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2017年6月23日 (金)

三千百三十四: 教育困難校の問題を考えて(独白)

自分のブログのカテゴリーの中で『学び・教育』に関するものは、以前までは、あまり書かなかった。

しかし、いざ、書いてみると、「2段目」「3段目」という感じで続編が出てくる。

『学び・教育』に関係する、一つの単語を連ねてみると、その単語から、何か、他の連想が出来る。

その連想も、『学び・教育』に関係するのだから、カテゴリーの『学び・教育』に関する記事が増えてくるのに気が付く。

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例えば、『三千百三十一: 学校の宿題について』で、3パターンの先生について以下のように書いている。

P6210182

 

「その、数多くの学校の先生の中には、本当に、子供達と一緒にいることを幸福に感じている先生方もおられることでしょう。また、ある学校の先生だと、単に、自分の生活の糧のための道具だと見なしているかもしれません。また、他の、ある学校の先生だと、何らかの強い使命感に駆られている方もおられるかもしれません。」

上記の自分の文章から、昨今の教育現場の先生について自然に考えていた。

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報道で流れていたのだけど、現在の教育現場には「教育困難校」と呼ばれる学校があるそうだ。

その手の学校は、現在、日本には多いらしい。

「教育困難校」の概略を以下に書いてみる。
その学校の生徒達は、現在の日本の教育体制に反対しているらしい。
ただし、そのような学校が義務教育の下にあるのか、それとも、義務教育で無い高校以上の教育システムなのかは、その記事では報道されていなかったと記憶している。

(もっとも、私は、その記事を斜め読みしただけであり、いつものように、その記事をコピーして、それらの記事をペーストして、一つに集めている、自分用のファイルに収めたわけでは無かったので、今回は、その記事を直接引用していない。)

「教育困難校」の生徒達は、現在の日本の教育システムに反対しているらしいので、当然、その反対行動が、教壇に立っている教師達に向けられている。

その結果、はた目から見ると、生徒達による教師いじめとも呼べる現象が起きているらしい。
その教師いじめの被害の結果、そのターゲットとされた教師達が、「明日にも辞表を出そうか」と、悩んでいるシーンが報道されていた。

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現在の教育システムの根幹の問題が現れていると私は考える。

P6210183

 

報道から考えるに、「教育困難校」と「教育困難校ではない学校」の2種類があることがわかる。

様々な理由があるのだろうけれど、「教育困難校」の生徒達にとっては、現在の教育システムに対する需要が無いことがわかる。

「教育困難校ではない学校」の生徒達は、大人しく先生の行っている授業内容を受け取っていることがわかる。

だから、これも様々な理由があるのだろうけれど、少なくとも、「教育困難校ではない学校」の生徒達にとっては、現在の教育システムに対しての、何らかの需要があることがわかる。

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昨今の私のブログ記事を読み返しても、わかるのだけど、義務教育に問題があると思う。

義務教育とは、言い換えてみると、強制教育となる。

学校の授業内容を受け取りたい人々(生徒達)も、いるだろうけれど、その内容を受け取りたくない人々がいても不思議では無いからだ。

「どうして、学校の授業内容を受け取りたくないのか?」という疑問については、数多くの人々(生徒達)がいるので、理由も様々だろうから、一つ一つ挙げにくい。
しかし、この記事が長くならなければ、少しだけ考慮して、幾つかを挙げてみたい。
あるいは、段落を変えて、書いてみるかもしれない。

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以前から書いているように、江戸時代までは、日本には現在に見られる義務教育制度が存在しなかった。

P6210194

 

教育機関とか教育システムと呼ばれているものは、その時代では、寺子屋とか藩校(はんこう)と呼ばれるものだった。
あるいは、私的な教育機関は塾と呼ばれた。

もちろん、それらの教育機関に訪れて、その門をくぐるかどうかは、人々(生徒達)の自由だった。

学びたくない人がいれば、それらの教育機関に入らなければ良い。
つまり、人々(生徒達)には、本当の意味での学問の自由が許されていた。

学問を学びたい人は学べば良いし、学びたくなければ、何も学ばなくても良い。

だから、江戸時代以前の教育システムだと、それらの教育機関の内部には、冒頭に挙げた「教育困難校内部の問題」というのは、一切、存在しなかったことだろう。

もし、仮に、それらの教育機関の内部の門下生達が、自分の学んでいる教育機関に不満があれば、辞めれば良いのだし、あるいは、最初から、そのような教育機関の門をくぐっていなかっただろう。

