしんだのではないでしょうか。

小規模な人々の団体の中では、まだ目立ったような社会組織も無いので、「組織的な目的の下に、土偶が制作されていた」とは、考えにくいケースです。

ですから、「土偶制作アート説」を私は考えます。

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また、「土偶制作アート説」が言えるのには、まだ理由があります。

縄文時代の、数多くの土偶を見てもわかるように、それらの土偶の表現は、非常に芸術的に見えるでしょう。

20世紀最大の画家とされている、パブロ・ピカソは、アフリカに渡った時に、現地の人々の制作したお面(マスク)に注目しました。

そして、そのアフリカのお面に原始的な美術を発見して、それらの美術的な表現を、ピカソ風に表現しました。
そのピカソ風の表現が、『アヴィニョンの娘』から見られるような作風、あの顔の形の崩れたような表現のされた絵で有名な表現が、なされるようになったのです。

ですから、もし、パブロ・ピカソがアフリカで現地住民制作のお面を見ずに、日本にやって来て、縄文時代の土偶を彼が手にしても、彼は、やはり、そこに原始の美を発見して、土偶表現から、『アヴィニョンの娘』から見られるような作風の絵画を描き始めたのではないでしょうか。

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縄文時代の土偶を、パブロ・ピカソ風の表現から眺めてみると、縄文時代の土偶は、パブロ・ピカソの数多くの絵画と、非常に良く似ているのに気が付きます。

『アヴィニョンの娘』から、ピカソは、顔の崩れたような表現のなされた絵画を数多く描きます。

「顔の崩れたような表現」というのは、美術の世界で言えば、「デフォルメ」と呼ばれる表現です。

「目に見える実態を、一定の割合で変形させる」という手法が、「デフォルメ」と呼ばれる表現です。

この「デフォルメ」と呼ばれる表現は、知らず知らずの内に、漫画家の方々が行っています。

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縄文時代の人々の骨格も、ほぼ、現代の日本人と変化していないことが知られています。

つまり、現代の日本人の顔つきと、縄文人の顔つきは良く似ています。

Dogu_3

 

ですから、単に、土偶を制作し、その土偶に何かの芸術的な表現を加えたくなければ(デフォルメしたくなければ)、現代に残る、数多くの土偶の顔は、現代にも見られるような日本人の顔つきばかりだったでしょう。

しかし、現実に発見される、その土偶は、数多くが、現代風の美術表現で言えば、デフォルメされています。

つまり、このような、自由な表現が、多くの土偶の制作者達に許されていたのです。

また、それを制限するような、社会の雰囲気が無かったことがわかります。

土偶に見られるような、数々の個性的な表現を受け入れるだけの、柔軟な精神を、多くの人々が持っていたことがわかります。
土偶の見られる、デフォルメのような表現を行っても、多くの人々は批判しなかったのでしょう。

ですから、私は「土偶制作アート説」を唱えることが出来るのです。

これほど、大量のアート表現や、製作者の自由な表現が許される社会というのは、つまり、平和で自由な社会が確立されていて、その上に、ある程度、食糧確保の面でも、豊かなものがあったと推測します。

そして、日々の食糧確保の時間が終了すれば、余った時間が出来るので、多くの縄文人達は、自分達のアートとして、土偶作りにいそしんだのではないでしょうか。

その結果、あれだけ、多くの土偶が発見されるのではないでしょうか。

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平和で自由な生活を支える上で、一番、重要な事は食糧事情でしょう。

ですので、私なりに、縄文時代の食料事情を考えてみます。

縄文時代の日本には原野が広がっていましたから、現代よりも、遥かに、大量の桃の木とか栗の木が生えていたことでしょう。

その、豊富な桃の木とか栗の木が、縄文人達の食生活を支えていたのではないでしょうか。

現代の日本で、郊外に出かけると、広大な田んぼが広がっているところもあります。

「田んぼ」というのは、つまり、稲作ですから、弥生時代以降の産物です。

私達でも、広大な田んぼを見かけることがありますが、実を言うと、これは、全て、弥生時代以降の、人工の産物なのです。

この、日本の広大な田んぼが開墾される以前は、全て、日本の原野だったことがわかります。

ですから、縄文時代以前の日本の桃の木とか栗の木の総本数と、弥生時代以降のそれらの総本数は、相当の違いがあることがわかります。

もちろん、カメラの発明されていない時代なので、開墾される前の日本の原野の風景と、開墾されて、田畑となってしまった日本の土地の風景の違いを、はっきりと掴むことは出来ません。

