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2017年3月30日 (木)

三千百: 私達の本来の政治システムである「直接民主制」について

■:はじめに

この記事は長くなりましたので、読みやすいように章立てしています。

■:古来から続く政治システムを見て

私の記憶する限り、世界の様々な「政治家」と呼ばれる人々の汚職の報道というのは、古来より絶えないようです。

現在のテレビや新聞を見ても、世界各国の政治家と呼ばれる人々の汚職騒動が少なからず、あっているようです。

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それらの汚職騒ぎが、本当の事なのか、それとも、虚偽の事なのかはわかりません。
きっと、様々なケースがあるでしょう。
捏造されたものもあるでしょう。

しかし、「政治家の汚職騒ぎ」というのが、いつから発生しているかわからないぐらい昔から、起こっていることに多くの人は気が付くでしょう。

それらを見ていて、以下のように考える人も増えて来るのではないでしょうか。

  「私達の政治システムが変わらない限り、古来より続いている様々な政治家達の汚職騒ぎが無くなることはないだろう」

と。

ふっと思い出してみても、どんな人の記憶にも残っていると思うのですが、様々な政治家の汚職がありました。

そして、それらに関係する政党とか、それらに関係した政治家が、「金輪際、二度と、私達の間で汚職が起きないよう、努力いたします」等のようなセリフを、何回聞いたことでしょうか。

つまり、私達の巨大ピラミッドの構造をした社会システム、政治システムが変わらない限り、これからも、ずっと、上のセリフ「金輪際、二度と、私達の間で汚職が起きないよう、、、」という、この手のセリフを、多くの人々は永遠に聞くことになるのではないでしょうか。

■:コンピューターとインターネットの出現によって実現可能となった「直接民主制」

「私達が使用している」と言われている政治システムは、民主主義です。
この民主主義システムには、2通りの方法があります。

以前書いたことを繰り返すのですが、再び引用を踏まえて書いてみたいと思います。

(『法律のことがよくわかる事典』(川口 均 監修、西東社)より)
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●EDITOR NOTE

直接民主主義と代表民主主義

わが国では、日本国憲法によって国の主権は国民にあるとされています(これを主権在民という)。

そのため本来であれば国のルールにあたる法律も、国民すべての議論にもとづいて決めるべきところ(これを直接民主制という)ですが、それはとうてい無理な話。
そこで選挙によって選ばれた代議士が、国民に代わってこれを行っています(これを代表民主制という)。

また、この代表民主制を正常に機能させていくため、すべての国民には一定の年齢に達した場合、国会議員、知事や市長、地方議会の議員などに立候補する権利やそれらを選ぶ権利、すなわち選挙権が与えられているのです。
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(引用終わり)

つまり、民主主義には2通りの方法があります。
それは、「直接民主制」と「代表民主制」です。

上の引用文に、「国民すべての議論にもとづいて決めるべきところ(これを直接民主制という)ですが、それはとうてい無理な話」とありますが、以前にも書いたように、私達の科学技術の発達により「それはとうてい無理な話」ではなくなってきているのがわかるでしょう。

私達がお茶の間のテレビで見かけるアイドル・グループの「何とか総選挙」というものが、実施されていることに気が付きます。
インターネットを利用したものですね。

これと同じ事が政治上でも実行できることに気が付くでしょう。

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私達の日本でも、全国民によって、法律を作りたければ、一人一人の国民の目の前にあるディスプレイ上に設けられた「はい」ボタンか「いいえ」ボタンを押すだけで、その法律に対する賛否を集計できます。

しかも、インターネットを使っていますから、それはコンピューター制御なので、一瞬の内に集計が終わり、ほとんど、瞬時に、テレビ画面の上に、その法律の採決の票数結果が表示されるでしょう。