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だから、昨今から続いている、私のブログのカテゴリーでの『学び・教育』のジャンルを読み返してもわかるのだけど、現代社会でも、実質上、義務教育というのは、存在していないと考える。

なぜならば、義務教育というのは、言い換えれば、強制教育であり、全ての生徒達に一定の学問知識を付けさせようとしているものである。

全ての人々が、学校教育の内容を好きになるだろうか?(いや、ならないだろう)

日本には、現在でも1億人以上の人がいる。
その、1億人以上の日本人の全てが全て、学校で教えている教育内容物を好きになるだろうか?(いや、ならないだろう)

むしろ、それを期待する方が無理な話だろう。

結局、学校で教えている内容物が嫌いに感じる人々も多く出てくる事だろう。
そして、その結果、それらの人々にとっては、現在の教育システムに対する需要が無いことがわかる。

しかし、それにもかかわらず、「これは義務教育だから」と言って、無理矢理に教壇上の先生が、それらの需要を持たない人々(生徒達)に、無理矢理、学を授けようとしているので、それらの人々は、その学を拒否しようとしているのだろう。

それらの人々にとって、「現代教育に対する需要は無い」となった理由については、様々な人々がいるので、個々の理由までは、個別に考慮してまで、この段落では挙げにくいのだけど。

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つまり、大まかに考えると、現在に見られる「教育困難校の問題」というのは、日本人全員に出された義務教育を命ずる、あのルール(憲法)が発端となっていることがわかる。

P6210174

 

いくら、ルールを持ち出してまで、多くの人々の身体とか行動を縛ったとしても、その人々の本心までを拘束することは出来ない。

これは、どんなルールや規則でさえも、そうなのだ。

あらゆる、ルール、規則、法律、憲法、その他の何かの規則にしても、多くの人々の身体とか行動を縛ることは出来るかもしれないけれど、人の本心までを拘束することは出来ないのだ。
絶対に。

いかにも、義務教育の下だと、その教育困難校の人々にまでも学を授けないといけないように見える。
しかし、彼等の本心までも、義務教育という名の規則で拘束することは出来ない。
だから、その、彼等の本心が、教壇上の教師達が伝えようとしている学の内容を拒否していることがわかる。

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見かけ上は、義務教育制度の結果、全ての人々(生徒達)に、学を教え込むことが出来るかもしれない。

しかし、実質上である、生徒達の本心を見るに、教壇上の教師達の供給と、それを受ける筈の生徒達の需要が無いことがわかる。

つまり、これは、人の本心の上では、供給の精神と需要の精神がマッチしていないことがわかる。

供給と需要の問題と言うのは、ここで挙げている教育困難校の現場では無くても良い。
供給の精神と需要の精神がマッチしていない場所だと、何らかの供給物を持って来ようとしても、現地の人々がそれを欲しなければ、「そんなものは要らないから、持って来ないでくれ」となり、トラブルが起きる。
それと同じ話だ。

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結局、この手のトラブルを、教師の側が避けようとするならば、需要のある場所に行って、自分の提供したい物を提供すれば、トラブルを回避できることがわかる。

この手の需要のある場所を考えると、当然、「この手の勉強を面白いと思うので、学んでみたいと思います」と言っている生徒達が多くいる場所に行って、供給物の頒布を行えば良いことがわかる。

なぜならば、そのような場所だと、需要と供給がマッチしているのだから。

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結局、教師の側の本心や生徒側の本心までも考えると、現代の教育システムも、江戸時代以前の教育システムと同じ事だとわかる。

P6210196

 

確かに、見かけ上は、義務教育制度の導入によって、全ての日本人に一定の教育知識を授けられるようになったように見える。

しかし、それを受け取る側の人々(生徒達)の本心までは、どんなルールを持って来ても拘束できないのだから、人々(生徒達)の本心の現れるままに、学を授けようとしている側は、その学問知識を拒否するのである。