しかし、現代に広がる、日本の田んぼの代わりには、原野が広がり、その原野には、大量の桃の木とか栗の木とか、食用に値する木の実がなっていたことは確かですから、それらを食することにより、ある程度、縄文人達は、暮らしが豊かと言えるレベルだったのではないでしょうか。

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ちょっとだけ脱線するのですが、弥生時代に入って、日本人の主食が米になってきました。

この米は、栄養価も高いし、保存も効きます。

Dogu_4

 

ですので、日本人の主食が米となってきたのでしょう。

私は、米が嫌いでは無く、むしろ、好きな方ですが、この稲作の結果より、日本が大戦争の時代に突入しました。
隣村とかが、米を略奪しに来るので、「環濠集落(かんごうしゅうらく)」と言って、村の周りを策で囲いました。
そして、攻めてきた隣の村の人々を倒すために、武具も発達しました。
「環濠集落」に見られるように、この弥生時代から、「土地の所有」という意識が人々の間に芽生え、かつ、その他の所有の意識も、この時代から始まったでしょう。
そして、隣の村との戦争もありますから、戦争をするために、次第に、コミュニティの中に階層が生まれ、「王」と呼ばれる階層も生まれ、「権力」という考えも生まれ、要するに、この時代から、現代にまで続いている、巨大ピラミッド型の社会が形成されるようになりました。

つまり、現代まで続く、社会システムの、ほとんどの基礎・基盤が、この弥生時代に生まれ、今にまで続いているのです。

学校の歴史の時間にも、様々な歴史区分が教えられます。
例えば、江戸時代とか、室町時代とか、奈良時代とか。

これらの時代区分の判別する材料の、その多くは、時の為政者の移り変わりです。

しかし、この縄文時代と弥生時代の区別は、違っており、かつ、変化レベルも、かなり大きなものです。

縄文時代と弥生時代の区別の、大きなものは、稲作の導入です。

つまり、食べ物の変化です。

「食べ物の変化」つまり、稲作と「主食を米とする」というのは、その地域社会の全ての人に、その変更が適用されたのです。

これは、江戸時代とか、室町時代とか、奈良時代のような為政者の交代とは完全に違っています。

「為政者の交代」というのは、言ってみれば、日本のごく少数の人々の変更となりますが、「日本人全体の主食の変化」となると、「日本人全体の変更」となりますので、その変化のレベルは、前者の変化と比較しても、遥かに大きなスケールであるとわかるからです。

縄文時代から弥生時代への変化は、日本全体の全ての人々のライフ・スタイルを変化させたのです。
その変化の結果は、縄文時代に存在していた社会システムから、弥生時代以降、今に続いている社会システムへの、更なる変化となりました。

食べ物の変化だけとは限りませんが、「全ての人に対する変化」というのは、それまでに続いた社会システムを一変させてしまうことがわかります。

ですから、何千年も経ったら、江戸時代とか、室町時代とか、奈良時代の時代区分は消えて、一つの時代にまとめられているかもしれません。

しかし、その何千年も経った後の、歴史書を開いても、この縄文時代と弥生時代の区別は残存していると思います。

それほど、社会システム上の、大きな変化だったと言えるでしょう。

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少しだけ、話題が脱線したのですが、弥生時代に入ってから、栄養価が高く、保存の効く米に、日本人の主食が置き換えられていったわけですが、それ以前の縄文時代でも、ある程度は、食糧事情が豊かだったと私は考えています。

「土偶制作」という、アートを表現でき、かつ、それを実行できる人が多かったわけですから。

多くの社会的拘束も無く、所有の概念も無い時代に、土偶に見られるような、あれほど、個性の豊かさを表現できた、というのは、人々の暮らしが、それほど、暗澹としたものでは無かったことを意味していると思います。

ましてや、縄文時代には、日本国内には「戦(いくさ)」と言える程の戦争が、全く無かったわけですから、その平和さぶりをも想像できることでしょう(コミュニティ・レベルでの、小規模な「小競り合い」程度は、あったかもしれません)。

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この段落のように、様々な大量の土偶を見て、過去の縄文時代の様相を訂正したり、あるいは、新しい見方を得られると思います。

あるいは、そのような過去の状況を知ることにより、現代の私達のライフ・スタイルを、新鮮な目で、あるいは、従来には無かったような視点から、見直すことが出来ると思います。

例えば、

  「そのような幸せそうな、縄文時代のライフ・スタイルを見て、現代のライフ・スタイルのどこかに取り入れられないだろうか」

というような疑問が湧くことが、「見直し」ということです。


                                       坂本 誠

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