これにより、全国民の手によって、法律を制定できますので、民主主義の本線であるところの「直接民主制」の実行が可能である、と私達はわかるでしょう。

この「直接民主制」の実行が「それはとうてい無理な話」ではなく、私達の科学技術の発達により、理論上、無理ではなくなったことが現実に私達にわかるでしょう。

そして、過去、「(直接民主制は)それはとうてい無理な話」と、過去、言われていたので、間に合わせの手段として、私達がテレビの中でも、現在、よく見かける政治スタイルの「代表民主制」が行われていたのだ、と気が付くでしょう。

ですから、「直接民主制が可能となった」と、民主主義の本線で行けそうなので、当然、人は以下のように考えるのではないでしょうか。

  「民主主義の本線である直接民主制の、実行可能ラインが見えてきたので、私達は、それの導入を進めた方が良いだろう」

と。

インターネットを使用した投票で考えられる課題としては以下のものがあります。

それは、サーバー・コンピューターがハッキングされて、投票結果を改竄されたりするケースです。

この課題自体はあるでしょうが、いずれにしても、政治システムにコンピューターとインターネットを導入することにより実現する「直接民主制」によって、読者の方々も「税金を大幅に省くことが出来るだろう」と気が付かれるでしょう。

また、「直接民主制」の実行によって、いわゆる、「政治上の権力者」という存在が無くなるのにも気が付かれるでしょう。

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読者の方も気が付くでしょう。

要するに、現在、私達が見かけているところの政治家というものが必要無くなるのだ、と。

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この民主主義の本懐(ほんかい)は、「国民一人一人が政治家だ」というのが目的なのです。

ですから、上に書いたように、国民の一人一人がインターネットによる、法律制定等のための投票を行えば、つまり、「国民一人一人が政治家だ」というのも実現できることもわかるでしょう。

日頃は「私達が見かけている『政治専門』と呼ばれる人々が『政治家』だ」という認識がありますが、「直接民主制」が実現されれば、全ての国民が政治家となっただけなので、世に言う「政治家」という概念が変わるだけです。

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結局、直接民主制が実行されたら、国会議事堂も不要になるし、現在見られる少数の「政治家」と呼ばれる人々もいなくなります(つまり、権力の集中が避けられます)。
そして、選挙管理委員会というのも不要になってくるとわかるでしょう。
当然、議員宿舎というものも不要になってくるでしょう。

この「直接民主制が実行される」というのは、これは現代版の大政奉還(たいせいほうかん)と言えるのではないでしょうか。

■:テレビ電話会議を使用した国会

しかし、「地域の代表者」という人々もいても良いと思います。

その人達が、全国に散らばっているその他の代表者と、会議をしたくなる時もあるでしょう。

そんな時に使用するのは、私達のお茶の間のテレビでも有名になって、もはや誰もが知っているテレビ電話会議を実行すれば良いことに気が付くでしょう。

今でも、政治の世界では、地域の代表者達が、なぜか、選挙で選ばれた後、中央都市に行って、そこに住んで、国会に出席して、話し合っている光景を私達は、よく見かけます。

しかし、現代の私達の間でも、おなじみとなった、『Skype』のような、テレビ電話会議を使えば、十分に会議が出来るでしょう。

ですから、「国の中央都市に設けられた巨大会議場で、地方の代議士達が集まって、そこで会議を行う」というのは、一時代前の会議のスタイルではないでしょうか。

また、国会議事堂の維持費とか運営費とか光熱費用を考えても、莫大な額がかかっているでしょう。
ですから、テレビ電話会議や、パソコンにつないだビデオ・カメラとマイクがあれば、「かなり、大幅に税金を省くことが出来るだろう」と、読者の方々も気が付かれるでしょう。

■:私達は、なぜ、「国」という組織を必要とするのか

しかし、それでも、「現代の巨大ピラミッド型システムのような政治機構が必要なのだ」という意見を出す方もおられると思います。

要するに、現代まで続いている「国(くに)」の政治システムですね。

ですから、ここでは、「なぜ、私達は『国(くに)』と呼ばれる概念が必要なのか」を書いてみたいと思います。

日本だと、縄文時代が終わり、弥生時代が始まりました。

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縄文時代には、日本の土地の内部には、『国(くに)』と呼ばれるシステムはありませんでした。