これが、現代の「教育困難校の問題の原因の一つ」と言えるだろう(他にも幾つかのパターンが、どうしても絡んでくるので、ここでは「教育困難校の問題の原因の一つ」という表現をしておいた方が良い)。

しかし、教育困難校ではない生徒達ならば、教師達の授けようとしている学問知識を受け取ろうとしていることがわかる。

だから、明治時代に入って、見かけ上は義務教育制度の導入をされたけど、実質上は、現代でも、江戸時代と同じ教育システムの下に、多くの人々は留まっていると言えるだろう。

だから、実質上で考えれば、現代の教育制度の下での、教師達の要員数の需要が低くなることがわかる。
(ある人にとっては残念で、悲しく感じることかも知れないけれど。)

実質上の、つまり、人々の本心から判断された、需要のある、教師達の実際の要員数というのは、私はわからない。

これは、ひとえに、「日本人の何人が、現代の日本の教育制度・システム・機関を気に入っているか?」という問題となるのだから。

この手のアンケートが実施され、そして、その結果が公表されたかどうかを、私は知らないのだから。

だから、実質上の、現代の教育制度の下での、教師達の要員数の正確な需要具合を、私はわからない。

(仮に、この手のアンケートが実施されても、公表の際に、アンケート結果を故意に操作され、その結果を公表される可能性もあるのだから、あまり、そのアンケート結果も信用できないかと感じられる。)

結局、日本の教育制度は、現在、多くの日本人に愛されていないかと、私は思う。

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以下のように言ってくる人もいるかもしれない。

  「そんなこと言ったって、義務教育制度は、決まり(ルール)だから、考えても仕方ないんですよ」

と。

「決まりだから、仕方ない」と言う人は、ある意味、思考をストップさせやすい。

P6210193

 

なぜならば、「決まり」というのは盤石に固められたものでは無いのだから。

何らかの決まり(ルール)というのは、人の間で設定されたものだけど、その決まりをセットした段階で、人々の間で、その決まりを作り上げる必要があったから、その決まりが作られた。

つまり、「決まり」よりも大事なポイントは、その決まりを作った人々の間での、その決まりを作るだけの何らかの理由の方だった、とわかる。

人々の社会は常に流動的であり、ある一定の年数が経てば、その社会の中で、その決まりを支えていただけの理由が消失する時がやって来る。

つまり、その決まりを支えている理由が消失すれば、その決まりには意味が無くなる。
だから、その決まりをも撤廃する必要が出てくる。

つまり、「決まり(ルール)」よりも大事なのは、その決まりを生み出して、かつ、支えている「理由」だということが私達にわかる。

ある決まりを作ったり、撤廃する際には、その決まりを支えている「理由」が妥当かどうかを論じることこそが、決まりを超えて、本当に大事な事だとわかる。

だから、「決まりだから、仕方ない」と言う人は、ある意味、思考をストップさせやすい。
その決まりが必要だっただけの「理由」に踏み込んでまでの、議論を避けようとするのだから。

P6210195

 

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上の事もふまえつつ、義務教育制度が現代の私達の本心から見て、本当に必要かどうかを議論した方が良いと思う。

「現代のような義務教育制度が必要だった」という理由を考えてみても、以前の段落『三千百二十七:学校のいじめ問題を考えて』で同様の事を書いたのだけど、「世界各国の学校を対象として、同一のテストを実施しているので、これらの競争を実施している、世界各国を仮想敵国と見なして、それらの競争に勝っていきましょう」というものではないだろうか。

この段落では、書き込めなかったのだけど、「勉強が好きだ」と主張している生徒の側にしても、「将来の自分の仕事のため(自分の金のため)にやっているのであって、本心では、あまり勉強を好きでない」と、考えている人も多いかもしれない。
これについての考察等は、機会があれば他の段落で書いてみたい。


(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『三千百三十三: 学校の宿題について_No.2』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2017/06/_no2-4ff2.html

『三千百三十一:学校の宿題について』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2017/06/post-0afd.html

『三千百二十七:学校のいじめ問題を考えて』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2017/06/post-9943.html


                                       坂本 誠

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