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2016年8月14日 (日)

二千九百六十六:ゲーム(独白)

どんな人でも、人生の一時期にはゲームにふけった記憶があると思う。

私は、小学校の時に、よくゲームを覚えた。
将棋とか囲碁とか麻雀だった。

将棋と囲碁に関しては、興味深いことがある。
私は、囲碁よりも将棋の方を好きになった。

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だから、将棋の方は強くなったのだけど、囲碁の方は次第に忘れていく事になった。
だから、今でも、囲碁の差し方がわからない。
というよりも、囲碁の差し方を全く忘れてしまった。

将棋と囲碁を覚えた人にとって、たいていの人の場合、どちらか、一方に熱中してしまうようだ。
だから、一方をほとんど忘れたり、あるいは、あまり強くならないようだ。
たとえば、将棋を好きな人は、ほとんど囲碁を忘れてしまう。
逆に、囲碁を選んだ人は、将棋を忘れてしまう。

自分の好きになった分野を研究するあまり、他方をよく学べないらしい。
だから、将棋も囲碁も、同時に強い人を、ほとんど見かける機会が無い。

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やはり、小学校の時に、麻雀を覚えた。

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この麻雀は奥が深い。
自分の手役を揃えるゲームなのだけど、対戦ゲームにもなっている。
また、麻雀は偶然だけのゲームではない。

将棋や囲碁に代表されているように、きちんとしたセオリーがある。
このように偶然の要素(確率)と技術(本人の腕)が絡み、かつ、その手役の組み合わせは、極めて膨大な数に上るので、麻雀にかなり奥深いものを見た人は多いと思う。

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ゲームに、はまった時期もあったが、最近は、落ち着いてきた。

麻雀の場合だと、たしかに綺麗な手役を上がると楽しくて嬉しい。
気付いたのだが、ゲームに勝った時の喜びとは、「楽しい」とか「嬉しい」と言ったものだ。
しかし、それらの喜びは、「心の奥底からこみあげてくる深い感動」ではない事に気が付く。
美しい景色を見た時とか、何らかの人間関係の際に、心の奥底から吹き上げてくる「深い深い喜び」ではない事に気が付く。

ゲームで勝つ時の喜びは、どこか、心の表面上、つまり、比較的、心の浅い部分での、「はしゃぐような喜び」とも言えるだろうか。

だから、最近では、あまりにも、ゲームに没頭しなくても済むようになった。
しかし、ゲームなのだから、大いにはしゃいでも良いので、遊ぶ時は遊ぶ。

つまり、「浅い喜び」とか「深い喜び」というように、喜びにも違いがある事がわかったので、使い分けているように感じる。
どちらの喜びも、うまく使い分けた方が良いように感じる。

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学生の頃、友人に誘われて、競輪とかパチンコをしたことがある。
私は、これらについては、そのゲームに面白さを感じることが出来なかった。
競輪やパチンコをやっていたら、あっという間に、お金が消えたり、あるいは、自分の気付かない内に、パチンコの玉が全部無くなっていた。

競輪やパチンコの好きな人ならば、その面白さを語る事が出来るのだろうけど、現に、私を誘った友人は、競輪とパチンコの面白さを私に語ったのだけど、私にはその面白さを感じることが出来なかった。

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この手の面白さを追求すると、ゲームを追求するのだけど、ゲームの手を休めて、奥深い喜びを求めたくなる。
私にとって、奥深い喜びとは美しい風景を見た時に起こる事が多い。

「美しい風景を見る」、つまり、「景勝地への旅」ということになる。

多くの人も、美しい景色を見ただけで、奥深い感動をした経験があるだろうけれど、なぜ、「美しい風景を見る」ことが、人の心に感動を与えるのかは、きっと誰にもわからないことだと思う。
これは一つの謎だと言えると思う。
だから、この点においても、私達の身近な場所にも、多くのオカルトが潜んでいると思う。
しかし、誰も、その手のオカルトに対して、不思議さを感じる人はいない。
その「そのオカルトに対して、不思議さを感じる人はいない」という、その点自体も、一つのオカルトだと感じてしまう。

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これと似たようなものは、幾らでもある。
例えば、「なぜ男女は愛し合うのか」とか「なぜ、私達はお腹が減るのか」とか「なぜ、人は美しいものに惹かれるのか」と言ったことだ。
私達の身近にありふれて、触れることの出来る場所に、このような考えてもわからない疑問が多く存在している。

だから、かえって、「私達の身の周りはオカルトだらけだ」と言えるかもしれない。
この手のオカルトを考えていても、解明することは出来ないのだから、「私達はオカルトを解明できずに終わるだろう」とも言えるかもしれない。
二千九百五十八:オカルトがオカルトで無くなる日』と言うものを書いたのだけど、その段落では、「いつの日にか科学技術の発達で、全てのオカルトは解明できるだろう」と言う手合いの事を書いたのだけど、これとは全く逆に、「私達はオカルトを解明できずにそのまま終わるだろう」とも言えるかもしれない。

こんなことを書いている間に、一つの言葉をなんとなく思い出していた。


 「奇跡は誰にでも一度おきる。だがおきたことには誰も気がつかない」

              『わたしは真悟』(楳図 かずお 作)より引用

  Everybody has had a miracle once .
  But , nobody has realized the miracle at all .

                 quotation from "MY NAME IS SHINGO ."
                   Author:Umezu Kazuo




                                        坂本  誠

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