弥生時代になって、大陸から稲作が伝わり、大量の食料(米)が生産できるようになりました。
ある村で、美味しいお米が取れて、豊富なカロリーをその村の内部の人々は、摂取できるようになりました。

そして、その村の周囲の人々が、そのお米を略奪したり、その稲作システムを奪取しようとしたところから、村の内部の人々と、村の外で暮らす人々との間で、戦争が起こるようになったそうです。

この、それまで、日本の内部では、ほとんど、人々の争いは無かったでしょうが、村と村の間で戦争が起きるようになり始めました。

この時代のことを、隣の国、中国の古書(魏志倭人伝)によると『倭国(わこく)大乱の時代』と表現されています。

多発する当時の戦争の原因について書くことも出来ますが、要は、私達の間での「国の成り立ち」というのは、「他国との戦争に勝って、自分達が存在を続けるため」と書けるでしょう。

弥生時代の『倭国大乱の時代』の表現を見ても、わかるように、当時は、隣村の侵略を防ぐために、人々は戦争の用意をしないといけなかったのでしょう。

この戦争状態だと、多くの人は、現代に見られる巨大ピラミッド型システムを必要とするのです。

その巨大ピラミッド型システムは言ってみれば、一人の巨人です。

その巨人には、頭脳と呼べる分野の人々が必要で、目と呼べる分野の人々も必要で、腕と呼べる分野の人々も必要で、足と呼べる分野の人々も必要です。

このような人々の分業化により、村中の人々が集まって、一人の巨人と化すのです。

そして、この「一人の巨人」のちからによって、隣村からの侵略行為を防ぐのです。

この「一人の巨人」を生み出す習わしが、今の今まで続いて、私達が現に見かけている巨大ピラミッド型システムが存在しているわけです。

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ですから、私達の住む地球には、様々な国がありますが、もし本当に多くの人々が政府の必要無しに、共に協調して、楽しく生活するのならば、国の中央におかれている「政府」というものが必要無くなることがわかるでしょう。

逆を言えば、私達の周囲の土地に、私達の敵と思える人々がいればいる程、「私達は政府というものを欲するのだ」となることがわかるでしょう。

そう、国というものは、その役目のほとんどが、「外敵から身を守るために存在している」とわかるでしょう。

外敵というものが存在しなくなれば、政府というものの必要性が薄れますので、逆に言えば、政府の人々は、「私達には外敵と見える人々がいるので、私達は存在価値があるのだ」と、なるでしょう。

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この外敵作りの遠因として、各国の間で、何らかの競争をさせるのも、ある意味、国家存在を守る手段ともなることがわかるでしょう。

例えば、「私達の国よりもA国やB国の方が競争に勝っている」と、多くの人々に伝えておけば、その国の内部の人々は、「A国やB国に負けてはいけない」という心理が働くので、そこに、A国やB国と、それらの人々の国の国境線の色を強く引くことが出来ることがわかります。

そして、それらの人々は、以下のように考えることでしょう。

  「A国やB国に負けてはいけない。だから、政府の人々を頼ろう」

と。

こうなってくると、政府の価値が高まるので、つまり、政府の人々にとっては、ありがたい話となるでしょう。

要は、世界中の人々が、それぞれ自発的に、仲睦まじく、共に助け合って生きていければ、私達の間に政府というものの存在価値は低くなることがわかるでしょう。

■:代表民主制の落とし穴

また、私達は「政治的な詭弁(きべん)」についても、考えることが出来ます。

例えば、ある政治家が以下のように言ったと仮定します。

  「私は、国民の意見を国政に反映させたい」

と。

なんとなく、よく私達が耳にする言葉のような気がしますが。

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その政治家の地元の人々の大勢の意見が一致して、例えば、それらの大勢の人の意見として、「私達(その地元の大勢の人々)は、この公共工事の必要性を認めない」となったとしましょう。

