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2016年2月25日 (木)

二千八百四十四: 北九州市について_No.3

二千八百四十二:北九州市について_No.2』の続きです。
参考文献:『北九州の100万年』 監修:米津三郎 海鳥社

■:北九州市の歴史概観

■■:昔の行政区分から感じる事

北九州の歴史について書いてみたいと思います。
北九州市だけでなく、北九州市近郊にも手を伸ばして書きます。

九州には、昔、以下の六つの国がありました。

豊国(とよのくに)、筑紫国(ちくしこく)、火の国(ひのくに)、日向国(ひゅうがこく)、薩摩(さつま)、大隅(おおすみ)

六つの国しかないですね。
ところが、大和朝廷の律令体制の整備の結果、上の豊国と筑紫国と火の国が分割されました。
その律令体制実行がされたのは、大体、西暦700年ぐらいだそうです。

豊国が豊前(ぶぜん)と豊後(ぶんご)、そして、筑紫国が筑前(ちくぜん)と筑後(ちくご)、火の国が肥前(ひぜん)と肥後(ひご)に分割されました。
その結果、

豊前国、豊後国、筑前国、筑後国、肥前国、肥後国、日向国、薩摩、大隅

の9つの国となります。
ですから、日本の地名である「九州」という言葉は、おそらく、西暦700年ぐらいに実施された律令体制実行の後で付けられたのでしょう。
それ以前は6つの国ですから、「六州」というのが、この島の名前だったかもしれませんね。

この内、肥前国は現在の長崎県、佐賀県が中心です。
肥後国は現在の熊本県が中心です。
筑後国は現在の福岡県の南部、つまり、柳川市とか久留米市が中心でしょう。
筑前国は、現在の福岡県の福岡市(博多)と北九州市の西部が中心です。
豊後国は、現在の大分県が中心でしょう。
そして、豊前国は、現在の福岡県の豊前市とか行橋市とか北九州市の東部が中心でしょう。

北九州市の地理上の中心付近に、八幡東区(やはたひがしく)と戸畑区(とばたく)があります。
そこに境川(さかいがわ)という川が流れています。
その川の東側が豊前国でした。
その川の西側が筑前国でした。

ですから、北九州市の東半分は豊前国であり、西側の半分は筑前国でした。
現在の日本の地理上の行政区分の多くは、大昔からあった行政区分を受け継いでいる事が多いです。
ですが、この北九州市の区割りについては、江戸時代以前に存在していた区割りと違っているので、この行政区分は珍しいそうです。
なぜ、北九州市が昔の豊前国と筑前国の二つを吸収するようにに、現在の地域区分がなされたのかは知りません。

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ちなみに私としては、西暦700年ぐらいに実施された律令体制による区分けより前の地名が好きです。
豊国(とよのくに)とか、筑紫国(ちくしこく)とか、火の国(ひのくに)という名称の方が良いと感じます。

豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)という名称は、漢語読みなので、中国的な感じがします。
それよりも、大和言葉で表された豊国(とよのくに)とか、筑紫国(ちくしこく)と表現されたする方が、美しい響きを持っていると思います。

ともあれ、北九州市は豊国から生まれた豊前国と筑紫国から生まれた筑前国の二つを吸収した土地となっています。
この辺りも、複雑な北九州市を感じます。

実際、北九州市の中心都市は、現在、豊前国のあった小倉という街が中心となっています。
しかし、北九州市の副都心は、西側にある黒崎という街が指定されています。

ですから、北九州市は訪れてみても、東と西側で、少しばかり文化が違うのです。
北九州市の東側は豊国(とよのくに)であり、北九州市の西側は筑紫国(ちくしこく)です。
確かに、同じ日本の隣接した区域だったのですが、長い間、地名も分けられていた事もあり、東の北九州市民と西の北九州市民では、ちょっとばかり、意識が違っています。
この辺りも、「北九州市は文化のミックス感のある街」と感じられるでしょうか。

しかし、私の個人的な思いですが、今でも、北九州市の東側地帯を「豊国(とよのくに)」と読んだ方が、カッコいいような気がしますが。

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■■:北部九州の古代の中心地帯

古墳時代以前から奈良時代まで、北九州の中心地域は、現在の瀬戸内海側に存在していた事が知られています。
現代の北九州の中心は、街が存在している小倉と言われています。

ですから、この時代の移り変わりも面白いと感じます。
4世紀から7世紀までは、現在の京都郡苅田町(みやこぐんかんだちょう)とか行橋市(ゆくはしし)が、豊国(とよのくに)の文化の中心だったそうです。
なぜならば、この辺りに古墳がたくさんあります。
その古墳も前方後円墳も多数あるので、古墳時代には、この辺りに力のある豪族がいたことがわかります。

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■■:北部九州での銅の産出、採銅所

歴史的に面白く感じるのは、現在では北九州市に隣接している田川郡香春町(たがわぐんかわらまち)に存在している採銅所(さいどうしょ)です。
この採銅所(さいどうしょ)は、日田彦山線(ひたひこさんせん)の駅名にもなっています。

香春岳(かわらだけ)のふもとに、神間歩(かみまぶ)という名前の洞窟が残されています。

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この洞窟は銅を採掘していた跡なのです。
この洞窟からは、主に銅が産出されました。
また、黄金、水晶、鉛も産出されたそうです。

かなり古い時代から銅が産出されていたそうです。
そして、この洞窟から200、300メートルぐらい離れた場所に清祀殿(せいしでん)と言われる神社風の建物があります。

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この清祀殿で、銅を精錬して、様々に加工していたそうです。
特に、銅製の鏡を作っていたそうです。
清祀殿の奥に位置する木の背後に3つの岩があります。

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その岩の上に作成されたばかりの御神鏡を供えて、神に鏡製造を報告したそうです。

西暦720年(養老四年)、宇佐神宮に、その銅製の鏡を奉納したそうです。
そして、西暦1723年(享保八年)に、御神鏡の製造が中止されたそうです。

意外と知られていないのですが、この神間歩(かみまぶ)からの当時の銅の産出量は高く、『北九州の100万年』によりますと、奈良時代では、日本の銅の半分を、この神間歩(かみまぶ)で産出しており、日本全国に銅を出荷していたそうです。
その量は、政府である大和朝廷に納めていただけでも、一年間で、約1510kg(2516斤10両2分4銖)だそうです。
大和朝廷以外にも、寺とか神社とか、その他の場所に銅を輸出していたと考えられますから、その時代では、銅の産出量としては、日本一ぐらいだったと考えられます。

ですが、さすがに時代が下るにつれて、他の場所でもっと上質な銅が産出されたり、外国からの銅の輸入があったりもしたのでしょう。
現在では、この神間歩(かみまぶ)での、銅の産出は行われていません。
ですが、現在でも、この洞窟、神間歩(かみまぶ)に入って、掘ってみたら、多分、幾ばくかの銅が産出されるのではないでしょうか。
しかし、現代では、神間歩(かみまぶ)の前には、写真のように鉄柵が設けられており、人が立ち入り出来ないようになっています。

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現在では、香春岳(かわらだけ)は、セメントの産出で有名です。

続きは、次回に。

(以下、過去記事、関連記事、及び、参考文献)
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『二千八百四十二:北九州市について_No.2』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/02/_no2-d208.html

■:北九州市の特色
■:関所の町
■:北九州市の地形

『二千八百三十九:北九州市について』
http://hikari-to-kagayaki.blog.bbiq.jp/blog/2016/02/post-c75d.html


                                        坂本  誠

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