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2017年6月14日 (水)

三千百二十八: 人のブレーキとアクセルについて(独白)

いつも、やっていることを、やろうとしても、どうも、うまく進められない時が誰にでも訪れる。

やろうと思えば、アクセルを踏んで、実行することが出来る。

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しかし、そのような時に、無理にアクセルを踏んで、自分のやりたかった事をやれば、出来上がったものが粗雑になっている場合が多い。
あるいは、駄作と呼べる結果になっていたりする。

こんな時は、アクセルを踏まないようにしている。

もちろん、アクセルを踏もうと思えば、幾らでも踏めるのだ。

そんな時は、何らかの小さな阻害点が、邪魔をしている事に気が付く。

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後になって、振り返って気づくに、心の中の感情の問題であった事が多い。

自分の意識にも上って来なかった、小さな感情的な問題が、無意識下に潜んでいて、その感情的な問題がブレーキをかけていたことが多い。

もちろん、その自分の「感情的な問題」というのは、無意識下にあるので、普通はその感情を把握できない。

目覚めている意識としては、その感情をうまくキャッチできないので、「何か変だ。どこか変だ。何かが自分にブレーキをかけている。しかし、何が変なのかは、何がブレーキなのかは説明しにくい」と、意識の方は考えている。

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いくばくか時間が経って、その無意識下に潜んでいた、自分の感情の問題が、意識の方に昇って来るので、人は、自分の感情の問題を、上手に言語化出来る時もある(もちろん、出来ない時もある)。

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そのように、自分に何かの変なブレーキがかけられている時は、無理に自分のアクセルを踏まない方が良いように感じてしまう。

別の何かをした方が良いように感じてしまう。

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例えば、静かな環境で、瞑想状態になって、自分の心の中をしっかりと覗いてみる。

あれやこれやと、自らの心の内部を静かに子細に点検していく内に、無意識下に潜んでいる感情的な問題を、上手に言語化出来て、問題が解決するかもしれない。

(「自らの心の内部を静かに子細に点検していく」という作業は、仏教用語では内観(ないかん)と呼ばれている。)

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また、例えば、ひたすら絵を見たり、ひたすら音楽を聞いてみるのも良いかもしれない。

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何かの絵を見ていくと、「この絵の、この部分を好きに感じる」と、普段では、味わえなかった感想を手に入れられるかもしれない。
そこから、自分や他者にとっての、何かの非常に有意義な発見があるかもしれない。

音楽にしても同じで、「この音楽の、このフレーズが、とても良いように感じる」と、普段では、味わえなかった感想を手に、、、(後は同じである)。

そのような作業は、日々の自分の主題とはかけ離れていても、一つの有意義な事と言えただろうから、人生を彩るためには、重要な日常の一コマだったのかもしれない。

(ひょっとすると、「日々の主題から離れて、広い視野を手に入れるために、実は、あなたにブレーキをかけていたのだ」という無意識下に潜んでいる自分の感情が言ってくるかもしれない。すると、その時に、無意識下に潜んでいる感情的な問題を言語化出来たので、その人がその感情的な問題を正確に把握できたことになる。)

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また、例えば、いつもの自分の作業空間から飛び出て、余計な事を全く考えることの出来ない程の激しいスポーツをしてみるとか。

あるいは、また、余計な事を全く考えることの出来ない程の競技をしてみるとか。

テニス、サッカー、卓球等の球技だと、プレイヤーは、それ以外の事を考えることは、ほぼ出来ない。

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もちろん、激しく移動するボールを追いかけるのだから、「ボールを追いかける」以外の事を考えたり、実行していたら、そのプレイヤーは負ける。

将棋とかチェス等の競技を行っても同様だ。

それらの球技や競技に熱中した後で、日々の自分の主題に返ってみると、別の側面から、日々の自分の主題を見直せる機会も多い。

球技や競技を例に挙げたけど、もちろん、その人の熱中できるものならば、何でも良いことになる。

上に挙げたことは、一種のラジオ体操とか柔軟体操と言えるだろう。

私達は、日々に同じ個所の肉体を使い続ければ、その部分の肉体は鍛えられるのだけど、その他の肉体部分は衰えてしまうことが知られている。

それを防ぐために、ラジオ体操とか柔軟体操がある。
ラジオ体操や柔軟体操は、全身をくまなく動かすので、身体全体に潤滑油を入れていることになる。

そのラジオ体操や柔軟体操を身体全体の潤滑油として見なせるように、私達の日々の行動においても、「行動全体の潤滑油」が必要とされているのかもしれない。

だから、「行動全体の潤滑油」を必要とするために、日々の自分の主題から離れて、何か他の行動が求められているのかもしれない。

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だから、日々の自分の主題の上で、「何か自分にブレーキがかけられているようだ」と感じた時に、上に書いたように、内観をしてみたり、芸術に打ち込んでみたり、スポーツや競技に熱中したり、あるいは、その他の何かの熱中できることに、ひたすら興じた後で、日々の自分の主題に対して、自分なりの新たな視点を入手しているかもしれない。

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そうなってくると、それらの「自分の日々の主題から離れたことの実行」も、遠回りだったのだが、やはり、それらも、「自分の日々の主題の行動の一つだった」ということになる。

だから、「自分にかけられていたブレーキのようなもの」も、見方を180度変えてみると、「実は、自分にとってのアクセルだった」ということになる。

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だから、私達の人生とは、うまく出来ているのかもしれない。

一見して感じるに、「私達の人生には、数多くのブレーキがかけられているようだ」と、普段、私達は思いがちかもしれない。

しかし、上に書いたように別の視点から、それらのブレーキを全て、アクセルとして見なすと、、、ひょっとしたら、私達の人生とは、うまく出来ているのかもしれない。
少しばかりの苦笑を顔の上に浮かべつつも。


                                       坂本 誠

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