その意見を、その政治家が政治に反映させようとしますが、何らかの都合の結果、「私(その政治家)は、この公共工事の必要性を認める」となったとしましょう。

すると、議会の場に、その政治家は、その地元の大勢の人々の意見とは違う内容を出すことになります。
しかし、「その政治家も国民の一人である」と私達は気が付くでしょう。

ですから、議会で、その政治家は以下のように主張できることに、私達は気が付くでしょう。

  「私の地元では、大勢の人々の意見として『この公共工事の必要性を認めない』となりました。しかし、私個人としては、後によく考え直したところ、『この公共工事の必要性を認める』となりました。ですから、私の意見は少数派となりますが、私も国民の一人です。ですから、国民の意見として(自分の意見として)、『この公共工事の必要性を認める』と議会で主張することが出来ます。私の意見は少数派の意見となりますが、私も国民の一人なので、自分の意見も国民の意見なので、この議会の場で推すことが出来ます。自分一人の意見も国民の意見と言えますので。私も国民の一人なので」

と。

つまり、議会の場で、その地元の大勢の人々の一致した意見を、堂々と否定し、彼が全く、その逆の個人的な意見を推すことも可能だ、と、わかるでしょう。

ですから、上に書いた仮の政治家のセリフ「私は、国民の意見を国政に反映させたい」は、以下のように書きなおせるとも気が付くでしょう。

  「私は、(自分自身という名の)国民の意見を国政に反映させたい」

と。

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つまり、このような、詭弁とも思えるような形で、自分一人の意見を貫くことが、議会でも実行できることがわかるでしょう。
なぜならば、その政治家も国民の一人なのですから。

この手段を使えば、結局、「自分一人のための政治が実行できる」となり、「たとえ、民主主義政治の実行下でも、独裁政治と呼べるものが実行可能だ」と人は気が付き始めるのではないでしょうか。

これが「なぜ、実行可能なのか?」と、私達が考えるに、「これは、現代まで続いている代表民主制の民主主義政治の欠陥あるいは落とし穴だ」と感じるのではないでしょうか。

■:代表民主制が導く方向として

外国でも、選挙カーが走っているかどうかはわかりませんが、選挙に立候補した人が、選挙カーに乗って、マイクで以下のように言っているのを記憶しています。

  「どうか、私に政治をお任せください」

と。

そして、有権者の中でも「あの人に政治を任せよう」ということで、投票する人もいると思います。

私は、これは良くないと思います。
人は、自分の幸福は自分で作らないといけません。
しかし、「誰かに政治をお任せし、その政治家(その当選した立候補者)が、政治を実行することにより、投票した有権者達(私達)に、幸福を配ってくれる筈だ」あるいは「他の人(政治家)が私達(有権者達)に幸福を持って来てくれる筈だ」という考えになり、こうなると、その投票した有権者達が次第に、依存的な性格になるように感じます。

「依存的な性格」というのは、わかりやすく書くと、「甘えの心」です。

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依存的な性格というのは、その性格を持つ人の、自立心を妨げます。

今の代表民主制というのは、これは結局、「政治を、少数の人達にお任せしよう。そうすることにより、その少数の人達が、私達に幸福な生活をもたらしてくれるだろう」という、他者(立候補者達)に対しての、お頼みの精神、つまり、依存的な性格の形成を助長しているように見えます。

また、ここまででわかるものの一つに、今までは、本来ならば、民主主義は直接民主制で行われなければいけないところを、時代環境が整わなかったので、いた仕方なく、仮の政治システムである、代表民主制が実行されていたのだ、と気が付くでしょう。

私達がテレビや新聞で、よく見かけている政治システムは、代表民主制であり、つまり、これは「仮の政治システムだったのだ」と、私達が思い出せば、当然、「真の政治システムであるところの、直接民主制を実行しないといけないだろう」と、自然になるでしょう。

■:終わりに

ですから、私としては、民主主義の本懐であるところの、直接民主制の実現可能ラインも見つかった事ですので、直接民主制の実現・実行を多くの人々が願えば良いのではないかと思います。

本記事は長くなりましたが、ここまで読んで下さり、ありがとうございました。


                                        坂本  誠

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