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2017年2月 3日 (金)

三千七十: 美しい風景を見ながら(独白)

私は昔から旅行が好きだった。
「自分の好きなものに理由は無い」と言われるけど、旅行に関しては、私もそうなのかも知れない。

しかし、心の中をよく見ると、旅が好きな理由を幾つか見いだすことができる。

私は美しい自然を見るのが好きなタイプだ。

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だから、都市型旅行よりも、どちらかというとアウト・ドアの旅の方を好む。
(と言っても、都市型観光を楽しむ時もある。)

美しい景色を見ていると、心が和む(なごむ)。
美しい景色を見ていると、自分のいつも見ている風景とは違って、心の中に新しい風が吹き込むかのようだ。

そして、日々の自分の課題とする出来事を、いつもとは違った角度から接することができる。
そのような経験を積むことも、又楽しい。

しかし、もっと面白い事を考えてしまう。

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例えば、多くの人が「景勝地」と呼んでいるような場所に訪れてみる。
確かに、私もその景勝地という風景に美しさを感じてしまう。
きっと、多くの過去の旅人達も、その美しさを感じ続けたからこそ、そのような土地は「景勝地」とされたのだろう。

しかし、どうして、人は、岩とか土とか水で作られた、つまり、無生物の塊(かたまり)で作られた、その光景を美しいと感じるのだろうか。

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こう考えると、人は他の物に対しても疑問を持ち始めると思う。

例えば、「人間の女性は美しい」と言われている。
少なくとも、男性よりは美しいと思われているのではないだろうか。
しかし、どうして、人は、人間の女性に対して、「美しい」と感じるのだろうか。

あるいは、美しい絵とか、しなやかな身体を持つ猫の肉体でも美しいと言われている。
どの部分の、どの個所が、どの状態であれば、「美しい」というものを定義できるのだろうか。

だから、例えば、多くの人が「この絵は美しい絵だ」とか「この猫は美しい」と言っているのに、他のある人がやって来て、その絵や猫に対して「なんて、醜い絵や醜い猫だろう」と感じても良いわけだ。

あるいは、人によっては、都会の中でゴミが散らかっている場所を見て、それに美しさを感じても良いわけだ。
また、同じ理由から、景勝地とされている観光地の風景を見て、「なんて、汚れた場所だ」と感じても良いわけだ。

つまり、「美しさ」というものを、人はしっかりと定義することは出来ないことがわかる。

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にもかかわらず、多くの人は「これが美しい」とか「こちらの方が美しい」と、評価することができるのだ。

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これ自体に不思議を感じてしまう。

なぜならば、冒頭で挙げた例のように、多くの先人達が美しい景色や風景を感じてきたからこそ、その土地が人々の間で景勝地になり、観光地となったのだ。

昔から、多くの人々がその土地にやって来て「他の場所とは違って、明らかに美しさを感じる」等と評価してきたので、その土地は人の間で景勝地となったのだ。

当然、同じようなことは絵画のジャンルにも当てはまる。

だから、ほとんど、例外は無いと思われるのだけど、都会のゴミが散らかっている場所を見て「その場所が美しい」と感じる人は、ほぼいないこともわかる。

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ということは、「美しい」というものに対して、本来数値化することは出来ないけれど、人の心の奥底には美しいものに対しての、共通したセンサーのようなものを持っていることがわかる。

人は、その共通したセンサーを持っているからこそ、例えば

  「あの景色って、とっても美しいよね」

と聞かれた時、それに対して、間を置かずに相槌を打って

  「ほんと、とても綺麗な景色だよね」

という返答を返せるような会話が成り立つことがわかる。

この、人の心の奥底に共通に埋め込まれた「センサー」と呼ぶべきものを、なんと表現すべきかはわからない。

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ここまで来ると、読者の方には、「これは波動の関係で、、、」という一文を浮かぶ方もいるだろう。

だから、「波動の高いもの」とか、その類のものが、美しい風景を作っているとするならば、その波動と私達の心の中にあると思われる「センサー」との関係を知りたくなってもしまう。

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いずれにしても、美しい風景を前にしていると、そんなことも深々と考え込んでしまう時がある。
それは一種の瞑想状態なのかもしれない。

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私の住んでいる九州には阿蘇山がある。

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最近は地震の影響で行ってないのだけど、時折、阿蘇までドライブに行ってみる。

そこで、美しい風景に見とれつつ「美しさとは何だろう?」を考え込むと、上のような、つれづれなる文章が出来るのかもしれない。

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以前に書いたことだけど、私は過去、中国の上海から来た二人の中国人と友人同士の関係となった。

その二人の中国人は彼等の用事のせいで、何年間か私の地元に滞在していた。

その二人の中国人も、しきりと阿蘇山に行きたがっていたことを、今でも思い出す。

テレビや新聞でも、しばしば報道されているように、多くの中国人や韓国人が阿蘇に訪れる。

また、それだけでなく、私が行った時でも、阿蘇の山上には、ヨーロッパからの多くの外国人達がいたケースも多々あった。

この状況から見ても、人の心の奥底に共通に埋め込まれた「センサー」は、どうやら、確実に動作しているらしい。

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私の友人である二人の中国人が、過去、私に言ったことには、

  「阿蘇の近くに暮らせて、あなたは、とても幸せだよね」

と。

万人の心に内蔵されたと思われる「センサー」があるので、外国人であろうと、古(いにしえ)の人であろうと、共通の話題や、何かを鑑賞する時に、心底に響くものや、心の琴線をつま弾くものを、同時に感じることができる。
(いと、いみじ。)

そして、私達はお互いに感じたことに対して、間髪を入れずに相槌を打って、談笑することができるのだ。

旅先の美しい土地で、人の明るい笑い声が、春の雲雀(ひばり)の声の舞い上がるが如く、青空に軽く響き渡り、柔らかい草の上を、共にそぞろ歩きする一時は、なんと牧歌的な光景であることか。

美しい風景に戯れつつ、「美しさ」そのものに思いを巡らすことも、私達にとっての面白いことではなかろうか。

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                                        坂本  誠

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